15.印
その夜、シャワーを浴びながら、改めて鏡越しにタトゥーを見た。
残ってしまった銃創の斜め上、黒一色の細い線で丁寧に描かれた六芒星。先はすべて細く尖っていて、星の輝きを表している。大きさは五センチほどか。中心にユージンの名が刻まれていた。
ヒロが意識を失っている間、手当と同時にユージンの指示で入れられたのだとか。銃創と並んでいるから、まるでそういう図案のようだ。いびつな星と綺麗に整った星。
──ほんと。所有物って感じだな。
名前が彫り込まれているのがミソだ。付き合っている女性なら、声を上げて喜ぶのだろう。私の名前を入れてくれたの? って。
けれど、ユージンはヒロの雇い主であって、恋人ではない。それに部下の連中のように、ユージンの強さに心酔しているわけでもない。
──友人…が一番、近いんだろうな。
ユージンだって同じだろう。そんな相手に、いくら守るためとはいえ、よく大切な印を使ったものだと思う。
──大事な印なのに。
ユージンはこの印に、そこまで重い意味を持たせていないのだろう。もちろん、軽々しく使うことはないのだろうけど。ヒロへの対応も、ある程度、熟考してからのことだろう。
──なんにしても、ユージンのいう通り、普段は目に入らないのが救いだな。
いつかあちらに帰って、目に付く所にあったら、きっと隠さなければならなかっただろう。
──ケイに問い詰められるな…。
ジョシュは両腕に色々入っている。自分の好きなアニメのキャラクターもあった。あとは別れた奥さんと子どもの名前とか。
ケイは少しだけ左足首と右手首の内側。十字のクロスだった。四方の先がとんがっていて、不思議な形だなと思ったのを覚えている。普段は殆ど目につかないし、小さなものだから、気にならなかった。
けど、彼らのそれを見ても、一度も自分に入れようと思ったことはない。
──それなのに。
仕方ないとはいえ、なんとも不釣り合いなものが入れられてしまった。ユージンの所有物だと宣言するそれに、小さくため息をつくと、身体に残った泡を洗い流した。
◆
浴室を出て部屋へ戻る途中、階下から話し声が聞こえた。ユージンがまだ仲間と話し合っているようだ。
詳しく聞いていないからよく分からないが、ここのところ、いつにも増して、柄の悪い連中があちこちで悪さをしているらしい。
──縄張り争いってやつなのかな?
放っておくと、そのままそこへ居座って、さも自分の場所のように振る舞い出すらしい。色々分かっていない若い連中に多いのだとか。
特にユージンは年若い。それを知って、取って代わろうとわざわざこの地区へ来るらしい。
ついでに奥貫の讒言にそそのかされるものも多いのだとか。あの、人の良さそうな顔でニコニコと笑んでいた、ひ弱そうな男からは想像もつかない。
──何にしても、穏便に済ませて欲しいけれど。
今のところ、ヒロの日常は穏やかで順調だ。
朝食と夕食の準備、部屋の掃除にベッドメイキング、農園での仕事。休みの日は家事が終われば、リビングや中庭で本を読んだり、庭に新たに植えたハーブの手入れをしたり。
ケイと一緒に過ごした頃のようには行かないけれど、それでも、なんとか慣れてきた──慣らされたというところか。
その後、洗濯ものを干していると、中庭にユージンが現れることが増えた。
いつも洗濯ものを懸命に干している時に来るから、大抵気付かない。そして、気付いた時は椅子に座ってうたた寝していた。
テーブルの上には、飲み物や、なにかの書類や、はたまた雑誌が置かれている時もあった。でも、それらは置かれているだけのようにも思えた。
飲み物を飲んだ様子も、書類や雑誌をめくった後もないからだ。ただ、置いてあるだけ。ユージンはその傍らで腕を組み、すっかり寝入っている。
もう前のようにタオルケットの要る季節じゃない。起こさないよう、音に気をつけながら物干しを続けるのが、日課となっていた。
◆
そんなある夜、夜回りに皆が出払ったあと、玄関扉をノックするものがいた。ちょうど夕食に使った食器を洗い終え、最後の皿をかごに立てかけ終わった所だった。キッチンカウンター越しに、戸口へ視線を向けた。
──誰だろう?
今夜は珍しくユージンも一緒に夜回りに出ていた。代わりにロブともう一人、巨漢の男ヤートが待機している。
二人ともソファに座り、ロブは雑誌を捲りながら、ヤートは銃の手入れをしながら過ごしていた。
ヤートは、人懐こく気安い雰囲気のロブと異なり、スキンヘッドでかなりの強面、取っつきにくさ全開だが、穏やかで言葉数も少ない。誰かと怒鳴りあうようなことはまずなかった。
そのヤートが、ソファでくつろいでいたロブと視線を交わした後、ドアへと向かう。すでに銃を構えていた。
「──誰だ?」
「その、ミトの管理している農園で働いている者で…」
「農園? それがなんの用だ」
「今さっき、農具の手入れを終えて帰ってきたところで…。そ、それで、あまった野菜を運んできたんです…」
「名前は?」
「オルガです…」
ヤートがヒロに視線を向けてきた。本当かと尋ねているのだ。ミトの農園なら働いている者の名は全て知っている。ヒロは頷いてみせた。
オルガは中年の痩せた男だ。いつも少しおどおどしているが、性格は大人しく人が好い。
確かに作業後に、売り物に適さない野菜を分けてもらうことがあった。けれど、こんな遅くに来たことは記憶にあるうちはない。
ヤートは鍵を開け、ドアノブに手をかけた。細く開いたドアの向こう、確かに薄明かりに、おどおどとしたオルガの顔が見える。腕に木箱を抱えているのが見えた。そこからトマトやキュウリ、茄子の頭が見える。
「…そ、その、中に入れてもらえますか?」
「──いいや、そこに置いていけ」
「でも──」
オルガが困ったように眉を八の字にして、訴えるように視線だけを背後に向けた。それで何事かを察したヤートは、躊躇わずオルガの背後に向けて引き金を引く。思わず肩を竦ませ、耳を押さえた。
「!」
すぐに応じるように銃声が響いた。オルガの肩越しに放たれた弾が、ヤートの頬を掠める。オルガの悲鳴。野菜の入った箱が放り出される。
ヤートはすぐに壁側に身体を寄せた。
「伏せてろ!」
こちらに向けてロブが叫ぶ。ぽかんとして立ち尽くしていたヒロは、ロブの声に慌ててしゃがみ込む。
更に銃声が立て続けに響いた。どちらが、どちらのものなのか分からない。兎に角、襲撃を受けているのは確かだ。
相手がどれくらいの人数なのか分からないが、ユージンからロブとヤートの腕は確かだと聞いていた。だから自分がいない時は、その代わりにここを任せているのだという。
その二人がいれば、乗り切れるかも知れない。それでも、身を守る必要はあった。
──なにか、武器になるものは──。
と、目に入ったのは、使い込まれた鉄のフライパンだ。下の棚に重ねたその中の、一番厚くて大きなものを選んで柄を掴むと、震える手で握り締める。
これなら弾から身を守れるし、いざとなったら相手を叩くこともできる。なんとも、ヒロらしい武器だった。
オルガの悲壮な悲鳴がまた聞こえる。銃声が近くで響いたからだ。
「追え! ヤート、俺は裏に回る!」
ロブの鋭い声。誰かがドアを激しく開け、出ていった。遠くに聞こえる怒声、銃声。自分の心音が聞こえるかと思うほど、胸の動悸が激しくなる。
──とにかく騒ぎが収まるまで、ここにいた方がいい。
そう考えていると、ギシリと背後で床の軋む音がした。驚いて振り返れば、
「──あ…」
見知らぬ髭面の、ボサボサ頭の男がそこに立っていた。しかも、ヒロに向けて銃を構えている。
いつかと同じ、自分を狙うそれに、半年前の記憶が蘇る。あの時の痛みと衝撃。それで、身体がこわばった。
「──おまえが『ヒロ』だな? 来い!」
男の手が伸びて、ヒロの二の腕を掴み、強引に立ち上がらせようとする。銃口が背中に突きつけられた。
「やっ! 離せっ!」
一か八かだ。咄嗟に手にしていたフライパンを、振り向きざま男目掛けて振り回した。すると、かなりいい音を立てて男の顎にヒットする。
「がっ!」
男はたまらず顎を押さえて手を放す。今だとばかり、男を突き飛ばすと、転がるようにキッチンカウンターから躍り出た。足がもつれそうになるが、なんとか体勢を立て直す。
目の前には半開きのドアがある。そのまま外へ駆けだそうとすれば、背後で銃声がした。思わずそこへ身体を伏せる。
「逃げれば撃つぞ!」
さらに銃声がして、目の前のドアに穴が開いた。
──どうして僕を?
ヒロはなにもしてない。捕まえようとしている理由が分からなかった。それで、前にユージンが言っていたことを思い出す。
『ヒロが俺の特別だって思うだろ?』
──まさか、それで?
男は銃口を向けたまま、こちらに向かってくると、ヒロの腕を掴んで無理やり引き起こそうとした。
「嫌だ──!」
カメのようになって床に張り付く。こいつに連れて行かれたら、きっと酷い目にあう。それだけは分かった。
「おい! 撃つっていってんだろ? 死にてぇのか!」
ぐいぐいと銃口が背中に押し付けられる。それでも、必死にこらえた。
「──っ!」
そうして起こそうとする男ともみ合っていると、誰かが廊下のドアからリビングへと駆け込んできた。男のヒロを掴む力が、一瞬ゆるむ。
「くそっ…!」
なにがあったのかと顔をあげれば、戸口に銃を構える小柄な人物を認めた。
プラチナブロンドを揺らし、すらりと伸ばされた褐色の手には銃が握られている。
「──手を離して銃を捨てろ。今ならまだ許してやる」
──ユージン。
チッと男は舌打ちして、銃口を素早くヒロの後ろ頭に突き付けた。カチリと引き金の引かれる音。
──撃たれる──。
そう思って目をぎゅっとつむった瞬間、銃声がして男の手がヒロから離れた。間を置かずもう一発、二発と続く。どさり、と重いものが壁にぶつかる音がした。
「…?」
恐る恐る目を開ければ、床に血の海が広がっていた。血の跡を辿るように視線をあげると、横の壁にもたれるように男が倒れこんでいる。
その右手首や、両肩が真っ赤に血で染まっていた。銃はその血だまりに落ちている。
「…殺されないだけましだと思え」
男が動かなくなったのを見て、ユージンは銃を下ろした。どうやら息はあるようだ。すると、後を追って駆けつけたらしいロブの声がした。
「ヒロ! 大丈夫か? ──って、間に合ったか…」
ユージンの姿を認めたロブが、ホッとしたようにそう口にした。ユージンはすぐに指示を出す。
「そいつから話を聞く。向こうに連れてけ」
「了解」
ロブはそのまま、後から現れたヤートや他の仲間とともに、息も絶え絶えな男を引きずるように運んでいった。
ヒロは床にうずくまったまま、呆然とその様子を見つめていた。
「──どこか撃たれたか?」
ユージンが顔を傾け尋ねてくる。ゆるゆると首を振った。すると、ユージンは声をあげて笑う。
「まるで怯えたウサギか亀だな? どうしてそんなに丸まれる?」
言われて自身を振り返れば、ダンゴムシに負けないくらい、身体を丸くしてそこに蹲っていた。
──だって、捕まりたくなかったんだ。必死だったんだ…。
声を出して抗議したいけれど、あまりのことに声が出せない。
すると、銃を背にしまったユージンは、ヒロの横にしゃがみこみ、そっと背に触れてきた。そしてゆっくり撫でおろす。その手がとても温かく感じた。
「──もう大丈夫だ…。怖かったろ?」
優しい声音。
──なんだよ。年下の癖に。大人ぶって、まるで幼い子供にするみたいに。──でも。
「──っ」
身体を起こすと、そのままユージンに抱きついていた。受け止め損ねたユージンはそこに尻もちをつく。
──怖かったんだ。死ぬんだと思った。
「…大丈夫だ」
ユージンは片手でヒロの背を抱えるようにしながら、そう呟いて、落ち着くまでずっとそうしていてくれた。




