第九話:彷徨う生霊
その頃、ラドは皇宮の中を彷徨っていた。
自分でも理由は分からない。ただ、胸の奥を強烈に引き寄せる何かの気配があるのだ。それに導かれるように、彼は長い回廊を奥へ奥へと進んでいく。
重厚な赤絨毯が敷かれた廊下には、等間隔に魔石灯が灯され、夜だというのに薄暗さはない。
壁には歴代皇帝の肖像画や巨大な装飾剣が飾られており、そこかしこから大帝国の威厳が感じられていた。
だが、今のラドにはそんなものはどうでもよかった。ただひたすら、自分を呼ぶ感覚だけを追う。
やがて辿り着いたのは、見るからに格式の高そうな巨大な扉の前だった。金細工の施された黒檀の扉。その両脇には、歴戦の空気を纏った護衛騎士たちが立っている。
並の人間なら、近づくだけでも威圧されそうな空間だった。けれど、ラドは迷わない。そのまま、すうっと扉をすり抜けた。
室内は静寂に包まれていた。
広い寝室の中央。天蓋付きの巨大な寝台に、一人の男が横たわっている。
鍛え上げられた体躯、端正という言葉では足りないほど整った顔立ち。閉じた瞳ですら、鋭さを隠しきれていなかった。
誰が見ても、ただ者ではない。呼吸はしている。だが、不自然なほど静かだった。
「これは……俺の、本体なのか?」
ラドは呆然と呟く。近づけば近づくほど、不思議な感覚が胸の奥を掻き乱した。知っている気がする。自分自身であると、本能が訴えている。
だが、考えようとした瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……」と思わず眉を顰める。記憶を掴みかけるたびに、何かに阻まれるように思考が霞んでいく。それでも、自分だという確信だけは揺るがなかった。
「厄介だな……」
ラドは苦い顔で呟いた。眠る男を見下ろしながら、しばし黙り込む。だがやがて、小さく肩を竦めた。
「……まぁいい。ようやく本体を見つけたんだ。あとは、あいつと戻る方法を探せばいい」
そこでふと、脳裏にモッサリ眼鏡の少女が浮かぶ。
『王家とか絶対関わりたくないんですけど!』などと叫びそうな顔が容易に想像できて、思わず笑みが漏れた。
「さて、急がないとな。また文句を言われる」
そう呟いたラドの表情は、どこか楽しげだった。そして彼はふわりと宙へ浮かぶと、客間へ向かって一直線に飛んでいった。
*
一方その頃。イリンカ・バサラブは、人生最大級の危機に直面していた。
(ど、どう言えば怪しまれないの!?)
冷や汗が滝のように背を流れていく。目の前には、大帝国の宰相と将軍。どう考えても、この国の中枢にいる超危険人物たちである。
そんな相手に向かって、「あなたたちのお知り合いらしき生霊と一緒に来ました」などと言えるわけがない。
絶対に変人扱いされる。いや、下手をすれば拘束される。最悪、牢屋行きだ。
(夢の脱獄隠居生活……って、それただの逃亡者じゃない!?)
頭が混乱しすぎて、思考がどんどん意味不明になっていく。
どうしよう。無理。帰りたい。
できれば今すぐフィオル王国へ帰って温室に籠もりたい。そんな現実逃避を始めかけた時だった。
「おい、しっかりしろ。モッサリ美少女」
聞き慣れた声が頭上から降ってくる。
「ちょっと、どこ行ってたのよ!かなりピンチだったんだからね!あとモッサリ言うな!」
勢いよく顔を上げ、反射的に怒鳴り返してしまった。
その瞬間。室内の空気が静まり返る。
宰相クリスティアンと、ラゴス将軍が、揃って驚いた顔をしていた。急に一人で喋り始めた怪しい令嬢。どう見ても不審者である。
(しまったぁぁぁぁ!!)
イリンカが内心で頭を抱えている横で、ラドは腕を組みながら二人を見下ろしていた。
「ふん。こいつら、きっと俺の部下だ」
片眉を上げ、当然のように言い放つ。
「…………へ?」
イリンカの顔から、さっと血の気が引いた。
この国の宰相と将軍を“部下”扱いできる存在など、一人しかいない。嫌な予感が、ものすごい勢いで繋がっていく。
ダキア帝国、金の瞳、王家の短剣、そして――宰相と将軍。
「ほ、本気で関わりたくないんですけどぉぉぉっ!!」
ついに耐えきれなくなったイリンカは、その場で机に突っ伏し泣き出した。




