第三十二話:公女たちの思惑(後編)
公爵邸へ戻ったソリナは、客間の前まで来たところで、扉の向こうから響く怒鳴り声を耳にした。
「一体、何が起こっているのだ! 我が派閥が、これほどまでに勢いを失うとはっ!」
声の主はソリナの父ミルチャ公爵だった。苛立ちを隠そうともせず、目の前に立つ配下の伯爵を激しく責め立てている。
「は、はい。それが……主要な鉱山や穀物地帯を保有している貴族たちが、こぞって脱税や違法取引の罪で次々と拘束されておりまして……」
伯爵は額に冷や汗を浮かべながら、必死に状況を説明する。
「拘束された貴族たちから、公爵様のお力添えをいただきたいとの嘆願も届いております」
「またか! 最近そればかりではないか! これでは、ウラドの思うつぼだ! 婚約式を取り潰す予定がっ……!」
――ガシャン!
怒りに任せて振り払ったミルチャの腕が、卓上の金彩を施した白磁のティーセットを薙ぎ倒した。甲高い音を立てて陶器が床へ落ち、砕けた破片と紅茶が絨毯の上へ飛び散る。
「あなた、落ち着いてくださいませ」
その惨状を前にしても、レオノーラ公爵夫人は取り乱すことなく、冷静な声で夫をたしなめた。
「大丈夫ですわ。ソリナが皇后にさえなれれば、すべて解決いたします」
揺るぎない確信を宿した声音だった。
「あの邪魔な婚約者を消せばよいのです……そうすれば、ソリナが皇后になる方法など、いくらでもありますわ」
レオノーラは、酷薄な笑みを浮かべた。
「私のお抱えの薬師に薬を作らせましょう」
その計画を思い描いているのか、レオノーラの口元がさらに歪む。
「そ、そうか。やはりお前は頼りになる。なんとしても、ギカ家に繁栄と栄華をもたらしてくれ」
ミルチャは安堵したように息を吐くと、妻の手を取った。
二人はまるで勝利を確信したかのように、満足げな笑みを交わした。
ソリナは、その一部始終を客間の扉越しに静かに見つめていた。
(お母さまは、毒の扱いに長けている……)
母の言葉を思い返しながら、ソリナはわずかに目を細める。
(なら、しばらく様子を見るのも悪くないわね。あの女が毒で死ぬなら、それで良い)
焦る必要などない。
母が用意した毒でイリンカが消えるのなら、それはそれで都合がいい。自分の計画にとって、何ひとつ損にはならないのだから。
ソリナは口元を吊り上げ、満足そうに微笑んだ。
そして、何事もなかったかのように踵を返すと、自室へ戻っていった。
*
自室へ戻り、夜着に着替えたソリナはソファへ腰掛け、カルラが淹れた紅茶を優雅に口へ運んでいた。
「気に入らないわ」
紅茶を静かに置き、冷え切った声で呟く。
「婚約式が予定通り執り行われてしまうなんて」
その言葉に、傍らへ控えていたカルラも静かに頭を垂れた。
「はい。誠に残念にございます」
「せっかく、あの女を消せる絶好の機会でしたのに」
穏やかな口調とは裏腹に、その瞳には抑えきれない悔しさが揺れていた。
カルラは慎重に言葉を選ぶように続ける。
「ですが、闇市へ侍女長補佐のエマが現れるとは思いもしませんでした。あれは予想外でございました」
その報告に、ソリナはくすりと笑う。
「皇宮の侍女が来たら禁制魔道具を売るようあらかじめ闇商人へ伝えておいたけれど……思いのほか大物が釣れたわね」
そう言うと、花瓶に飾られていた琥珀色の薔薇を一本だけ抜き取り、細く白い指先でゆっくりと弄び始めた。
「闇商人の話では、相当取り乱していたようです。どうしても消したい女がいる、と」
「エマは普段こそ忠義深い侍女を装っていたけれど、本当はお兄様への執着で心がいっぱいだったもの。あの女を殺そうと考えても、不思議ではないわね」
薔薇の花弁をそっと撫でながら、ソリナは淡く微笑む。
「エマも目障りでしたし、ちょうど良い害虫駆除になったと思いましょう」
その声音には、欠片ほどの温度も宿っていなかった。
やがて表情から笑みが消え、部屋の空気が静かに冷え込んでいく。
「……それにしても」
低く呟く。
「あの女が、あれほど美しかったとは予想外だったわ」
ウラドお兄様の寵愛を受ける女。
初めて会った時は、陰気で地味な女だと思っていた。
植物魔術医など、大したこともできない愚かな女だと侮っていたのに……。
呪いに蝕まれたお兄様が、あの女によって救われる前に始末してやろうと、元老院を焚きつけた。だが、暗殺は失敗した。
何でも、あの女を捕らえていた禁制魔道具の拘束具が壊れ、返り討ちに遭ったらしい。
(一体、どんな力を隠しているの……?)
行動力があり、高度な植物魔術を操り、咄嗟の判断力まで備えている。
「せっかく細工したドレスを、あそこまで見事によみがえらせるなんて……」
本来なら、婚約式で着るドレスを裂き、予備まで使えなくしてしまえば式そのものを中止へ追い込めるはずだった。
それなのに、予想以上に早く対応されてしまった。
まさか、切り裂かれたドレスをそのまま身にまとい、あれほど美しく仕立て直してしまうなど、誰が予想できただろう。
脳裏へ鮮やかによみがえる。
琥珀色の花々をまとい、幸せそうな笑みを浮かべながら、堂々とウラドお兄様の隣へ立つ忌々しい女の姿が。
「……イリンカ・バサラブ」
その名を口にするだけで、胸の奥から煮えたぎるような憎悪が込み上げる。
奥歯を強く噛み締めた瞬間、口の中へ鉄の味が広がった。
そして――。
いつの間にか指先で弄んでいた琥珀色の薔薇は、黒く変色し、完全に枯れ果てていた。
ソリナは枯れた花を一瞥すると、静かに微笑む。
「カルラ。害獣駆除を急ぎましょう」
「かしこまりました」
カルラは深々と頭を下げる。
ソリナは枯れ果てた薔薇を窓の外へ放り投げた。
夜風に攫われた花弁は、音もなく闇へ溶け込み、その姿を静かに消していった。




