12.新たな生活
「おい、起きろ」
耳元近くで聞こえたユージンの声に驚いて目を開ける。すると、こちらを見下ろす鳶色と目が合った。光の加減で虹彩が淡く光って見える。
「──な、に…?」
「なにって、朝だ。起きろ」
言われて視線だけ窓の外へと向けた。開け放たれた窓から見える空はまだ薄紫色で、夜が明ける前だと分かる。ヒロは布団の端を掴んで引き寄せながら、
「…まだ寝てる時間だろ?」
また目を閉じる。すると、ユージンはベッドに乗り上げ、
「ここでは働かないものに、食わせるものはない。怪我が治ってないから力仕事は無理だろうけど、それ以外はできるだろ? 着替えて顔を洗ったら下にこい。台所に立ってもらう」
「…台所?」
「朝食の準備だ。夜回り明けの奴には昼飯になるけどな。スープくらい作れるだろ?」
身体を起こすと、ユージンがベッドから降りた。寝ぼけ眼で首をかしげると、
「たぶん…。でも…食事は、いつもケイが用意してくれていたから…」
「手伝ってはいたんだろ?」
「うん…」
横で眺めていた時間の方が長いけれど。
「なら、見よう見まねでなんとかなるだろ。──ほら、顔洗ってこいって。寝起き、悪いんだな?」
「…ほっといてよ。今行くから」
這いずる様にベッドから降りると、タオルを手に部屋の外の洗面台へと向かった。
確かにケイには、自分より寝起きが悪いと笑われていた。起きても寝ながら歩いていると。
その後を、ユージンはついて歩きながら、
「お前って、もう身長は伸びないのか?」
「え? うん…たぶん」
高校で受けた身体測定の身長は三年間とも同じだった。これから伸びる可能性がないとも限らないが、今の所ここで止まっている感がある。
すると、ユージンはにやりと笑って。
「ふーん。じゃあ、俺の方が高くなる可能性はあるな…」
並ぶユージンはヒロよりやや低い。
「…ユージンはまだ伸びてるの?」
「もちろん。今年は去年より五センチ伸びたな」
となると、可能性はまだある。洗面所の蛇口を捻ると、冷たい水が流れ出た。それに身体を震わせながら顔を洗うと、タオルで拭く。
「…良かったね。そのうち、僕よりも高くなるよ。保証する」
「それはどうも」
言って、ヒロのお尻辺りをポンと叩き、鼻歌交じりに階下へと降りていった。
──感じが悪い。そんなに身長が高い方が嬉しいのか。
その背を見送った後、ふと思いだした。
──まだ十六って、言ってたよな。
改めて思う。昨日の話の通りなら、まだ年端も行かない子供を、カイルは侍らせていたのだ。
──いったいどんな状況だったんだろう…。
けれど、それ以上想像するのは止めた。なんとなく、ユージンに悪い気がしたのだ。本人はなんとも思っていないと口にしたけれど、興味本位に詮索していいものではない。
──やっぱり、酷い話だ。
自分がもし、同じ目にあっていたなら、きっとそのもとを飛び出す気力もなく、ただそこに留まっただろう。カイルの言うがまま、反抗のハの字もなく。
──ユージンの言う通り、僕はちっとも強くない。
だからこそ、カイルが自分を側で使おうとした理由が分からなかった。容姿がそこまでいいというわけじゃない。美人だった母親に似ていれば違ったが、ごく普通だと思っている。
──わからないな。
背中にこの印がある限り、手は出してはこないのだろうけれど。カイルの元を出てしまった今、理由は分からずじまいだった。
◆
「それで、何人分?」
ようやく東の空が白み始めた頃、大きな鍋を覗き込みながら、ダイニングテーブルの端に腰を預けるユージンに問いかける。
「七、八人分だ。ここの根城周辺の見張りに就いてる奴の分だけだ。スープだけでいい。あとはパンを出すから。その調子で夕食も頼む。夜回りに合わせて、夜九時頃、食べられればいい」
「わかった。…上手くいくか分からないけど」
「いいんだって。なにか腹に収まれば十分だ。不安だったら全部薄く味付けしとけば、後は勝手に塩でもいれるさ」
「…もしかして、今までもそうやって作ってきたの?」
「そうだ。ここじゃ俺くらいしか台所に立てなかったからな。一度、他の連中に任せたら、中にとんでもないもの入れやがった」
「何を?」
「スープの中に、ビールにウィスキー、ウォッカにラムに、テキーラ。後はなんだったかな? ──まあ、いいや。とにかく好きなもんぶっこめばいいって、最後は薬をぶっこんでたな」
「薬って…、まさか──麻薬?」
「他にあるか? まさか痛み止めでも突っ込むと思ったか? あれは高価なんだぜ?」
「……すごいね」
感覚がオカシイ。まだ痛み止めの方がましだ。
「わかった。朝と夜、用意する…。けど、僕がまともに作れるの、スープだけだよ?」
「それで十分だ。文句は言わせない」
「そう…」
そうは言われても、毎日スープでは自分も飽きてしまう。今までケイが作ってくれた料理で一番、簡単そうなものをなんとか思いだし、メニューを増やした方がよさそうだ。
「他の根城はここまで大きくない。皆適当に済ませてるから、食事が必要なのはここだけなんだ」
「ここの他にも似たような場所があるんだ?」
「ある。それぞれ、他の地区との境に近い場所にな。ここが一番、危ない箇所だから、人も割いている。他はそう多くない」
あとで聞いたが、この地域はきちんと区分けされていて、それぞれ治めるボスがいるのだという。さらにその上にいてまとめているのが、カイルだ。
地区を治めるボスはどう決まるのかと聞けば、カイルの前で実績を示し、認められれば、上に立つことを許されるのだという。腕力だけではなく、知力もなければ認められない。
ユージンの場合は、前のボスの側近を務めていて、そのボスが年齢を理由に引退したため、後を継いだのだという。その頃には、すでに皆に認められていたのだとか。
ユージンの治める地区には千五百人程いて、それは平均よりやや多い方なのだという。人口や土地の状況、その他諸々加味した上で、決められた額を毎月、カイルに納める。
お金に限らず、相当のものでもいい。ユージンは金銭の他、工場で作られた部品や絹織物などの製品を納めていた。
「ここが一番って、どうして?」
「あの奥貫の治めている地区に接してるからだ。あいつは平気でこっちの地区に入り込んで、危害を加えたり、人を拉致したりする。そんな勝手をさせるわけにはいかないからな」
「なるほど。──で、ここに睨みをきかせてるってことか…」
話しながら鍋をコンロにかける。こちらはガスも電気も水も使える。インフラは整っていた。
けれど、それらに支払う額が、壁の向こう側とは一桁違うと知ったのは、暮らしだして数週間後のこと。送られてきた請求書を見て、飛び上がるほど驚いた。桁数を間違えたのかと、何度も数え直したほどだ。
「それで、なにスープにするの?」
「適当。野菜はそこにあるの使っていい。肉類は──ベーコンがそこに少しある」
野菜はカウンター上のカゴに、ベーコンは塊の半分ほどになったものが、皿の上に置かれていた。
「──なるほど。出汁になりそうなのは、野菜だけか…。ベーコンは風味付けってとこかな…」
「詳しいんだな?」
「そんなことないよ。見てる時間の方が長くて…。でも、野菜だけのシチューはなんとか失敗なくできるようになったんだ。──じゃがいもと人参、玉ネギ…。えーと、バターはある?」
「ああ。冷蔵庫だ」
「了解」
そうして、まな板の上で野菜を全て親指の先位の大きさに切り揃えると、少し残ったベーコンも切って、鍋にバターとともに投入する。
軽く炒めたあとその中へ切った野菜を突っ込みバターを回して絡めると、塩をふって弱火にした後、蓋をした。取り敢えず、一段落だ。
撃たれたのが右肩じゃなくて良かったと思った。今でさえ、痛むのだ。これが右肩だったら、包丁を握るのもおぼつかなかっただろう。
「水は入れないのか?」
「これでしばらく蒸らすんだ。焦げない程度に。で、野菜が柔らかくなったら、そこで水を加えて煮込む。って、これで小麦粉と牛乳があればシチューになるよ」
「小麦粉は少しならあるな。牛乳はよく売れるからなぁ。余れば手に入る」
「分かった。じゃあ、またの機会で。トマトはあるの?」
「売りものにならない傷んだのならあるな」
「じゃあ、明日はそれ使おう」
──とにかく、あるものだけで、少しでも美味しいと思えるものを。
ユージンに出された、あの味気ないスープだけは越えたかった。そうして、蓋をした鍋を軽く揺らしていれば、間近でユージンの声がした。
「なんだ。結構、料理できるんじゃないか」
驚いて横を見れば、鍋をかき混ぜる手元を、まじまじと見つめるユージンがいる。金色の髪がふわりと頬を掠めた。近すぎる距離に、つい動揺してしまう。
「そ、そんな、できるってほどじゃ…。ケイがそうやって作ってたから。ユージンは誰かに教わったの?」
「いいや。あんなの自己流だ。適当、適当」
「…だから、あんな味のないスープに──」
すると、ユージンは口先を尖らせ、
「──んだよ。メシなんて食えて腹が膨らめば何だっていいって言ったろ?」
「今度、農園のミトさんに教わればいい。きっと沢山知ってるよ」
眉間と鼻にしわを寄せ、心底嫌そうな顔を作ると、
「…めんどうくせぇ」
今までも、必要に迫られたからやっていただけで、きっと嫌々作っていたのだろう。料理上手な部下はいなかった、と言う事か。
確かにユージンの所に集まる部下達は、腕っぷしは強そうでも、料理の腕はなさそうに見えた。
「わかった…。いいよ、僕が今度教わる。ミトさんはいつなら時間が空くの?」
「いつも夕方前には家に帰ってるな。夕食済んだあとなら時間があるだろうけど…。休みの日に訪ねた方がいいだろうな」
「ね。今度、休みの日で時間があるとき、いつか聞いておいてくれる? 美味しいもの、食べたいならぜひ」
ユージンは肩をすくめて見せたあと、
「わかった…。聞いてくる」
そう答えた。
そんなやり取りをしつつ、蒸らし終えた鍋へ、人数分の水を投入した。
──あとはハーブを入れればいい感じになるんだけど。
「農園でハーブとか、調味料になるものは育ててる? 乾燥した月桂樹の葉とか…」
「あー…。月桂樹はどっかにあったな。ミトに前に貰った。後で探しとく。他のハーブも…確かミトが個人的に育ててた──と、思う…」
「じゃ、それも一緒に確認よろしく」
すると、ユージンは天井を仰いで、
「ったく、俺を雑用に使うって、ありえねぇ!」
そう声を張り上げた。
◆
正直、ユージンがこの地区をどんなふうに治めていて、どれくらい偉いのかとか、強いのかとか、考えたことはなかった。
ヒロが知っているのは目の前にいるユージンだけで、それ以上、知る必要がないと思ったからだ。
その後も、諸々の家事に奔走することになった。ユージンは、ヒロから報酬が得られないと知って、ここで働かせる方向へ転換したのだ。
食事の準備以外にも、家事を任せるようになる。即、人身売買コースにならずに済んだのはよかったけれど、かなりこき使われた。
ちなみに、ユージンも夜の店はいくつか持っていた。管理する地区にもともとあったのを少し整備したのだとか。
この前、ユージンに土下座していた男の娘も、今はその店で働いている。もちろん、すぐに接客をしているのではなく下働きだ。
その間に父親が本来の分を納められれば、家に帰ることもできるのだとか。ただ、夜の仕事は収入がいい。もしかしたら、自ら残る選択をするかもしれないとユージンは言っていた。
「よくあることさ」
ある夜、夕食が済んで食器を洗っていると、ダイニングテーブルに肘をついていたユージンがそう口にした。
手にはビールの入った小瓶が握られている。ユージンは時折、アルコールを口にした。本人曰く、仕事に支障のない程度らしい。年齢的には──とここで言っても始まらない。なんせ、車の運転もしているのだ。壁の向こうではあり得ない。
「そうなの?」
「ここで生まれた奴は皆、打たれ強いし、割り切るのも早い。生き残るためには迷っていられないのさ」
「…ほんと、僕には向かない世界だな」
ぽつりとこぼせば、ユージンが鼻先で笑う。
「ようやく分かったな?」
ヒロは口先を尖らせると、
「もっと、前から分かってたよ。──ここに来た時から…」
ユージンに運び込まれた部屋で目覚めた時から。ここで暮らすのは無理だと思った。早くケイのもとに帰りたくて。
でも、それが当分、叶わないと分かって、仕方なくここで暮らす日々が始まった。今もここは自分の生きる場所じゃないと思っている。
けれど、自分の力ではどうやってもあちらに帰ることはできないのだ。今はただ、ケイが届けを出してくれることを願って、ここで生活していくしかない。
ユージンは小瓶を傾け飲み干すと、
「そのうち慣れるさ」
そう言って、口の端を吊り上げてみせた。
けれど、慣れる、という言葉には程遠く。日々、奮闘した。なんせ、あちらで普通にあったものが手に入らないのだ。
まず、洗濯機は旧式で、二層式。洗剤も粉せっけんで、ちゃんと溶かしてやらないと、洗濯物についたままになる。
初めての洗濯でそれに気がついた。脱水をしようと、濡れた洗濯物を取り出した所で、白い粉状のものが、洗濯物にびっしりついていたのだ。見覚えのあるそれは、投入したはずの粉石鹸。
──なんでこんなことに。
それをひっつかんで、廊下にぽたぽたと水を垂らしながら、リビングのソファで何事か部下と話し合っていたユージンの元へ向かった。
「ちょっと、なんでこれ、粉のまんまなの?」
ぐっしょり濡れて水のしたたる洗濯もの──Tシャツとタオルの絡まった──を突き出す。ユージンは肩越しに振り返ると。
「って、粉石鹸だろ? なんだよ、ちゃんとお湯で溶かして使わなかったのか?」
「向こうじゃ、そんな必要無かった! だいたい、粉じゃなかったし…」
「じゃ、覚えるんだな。こっちのやり方を」
言って嫌な笑みを浮かべる。イラっとした。
結局、そのまままた廊下を踏み鳴らしながら戻って、もう一度、洗い直してその日の洗濯を無事に終えた。ちなみに乾燥機など、あるはずもなく。
掃除機はかなりの旧式で、絨毯の埃を吸っているのかどうかさえ分からない。何度かけても、絨毯の上の糸屑がそのまま残っていた。仕方ないから、代わりに箒とモップ、雑巾がけを駆使して対処する。
電子レンジなどという便利なものはなく、あるのはガスオーブンとガス台のみ。冷凍したものは、冷蔵庫で自然解凍を待つしかない。
万事が万事、この調子で。とにかく、便利な生活に慣れていたヒロは悪戦苦闘した。それでも、自分の身の回りのことは一通りやっていたから、それはここへ来て大いに役立ったが。
ユージンいわく、ひ弱で狩られる側であるヒロの、唯一の活躍の場、生きる道だということだった。




