第三十一話:公女たちの思惑(前編)
「あら、ウラドお兄様。こんな夜更けまでご公務ですの?」
静かな回廊に、ソリナの澄んだ声が響く。
「ソリナ……こんな夜更けに何の用だ」
ウラドは腕の中で眠るイリンカを抱いたまま、冷ややかな眼差しを向けた。
「舞踏会のあと、お友達とお話をしておりましたら、こんな時間になってしまいましたの」
困ったように微笑みながら、ソリナは優雅に一礼する。
「せっかくですもの。お兄様にご挨拶をしてから帰ろうと思いまして。……イリンカ様はお休みになっていらっしゃるのですね。婚約式でお疲れになられたのでしょうか」
白々しい。ウラドは胸中で冷たく吐き捨てた。
ソリナは眠るイリンカをじっと見つめると、やがてぽつりと呟いた。
「お兄様は、本当にその方を大切になさっているのですね……」
そして、ゆっくりとウラドを見上げた。その瞳には、隠しきれない熱が滲んでいた。
「初めてお兄様とお会いした時を覚えていらっしゃいますか? この皇城の中庭、深紅の薔薇が咲き誇る中に、ウラドお兄様はいらっしゃいました」
「その麗しいお姿に一瞬で恋に落ちました……その時から、ずっとお慕いしております」
ソリナは、まるでそれが疑いようのない事実であるかのように、静かな確信を込めて言葉を重ねる。
「私こそ、お兄様の皇后に相応しい女性ですわ」
そう言い切るソリナを前に、ウラドは、もはや話し合うことすら無意味なのだと悟った。
(いずれギカ公爵家と決着がつく。もう少しの辛抱だ)
「ソリナ」
低く名を呼ばれ、ソリナとウラド、二人の視線が静かに交錯する。
「俺は、お前を皇后にするつもりはない」
――お前を選ぶことはない。
言葉にはせずとも、ウラドの瞳はそう告げていた。その一言に、ソリナの肩がわずかに震える。
「そして、イリンカに何かあれば、俺は必ず相手を叩き潰す」
――イリンカへ手を出すな。
それは、明確な警告。黄金の瞳が、ソリナを冷たく射貫く。
「俺とイリンカへ何か仕掛けるつもりなら、すべてを失う覚悟をしておけ」
ソリナは目を丸くし、心外だと言わんばかりに首を傾げた。
「まぁ……怖いお顔。そんな物騒なこと、私にできるはずがありませんわ」
わざとらしいほど驚いた表情を浮かべたあと、今度は悲しげに目を伏せる。
「お兄様のお気持ちが、すべてイリンカ様へ向いていることくらい、私にも分かっております」
その言葉も、悲しげな表情も、ウラドの心を動かすことはなかった。ウラドはそれ以上何も答えず、静かに踵を返す。
「行くぞ」
短く言い残し、そのままイリンカを抱いたまま歩き出した。
ソリナは無言のまま顔を上げ、遠ざかっていく二人の背中を見つめていた。その瞳からは、先ほどまで浮かべていた悲しみも、動揺も、きれいに消えている。
感情の読めない静かな眼差しのまま、ソリナは小さく呟いた。
「それでも、最後にお兄様に寄り添うのは私です……」
*
二人の姿が完全に見えなくなると、ソリナは静かに口を開いた。
「カルラ」
「はい、ソリナ様」
柱の陰からソリナの専属侍女カルラが姿を現す。その隣には、一人の若い侍女が怯え切った表情で立っていた。
「ご命令通り、例の侍女をお連れいたしました」
侍女は震えながら膝をつく。
「ソリナ様、申し訳ございません……。支度部屋へすぐ人が来てしまい、時間がほとんどありませんでした。何とかドレスの裾を裂くのが精一杯で……」
涙を浮かべながら必死に弁解する。
「そう……」
ソリナは優しく微笑んだ。
「それなら仕方ありませんわ」
侍女の表情が安堵に緩む。
「でも、このままでは貴方が危険です。すぐに皇宮を離れなさい」
そう言って視線を向ける。少し離れた柱の陰には、公爵家の護衛が静かに待機していた。
「裏には手を回してあります。彼が安全な場所まで案内してくれるでしょう」
慈愛に満ちた微笑み。まるで、本気で侍女を案じているかのようだった。
「ありがとうございます……!」
侍女は涙を流しながら何度も頭を下げると、護衛に伴われて裏門へ向かった。
その後ろ姿を眺めながら、ソリナは困ったように頬へ手を添えた。
「カルラ。あの子は随分と臆病ね」
小さくため息をつく。
「あれでは、捕まったら何でも話してしまいそうで心配だわ……」
「かしこまりました」
カルラは短く答える。
それだけで十分だった。
主人の真意を悟ったカルラは、護衛へ小さく視線を送る。
護衛は無言で頷き、そのまま侍女と共に闇夜へ消えていった。




