20.それぞれの
ケイが案内された先は、三階にある、以前使っていた部屋だった。静まり返った室内には、埃よけの布がかけられた家具がそのまま放置されている。
──あの時のままだ。
すっかり片付けられていると思っていた。そこに父の隠された思いを見るようで、なんとも言えない複雑な気持ちになる。
時間が止まった室内の、中央に置かれたソファだけが布を取り払われ、鮮やかな深紅のビロード張りの布地が見えていた。触れば昔の記憶が甦る。
──ここに座って、いつも本を読んでいた。
十七でこの邸を出るまで、暗い思いを抱えてずっと。ケイにとって、諸手を挙げて継ぎたいと思える家業ではなかった。
そこに座り、今後の計画を立てる。部屋の外には見張りがついていた。ケイが蓬生家、前当主の息子と分かっているから、高圧的ではなかったが、油断なく目は光らせている。
カイルの提案を呑むつもりはさらさらなかった。かと言って、ヒロを連れて帰ることも出来ない。
──それなら。
ヒロを連れてここから逃げる。塀のこちら側にいる間は、カイルもあちらの住人に手は出さないだろう。いくら脅した所で、こちらにいる間は、壁の向こうで何が起こっても、知りようがないのだ。脅しの材料にはならない。
ケイは天井に目を向けた。
──ここに、ヒロがいる。
幽閉するなら、丁度いい部屋が四階にある。来客用に備えた部屋で、そこだけで生活することもできた。しばらく滞在させるつもりならそこだろう。
ここに住んでいたケイにとって、邸のことで知らないことは何もなかった。主しか知らない抜け道も知っている。それは、病に臥せっていた祖父に聞いたものだ。
主寝室から、すべての部屋に通じている隠し通路があるのだ。それは、邸の外へと繋がっている。単に逃げるために作られた道なのか、別の目的があったのかは定かではないが、今はそれが大いに役立つ。
──ヒロを連れて、逃げることができるだろうか。
警備はかなり厳重だ。もし、仮に逃げたところで、すぐに追手がかかるだろう。それをかい潜ることができるのか。それに、一生逃げ続けることになるかもしれない。
──それでも。
このまま、カイルの思い通りにさせるつもりはなかった。
◆
『ロブ、彼の様子はどうかな?』
受話器の向こうの声は穏やかだ。ロブは心のうちでため息をついた後、
「──今は特に。落ち着いています…」
『そうか。取り乱しているかと思ったが…。──まあいい。このまま監視を続けてくれ』
「わかりました。──その…ヒロはどうなるんでしょうか?」
『気になるか?』
「はい…。──長く、一緒にいたので…」
最後には殆ど仲間のうちに入っていた。
当たり前のようにここにいて、ユージンはじめ、ここに集う連中の世話に明け暮れていた。
初めの頃こそ、緊張が解けず距離もあったが、今ではすっかり打ち解け心を許していて。そこにいるのが当たり前だった。
『…そうだったな。君には話しておこうか。──彼はここに残すつもりだ。私の手元に置く』
その言葉に、相手が誰かを忘れ、思わず聞き返す。
「手元に? 届けがあったんじゃ…」
『後見人を私へ引き継ぐ。今、私の邸にヒロの後見人がきていてね。彼から正式に引き継ぐのだよ。そうすれば、ユージンから奪う事にはならない。ユージンとヒロが、今後一緒になることはないが、ヒロはこの先もずっと私のもとで生きることになる』
「──そう…なんですか」
ユージンが聞いたら何というか。
『そういうことだ。──くれぐれも、この件は内密に。ユージンに知られると厄介だからな』
「…わかりました」
それで通話は切れた。
電話の相手は、ロブの本当の雇い主カイルだ。
元々、カイルの元で護衛をしていた。ユージンがカイルの元を抜けたあと、その監視のためにカイルに指示され、ユージンの仲間となったのだ。
流れ者を装ってユージンのもとに居ついたのだが、そのうち馬が合い、もう一人のヤートと共にユージンに重用されるようになった。
ヤートは本当に流れ者で、同じころ仲間に加わった男だった。
カイルには逐一、ユージンの動向を報告するように言われている。ユージンに知られれば、制裁ものの裏切り行為だ。けれど、やらないわけにはいかない。
ロブには、早々に亡くなった両親の代わりに自分を育ててくれた祖母がいて、彼女の生活を保証する代わりに、この仕事をするよう指示されたのだ。
要は人質を取られたのも同じ。もし、指示を無視すれば、祖母がどうなるか分からない。ロブには言われた様にするしか手がなかった。
──けれど。
別れ際、自分を抱きしめたヒロを思い出す。
ヒロは何も知らない。自分が裏切り者で、カイルと繋がっていたことなど。
──ヒロには幸せになって欲しい。
カイルのもとで幸せになれるとは、到底思えなかった。
◆
「ユージン…」
部屋の窓枠に腰かけ佇んでいると、遠慮がちなノックの音が響く。
その夜、自室にいたユージンのもとへロブが訪れた。
いつもは見回り前、リビングにいてヒロと過ごしていたのだが、そのヒロはもういない。それを突き付けられるのが嫌で、自室へと引きこもっていたのだ。
ヒロがいなくなって、家の中が音をなくしたようにしんとしていた。
ヒロがいた時は、様々な音が聞こえていた。
洗濯機を回す音、食器を洗う水音、廊下をサンダルでパタパタ駆ける足音。
皆に明日の夕食のリクエストを尋ねたり、夜回りでの珍事を聞いて大笑いしたり、洗濯物をためる連中に小言を言って回ったり。ユージンが激しく動き回ったことで破ってしまったワークパンツを、ぶつぶつ文句を言いながら繕ったり。
様々な音があってそれが日常となっていた。
ヒロはいた間に、いつのまにか数人の部下に食器の洗い方や、洗濯の仕方、簡単な掃除のやり方に、スープの作り方まで伝授していた。
おかげで、ヒロがいなくとも、夕食の片付けも掃除も、その他雑多な家事もある程度は交代で出来ることがわかった。
今晩は、ヒロが残していったシチューをまかないに、ロブとヤートが代わりを果たしていた。
「…なんだ?」
「その、耳に入れたいことがあるんだ…」
言いよどみながらも、ドアの向こうでロブが口にする。ユージンは自身しか聞こえない程度の小さなため息をついたあと。
「入れよ」
入室を許可する。するとドアが開き、いつになく畏まった様子のロブが入ってきた。
くるくると巻いた黒髪は天然なのだとか。初めの頃、ヒロが不思議がって、何度もシャワーを浴びたてのロブの髪を調べていたのを思い出す。濡れている間は直毛に近いのに、乾くとくるんと巻くのが不思議だったらしい。
ロブはしばらくその場に立っていたが、意を決したように顔を上げると、窓辺に片膝を立てて座っていたユージンに、
「…実は、ヒロのことで知らせたいことがある」
「──何だ?」
ロブは一呼吸、いれたあと、
「カイルが──ヒロを手元に置こうとしている。ある筋からの情報だ。信用できる…」
一瞬、動きを止めて、ロブを見返す。
「…届けがでて、向こうに帰るんじゃないのか?」
「それが、話が変わったみたいで…。その、ヒロを引き取りに来た後見人から、正式に役目を引き継ぐらしい。──そうなれば、ユージンから奪う事にはならないって。けど、そしたらヒロは向こうにも帰れないし、ここに残ってもずっとカイルの監視下だ。…ユージンには伝えておくべきかと──」
──その手があったのか。
印についてはこちらの理だ。壁の向こうの手続きには影響しない。しかし、なぜそこまでしてヒロを手元におきたがるのか。理由がわからなかった。
だが、とにかくそれが事実だと言うなら、ヒロの未来は明るいものになるとは思えない。
「──事情はわかった。なにか手を打とう。…けど、ロブ。おまえはそれでいいのか? お前の情報で俺が動けば、おまえの雇い主、カイルにはすぐにその情報源が誰か気付くだろう? その結果、どうなるかわかってるのか?」
「……ユージン、知って…?」
「知らないとでも思ってたのか? 他の連中はともかく、おまえは頭も切れるし、腕っぷしも強い。わざわざ俺の下につく必要がない奴だと思ってた。──で、少し調べた」
「…そうか…。けど、わかっててなぜ? 俺は、カイルに全部情報を渡してたんだぜ?」
ユージンは笑う。
「俺のことなんて、カイルは調べなくたってお見通しさ。ただ、自分に歯向かうような行動をしないか見張ってただけだ。俺にそのつもりはなかったから放っておいた。──ついでにヒロのことも探ってたんだろうが…。ヒロについても隠すことは何もない」
「そう、だったのか…」
「俺よりお前だ。俺はこれからカイルの所に話しに行く。誰に聞いたかは言わないが、あいつのことだからすぐに誰から漏れたのか察するはずだ。お前の祖母は、あいつの管理する施設にいるんだろ?」
「…そうだ。けど、黙っていられなかった…。ヒロには、世話になった。それに、もう仲間だったから…。あいつ、どんな奴にだって、隔てなく同じように接してた。怒って、小言をいって、笑いかけて。俺たちはすさんだ環境で生きてきたから、あいつのそう言う変わらなさが、たまらなく嬉しかったんだ…」
「──わかった。俺が何とかする。ここから先は、おまえとヤート、二人でやりくりしろ。皆、きっとついてくる」
「…ユージン?」
ユージンは肩をすくめてみせると、
「あいつの所に行くってことは、それなりの覚悟が必要だって事だ」
屈託ない笑みを浮かべた。




