第二十九話:大神官の微笑み
――アステリア教。
この世界で最も広く信仰されている、一神教である。唯一神・女神アステリアは世界の創造神とされ、人々はその慈愛と導きを信じ、日々祈りを捧げてきた。
大神殿には、女神が神託を授けると伝えられる神具が安置されている。しかし、その神託を受けられるのは、女神に選ばれた敬虔な信徒だけだと言われていた。
そして現代、その神具を扱うことを許されているのは、当代の大神官ただ一人。
ゆえに、アステリア教における彼の権威は絶対であり、その言葉は時として、女神の意思そのものとして受け止められていた。
その大神官の名は――ヘリオス・アルテ。
三十五歳という若さで大神官の座へと就いた、稀代の神官である。大陸随一と謳われる強大な聖力を持ち、端正な容姿と穏やかで慈愛に満ちた人格を兼ね備える彼は、歴代大神官の中でも最高の逸材と評されていた。
人々は彼を、「神に最も近い信徒」と称える。
それが真実かどうかを知る者はいない。
だが、少なくとも大陸中の信徒たちから深い敬愛を集め、誰もがその存在を特別なものとして仰いでいることだけは、紛れもない事実だった。
*
ヘリオスは、ウラドたちと別れたあと、グラスに注がれたワインをゆっくりと口へ運んでいた。
アステリア教は戒律が緩い。だからこそ、貴族から庶民まで幅広く信仰され、大陸中へと広く浸透している。酒を嗜むことも、その教えでは禁じられていなかった。
銀色の波打つ髪と神秘的なアメジストの瞳、中性的な麗しい顔立ちが式典用の清廉な白い神官服によく似合っていた。端正な美貌に、赤いワインが妖しい色気を添える。
「みて、ヘリオス様よ。あいかわらずお美しい方ね……」
「あの若さで大神官になられるなんて、優秀過ぎますわ」
「ご結婚はされないのかしら。多くの令嬢から申し込みをされていると聞きますわ」
その背徳的な雰囲気に、周囲の令嬢や貴婦人たちは熱い視線を向けていたが、本人は慣れたものなのか、まるで気にも留めていない。
「ヘリオス様、随分と楽しそうですね」
傍らに控えていた神官が、不思議そうに尋ねた。
「そうかい?」
ヘリオスは口元を緩める。
「つい顔に出てしまうようだ。アステリア様の奇跡を、この目で見ることができたからね」
「本当に夢のような出来事でした! さすがは大帝国の皇帝ともなれば、我らが神も特別にお目をかけられるのでしょうか」
「さて……それはどうなんだろうね」
意味深な笑みだけを返す。
先ほどの光景が脳裏によみがえった。
皇帝ウラドは、「二人の魔力に神像が反応した」と皆へ説明していた。
だが――私に、その誤魔化しは通用しない。
あれは、イリンカへの祝福だった。
アステリア様ご自身が、彼女へ応えられたのだ。
この私ですら、神から直接意識を向けられたことなど一度もないというのに。
(一体、彼女は何者なのだろう)
そもそも、あのドレスを彩る花々も普通の植物魔術で咲かせられるものではない。潜り込ませていた間者の報告では、式の直前にドレスへ何者かの細工が施されたという。おそらく、それを誤魔化すために彼女は花を咲かせたのだろう。
私の聖力で視た限り、あの花々は飾り物ではない。
摘んだ花ならば生命力は減り続けるはずなのに、この瞬間も、なお、生きている。瑞々しい生命力を感じるのだ。それがどれほど常識外れの奇跡なのか、理解している者はいったい何人いるのだろう。
「ふふっ」
思わず笑みが零れた。
「ヘリオス様、どうされましたか?」
「いけないね。どうにも楽しくて仕方がない」
「それは何よりでございます」
神官は何も知らない。
私が、先ほどの奇跡そのものに喜んでいると思っている。
それでいい。
今はまだ、誰にも気付かれてはならない。
あの皇帝は勘が鋭い。
そして、彼女への執着も想像以上だ。
ならば今は焦る必要はない。
ゆっくりと、策を練ればいい。
遠目からでも目を奪われる、艶やかな漆黒の髪。澄み切った碧眼。誰よりも凛とした、美しい佇まい。
ヘリオスは、舞踏会の輪の中にいるイリンカを陶然と見つめた。
「あぁ……いつか、必ずお迎えいたします」
恍惚とした笑みを浮かべる。
「少しだけ、お待ちくださいね」
誰にも届かないほど小さな声で囁く。
「――私の女神アステリアよ」




