第二十五話:狂気の終わり
第二十四話と第二十五話を一緒に投稿しました。
エマが笑みを浮かべてナイフを振り上げた、その瞬間だった。
――ドゴォッ!
轟音とともに小屋の扉が吹き飛び、凄まじい勢いで花吹雪が室内へと舞い込んだ。
赤、黄、水色、橙色、紫――色とりどりの花びらが渦を巻きながら舞い踊り、薄暗かった小屋を一瞬で幻想的な世界へと塗り替えた。
その花吹雪を見た瞬間、イリンカの胸を締めつけていた緊張がすっとほどけ安堵へと変わった。
あの秘密の魔術が、確かに彼をここへ導いてくれたのだ。
「きゃあっ! な、なに!?」
突然視界を埋め尽くした花吹雪に、エマは悲鳴を上げる。
舞い散る花びらに視界を奪われ、思わず動きを止めた。
やがて花びらが静かに舞い落ち、閉ざされていた視界がゆっくりと開けていく。
エマは弾かれたようにイリンカがいた場所へ目を向けた。
だが、そこに少女の姿はない。
床を覆っていた魔法陣さえ、跡形もなく消え去っていた。
「なっ……!」
愕然と立ち尽くしたエマは、慌てて辺りを見回し――その場で凍りつく。
小屋の片隅に、一人の青年が静かに立っていた。
大帝国の皇帝――ウラド・ダキア。
その腕には、壊れ物でも扱うように大切に抱き上げられたイリンカの姿がある。
そして彼のもう一方の手には、いつ奪われたのかも分からぬまま、エマが握っていた禁制魔道具が収まっていた。
「へ、陛下……。どうして……?」
呆然と漏れた声に、ウラドは応えない。
金色の瞳は、ただ腕の中のイリンカだけを映していた。
怪我はないか。
苦しめられてはいないか。
指先から髪の先まで確かめるように静かに視線を巡らせる。
無事を確認した瞬間、彼は小さく息を吐いた。
張り詰めていた緊張が、ようやくほどけたのだろう。
そのまま手の中の魔道具を静かに握り締める。
バキバキ――。
乾いた破砕音が小屋へ響いた。
禁制魔道具は抵抗する暇もなく粉々に砕け散る。
その瞬間、イリンカの身体を縛っていた見えない鎖が解け、身体の奥深くから瑞々しい魔力が一気に巡り始めた。
「ありがとう、ウラド。助かったわ」
自由を取り戻したイリンカが安堵の笑みを向ける。その笑顔を見たウラドも、ようやく穏やかに表情を緩めた。
「間に合ってよかった」
「お前からの道しるべ……痺れたぞ」
そう囁くと、褒めるようにイリンカの額へそっと優しい口づけを落とした。
だが、そのままエマへ視線を向けた瞬間、その瞳から一切の温もりが消える。
「まさか、お前が裏切るとはな、エマ」
「ち、違います……っ! 私は、私はただ、陛下をお守りするために、この女を……!」
「黙れ」
たった二文字。
それだけで空気が震えた。
戦場を幾度も制してきた覇王だけが放てる、圧倒的な威圧。
声を荒らげる必要すらない。
その怒気だけで、まるで小屋の温度が一気に下がったかのようだった。
エマは悲鳴すら上げられず、身体を激しく震わせながらその場へ崩れ落ちる。
「余の最愛を殺めようとした罪――軽く済むとは思うな」
氷のように冷たい声音だった。
それでもなお、エマは現実を受け入れられなかった。
床を這うようにウラドの足元へ縋りつき、涙に濡れた顔を必死に持ち上げる。
「わ、私は陛下のために、その女を消そうとしただけなのです! 陛下はその女に騙されていらっしゃいます!」
「貴方様は至高にして孤高の存在。民に平等で、臣下にも公平なお方……だから私は身を引いたのに!」
長年押し殺してきた想いが、堰を切ったように溢れ出す。
「あんな地味な女が選ばれるくらいなら……私だって皇后になれたはずです! あなた様が即位された時から、ずっとお傍でお支えしてきたのです……!」
震える手を伸ばす。
その瞳には、狂おしいほどの恋慕が宿っていた。
「お慕いしております。陛下も私を密かに想っておられたでしょう?」
ウラドは一切口を挟まず、ただ黙って、その独白を聞いていた。やがて静かに見下ろし、侮蔑だけを滲ませて口を開いた。
「これ以上聞く価値もない」
その言葉とともに、イリンカを抱く腕へそっと力を込めた。
「俺が愛するのは、このイリンカただ一人だ」
「陛下っ! 私の愛と忠誠は、この女なんかより――!」
エマは半狂乱になりながら、無意識に心の拠り所である襟元のバッジに指をかけ、引き裂かんばかりの声で叫んだ。
その姿を見て、ウラドは冷ややかに言い放つ。
「忠誠?」
嘲るような笑みが浮かぶ。
「それは妄執というのだ」
そして、視線をバッジへ向けた。
「ああ――それはもう、お前には相応しくないな」
言葉が終わると同時だった。
――カシャン。
乾いた音が、小屋へ静かに響く。
エマが必死に握り締めていたバッジは、何かに断ち切られたように粉々に砕け散り、床へと零れ落ちた。
「……え?」
何が起きたのか理解できない。
ただ呆然と、砕け散った欠片を見つめる。
やがて、自分と皇帝を繋ぐ最後の拠り所が完全に失われたことを悟った。
「わ……私のバッジが……」
震える唇から言葉が漏れる。
「陛下との繋がりが……」
瞳が大きく揺れた。
「いや……嫌っ!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁっ!!」
絶望の絶叫が、小屋中へ響き渡る。
そこへ花の道を辿ってきたラゴスたちが、息を切らせながら一斉に飛び込んできた。
室内の惨状を一目で把握したラゴスへ、ウラドは冷酷に命じる。
「その女がイリンカを拉致した犯人だ」
「捕縛せよ」
「はっ!」
近衛兵たちが素早くエマを取り押さえる。
抵抗する力さえ失った彼女は、そのまま皇宮へ連行されていった。
*
ウラドは私を腕に抱きあげたまま、足早に皇宮へと進んでいく。しばらく無言のまま歩いていた彼が、不意に口を開いた。
「イリンカ……辛い思いをさせたな。すぐに助けてやれず、すまなかった」
珍しく、後悔を滲ませた声だった。
私は小さく首を横へ振る。
「何を言ってるのよ。あんな短時間で駆けつけてくれたじゃない」
花吹雪とともに現れた姿を思い出す。
あの瞬間に感じた安堵は、おそらく一生忘れないだろう。
「助けてくれて、本当に嬉しかった」
自然と笑みがこぼれる。
その笑顔を見つめたウラドは、愛おしそうに目を細めた。
「イリンカ……」
呟くように名を呼び、そのままぎゅっと抱き締める。
「うぐっ……!」
身体が潰れそうになり、思わず苦しげな声が漏れた。
「ちょ、ちょっと! 力が強すぎるわよ! 婚約式に出られなくなったらどうするの!」
慌てて抗議すると、ウラドは意外そうに目を瞬かせた。
「……こんな状況で、婚約式に出るつもりなのか?」
どうやら、婚約式を中止にするつもりだったらしい。
私は呆れたようにため息をついた。
「何言ってるのよ。エマみたいな人が次々現れる前に、ちゃんと私の存在を皆に知らしめないといけないじゃない」
こんな騒動を何度も繰り返すなんて、ごめんだった。
それに――。
「わ、私も……楽しみにしてたんだから。婚約式」
最後は照れくささに耐えきれず、声が小さくなる。
俯いた頬は熱を帯び、耳まで真っ赤になっていくのが自分でも分かった。
その姿を見たウラドは、完全に固まる。
「――ッ!? お前……可愛すぎるだろ! 俺を殺す気かっ」
「えっ?」
なぜか真顔で怒られた。
……解せぬ。




