第二十六話:咲き誇る婚約衣装
結局、婚約式は開始時刻を少しだけ遅らせて執り行われることになった。
私たちが皇宮へ戻ると、そこはまさに蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。今日の主役である皇帝の婚約者が忽然と姿を消したのだ。
混乱しないはずがない。
自分の部屋へ戻ると、侍女長アデラと侍女見習いのヨアナが、今にも泣き出しそうな表情で待っていた。
「イリンカ様!」
私の姿を認めた瞬間、二人は弾かれたように駆け寄ってくる。
「知らせを聞いた時は、生きた心地がしませんでした」
「ご無事で、良かった……」
震える声に、どれほど案じてくれていたのかが滲んでいた。私は二人を安心させるように、そっと微笑む。
「そんな泣きそうな顔をしないで。二人とも、心配をかけてしまったわね」
その表情を見ただけで、自分がどれほど心配をかけてしまったのかが痛いほど伝わってくる。
胸の奥が、少しだけ締めつけられた。
アデラは悔しそうに唇を噛む。
「……私がもっとエマの様子に気を配っていれば、このようなことには……」
「ありがとう、アデラ。でも、あなたのせいじゃないわ」
優しく言葉を返してから、今度はヨアナへ視線を向ける。
「ヨアナは大丈夫だった? 宝物庫で襲われたのでしょう?」
「はい。眠りの魔術をかけられただけでしたので、怪我はありません」
ヨアナは小さく頷いてそう答えると、ぱっと表情を明るくした。
「ですから、イリンカ様のお支度を、ぜひ私たちにお手伝いさせてください!」
その真っ直ぐな申し出に、思わず笑みがこぼれる。
「ふふ。それじゃあ、アデラとヨアナにお願いするわ」
二人の顔を見渡しながら、私は少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
「今日は、帝国一美しい女性にしてちょうだい」
「「お任せください!」」
二人の力強い返事が部屋に響く。その声を聞いた瞬間、不思議と胸の不安はすっと消えていった。
*
慌ただしく支度部屋へ足を踏み入れたアデラとヨアナは、中央に飾られている婚約式用のドレスを目にした瞬間、言葉を失った。
「そんな……」
ヨアナの声が震える。
豪奢なモスグリーンのドレスは、裾が無惨にも深く切り裂かれていた。誰かが明確な悪意を持って刃を入れたことは、一目で分かる。
「だ、誰がこんな酷いことを……」
泣き出しそうなヨアナの隣で、アデラも悔しげに唇を噛み締める。
「すぐに代わりのドレスをご用意いたします。多少格は落ちてしまいますが、このままというわけには……」
婚約式まで残された時間はわずかだった。
普通なら、ほかに方法はない。
しかしイリンカは破られたドレスをじっと見つめると、しばらく考え込み――やがて小さく微笑んだ。
「いいえ。何も問題ないわ」
あまりにも落ち着いた返答に、アデラとヨアナは思わず顔を見合わせる。
「イリンカ様……?」
「さあ、私をモッサリ令嬢と侮っていた人たちを、思い切り驚かせてあげましょう」
その瞳は、悪戯を思いついた子どものように楽しげに輝いていた。
*
大聖堂の控えの間。
婚約式を目前に控えた皇帝ウラド・ダキアは、式典用の正装に身を包んでいた。
婚約者と自身の髪色を意識した漆黒の式典服には、落ち着いた赤茶色の刺繍が流れるように施されている。肩には白い毛皮をあしらった緋色のマントを羽織り、その威風堂々たる姿は、まさに大帝国を統べる覇王にふさわしい威厳を湛えていた。
だが、その堂々たる外見とは裏腹に、本人の胸中は少しも穏やかではない。
侍女長アデラから、婚約式用のドレスが何者かによって切り裂かれたと報告を受けた時は、怒りで理性が焼き切れそうになった。しかし直後に、イリンカの機転でその窮地を乗り越えたと聞かされた時には、今度は呆れるほどの驚きに包まれた。
きっと、あの奇想天外な発想でアデラたちを唖然とさせたに違いない。
そう思うだけで、自然と口元が緩む。
――俺の婚約者は、どこまで頼もしいのだろうか。
イリンカ。
今日をもって、彼女は名実ともに俺の婚約者となる。その事実だけで胸は高鳴り、自然と鼓動が速くなる。
着飾った彼女は、きっと誰よりも美しい。
早く会いたい。
早く、この腕で抱きしめたい。
募る想いを胸いっぱいに抱えた、その時だった。
「ウラド、お待たせ」
背後から聞き慣れた声が響く。
振り返った瞬間、ウラドは言葉を失った。
漆黒の髪は美しく結い上げられ、モスグリーンのドレスには金糸の刺繍が繊細に施されている。幾重にも重なる純白のレースが、その気品をより一層際立たせていた。
だが、何よりも視線を奪われたのは、そのドレスを彩る無数の花々だった。
ひときわ美しく咲き誇るのは、琥珀色の薔薇――ジュリーラド。
髪飾りとして華やかに咲くだけでなく、腰から裾へと流れ落ちるように花々が連なり、まるで一筋の花の滝が彼女を優しく包み込んでいるかのようだった。
切り裂かれたドレスは、植物魔術によって見事によみがえっていた。
裂けた布地を縫い合わせるように植物を成長させ、そこへ新たな命を吹き込む。誰も思いつかない発想によって、それは世界にただ一着しか存在しない芸術品へと生まれ変わっていた。
その一部始終を見届けたアデラもヨアナも、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
さらにヨアナにとっては、それが初めて目にする本来のイリンカの姿でもある。
息を呑むほどの美しさに心を奪われ、しばらくは言葉を発することすらできなかった。
一方のウラドもまた、愛しい婚約者から目を離せない。
胸の奥から込み上げる想いを抑えきれず、ようやく零れ落ちた言葉は、深い感嘆そのものだった。
「ああ……俺の色をまとったお前は、本当に美しい」
そっと彼女を抱き寄せる。
だが次の瞬間には、込み上げる独占欲が思わず口をついて出た。
「……誰にも見せたくない。やはり婚約式は中止にしよう」
どうやら本気らしい。ギリッと奥歯を噛み締めながら、真剣そのものの表情を浮かべている。
「は?」
イリンカは呆れたように眉をひそめた。
「何言ってるのよ。ちゃんとお披露目するための婚約式でしょう?」
そう言うと、ぺちりと軽く額を叩く。
「むぅ……」
不満そうに唸ったウラドだったが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「……仕方ない。絶対に俺から離れるなよ」
独占欲を隠そうともしないその言葉に、イリンカは思わずくすりと笑う。
「ええ。馬鹿な小細工なんて無駄だったって、ドレスに悪戯した人たちへ見せつけてあげましょう」
挑発するように微笑みながら、ウラドの腕へ自分の腕をそっと絡める。
その仕草だけで、ウラドの口元には満足げな笑みが浮かんだ。
「ああ。大陸中に、お前は俺のものだと見せつけてやる」
方眉を上げ、覇王らしい傲慢な笑みを浮かべた皇帝は、愛しい婚約者を伴い、大聖堂へと歩みを進める。
やがて荘厳な堂内に、侍従長の張りのある声が高らかに響き渡った。
「ダキア大帝国皇帝、ウラド・ダキア陛下並びに、婚約者イリンカ・バサラブ令嬢、ご入場です」
大聖堂に集まったすべての視線が、一斉に入口へと注がれる。
――いよいよ、二人の婚約式が幕を開ける。




