第二十三話:罠にかかったモッサリ令嬢
皇帝宮の華やかな喧騒を背に、イリンカとエマは城の裏手へと足を進めていた。
向かった先は、城の敷地の外縁に広がる森。
鬱蒼と茂る木々が陽光を遮り、踏みしめる落ち葉の音だけが静かな森に響いている。
「城のすぐ裏手に、こんなに深い森があったのね」
辺りを警戒しながら歩くイリンカに、少し後ろを歩くエマが静かに頷いた。
「はい。数代前の皇帝陛下が狩猟をこよなく愛されたそうで、この広大な森を造られたと聞いております」
「純粋に狩りを楽しむため、この一帯には強力な結界術が張られておりますので、外から中の様子を窺うことはできませんし、私たちの姿や声が外へ漏れることもございません」
「……なるほど。誘拐や監禁には、これ以上ないうってつけの場所というわけね」
皮肉混じりの呟きをこぼしたイリンカに対し、エマは痛ましげに顔を伏せる。
「そのような恐ろしいことを仰るなんて……イリンカ様は、お怖くはないのですか?」
「仕方ないわ」
イリンカは迷いなく答える。
「ウラドの妻になると決めた時から、これくらいの危険は覚悟しているもの」
その言葉に、エマは小さく息を呑んだ。
「……イリンカ様は、本当にお強いお方なのですね」
「ふふっ。ありがとう」
穏やかな笑みを交わしながら、二人はさらに林の奥へと進んでいく。
やがて木々の合間に、朽ちかけた古い小屋が姿を現した。偽の呼び出し状に記されていた場所、そのものだった。
警戒しながら中へ入る。しかし室内に人の気配はなく、埃っぽい空気だけが静かに漂っていた。
「ヨアナ? どこにいるの?」
呼びかけても返事はない。周囲を見回しながら何度も声を掛けるが、耳に届くのは静まり返った空気だけだった。
胸の奥を、言いようのない不安がじわりと侵食していく。
嫌な予感が脳裏をよぎった、その瞬間だった。
――ドンッ。
「っ!?」
突然、背中を強く突き飛ばされる。
勢いのまま前へよろめき、咄嗟に振り返ると、そこに立っていたのはやはりエマだった。
イリンカの足元から、禍々しい色を帯びた魔法陣が音もなく広がっていく。
(まずいっ)
イリンカは反射的にエマに植物魔術を放つが、エマの襟元で淡く輝くバッジに触れた瞬間、まるで見えない壁へ阻まれたかのように弾き返された。
次の瞬間、全身から一気に力が抜け落ちる。
「っ……!」
意識ははっきりしている。それなのに、指一本すら動かせない。
糸を断たれた操り人形のように床へ崩れ落ちたイリンカの視界へ、ゆっくりと歩み寄るエマの足元が映り込んだ。
「ふふ。このバッジには陛下の守護魔術が付与されていますもの。陛下と同等、あるいはそれ以上の魔力を持つ方でなければ破れませんよ」
見下ろしてくるエマの顔には、これまで浮かべたことのない優越の笑みが浮かんでいた。
「これを壊せるとしたら……大神官様くらいでしょうか?」
本気で考えるように小首を傾げる姿は、まるで世間話でもしているかのようだった。
「意識はございますでしょう、イリンカ様。少しなら、お話もできますよね」
穏やかな声音とは裏腹に、その口元にはぞっとするほど歪んだ笑みが刻まれている。
「ご安心ください。お探しのヨアナはここにはおりません。今頃は宝物庫でぐっすり眠っている頃でしょう。あの子に罪はありませんから、怪我などさせておりませんよ」
「……エマ、どうして……」
喉の奥からようやく絞り出した声を聞き、エマは心底愉快そうに目を細めた。
その手には、精巧な装飾が施された小さな箱が握られている。
「この魔道具は、闇市で手に入れましたの」
愛おしむように箱の表面を撫でながら、静かに続ける。
「対象の魔術を封じ、身体の自由まで奪う禁制魔道具です。本来は拷問用らしいのですが、思いのほか安く手に入りましたわ」
「そんなもの……禁制魔道具よ……。普通の人間が手にしていいものじゃないわ……」
「ええ」
エマは嬉しそうに頷いた。
「だからこそ、これは神がお与えくださった好機だと確信いたしました」
その笑みは、狂信者のように恍惚としている。
そして、ふと思い出したように、何気ない調子で続けた。
「そうそう。先日、植木鉢を落としたのも私ですのよ」
その言葉に、イリンカの瞳が大きく揺れる。
「まさか、あれでも死なれなかったとは思いませんでしたけれど」
エマは困ったように眉を寄せ、小さく首を傾げた。
本気で理解できないとでも言いたげなその仕草が、かえって底知れない狂気を際立たせる。
穏やかな瞳の奥では、剥き出しの殺意だけが静かに燃えていた。その異様な光景に、イリンカの背筋を冷たい悪寒が駆け抜ける。
「侍女たちをお呼びになった時は、本当に心配いたしました。皆の嫌がらせに耐えきれず、貴方様が国へ帰ってしまわれたら――」
エマはゆっくりと口元を吊り上げた。
「貴方様を殺めることができなくなってしまいますもの」
そこに罪悪感は欠片もない。
命を奪うことすら、自らに与えられた使命だと信じ切っている者の顔だった。
――この女は、本気だ。
その確信だけが、イリンカの胸へ重く沈んでいく。
エマは胸元のバッジへそっと指先を滑らせた。
それはまるで、大切な宝を慈しむような、穏やかで満ち足りた手つきだった。
「私は十五歳の頃から、人生のすべてを陛下へ捧げてまいりました」
「初めて謁見したあの日のお姿は、今でも忘れられません」
恍惚とした表情で天井を見上げる。
「誰よりも気高く、美しく、孤高で……」
「私は男爵令嬢です。身分が低すぎる以上、皇后になどなれないことくらい理解しておりました」
「だからこそ、侍女として一生お仕えしようと決めたのです」
その声は次第に熱を帯びていく。
「ですが陛下は、私の想いに気づいてくださっていた」
襟元のバッジを強く握りしめる。
「この特別なバッジこそ、その証」
「陛下と私だけが分かり合える、愛の証なのです」
次の瞬間。
その穏やかな表情が醜く歪んだ。床に横たわるイリンカを、憎しみのこもった目で睨みつける。
「それなのに!」
鬼気迫る声が小屋へ響く。
「初めて見た時からあなたの存在が許せませんでした。どこの馬の骨とも知れない田舎娘が、陛下の婚約者になるなど絶対にあり得ません!」
「あなたは精神魔術で陛下を惑わせたのでしょう!」
「偉大なる皇帝陛下を騙した罪……万死に値しますわ!」
「たぶらかしてなんか……ないわよ。それは、あなたが勝手に頭の中で都合よく思い込んでいるだけじゃない……っ!」
イリンカは怒りを込めて叫ぶ。
言葉が届かないことは百も承知だが、いまは何としても時間を稼ぎ、この魔法陣を解く糸口を見つけなければならない。
エマは笑いながら、懐から細身のナイフを取り出した。鈍く光る刃が、ゆっくりとイリンカへ向けられる。
「ふふっ。安心してください、一思いには殺しません」
「何度も、何度も、この身体を刻んで差し上げます」
恍惚とした笑みが浮かぶ。
「ここは結界の中」
「どれほど悲鳴を上げても、誰にも届きませんわ」
楽しそうにそう囁くと、エマはナイフをイリンカの胸元へ高く振り上げた。
その瞬間。
――ドゴォッ!
轟音とともに小屋の扉が吹き飛び、凄まじい勢いで花吹雪が室内へと舞い込んだ。




