第二十二話:婚約式の朝と不穏な手紙
婚約式当日の朝。
皇帝宮は、まるで戦場のような慌ただしさに包まれていた。
「こちらのクロスを運んでください!」
「生花が足りません!」
「招待客の最終確認は済みましたか!?」
侍女や侍従たちが慌ただしく廊下を行き交い、あちこちから切羽詰まった声が飛び交う。
そんな喧騒をよそに、イリンカは窓辺に立ち、ぼーっとその光景を眺めていた。
婚約式は午後から。
まだ日は高く昇り始めたばかりで、自分の支度もこれからだ。
この婚約式でイリンカは、モッサリ令嬢から本来の姿に戻るつもりだ。そのために秘密を知る侍女長アデラが来るのを待たなければならない。
だが、そのアデラは式の準備に追われ、宮中を飛び回っている。
はっきり言って、一番暇なのは自分だった。
(……私が主役のはずなのに、おかしいな)
そう思い首を傾げたイリンカは、窓際に飾られた花の葉をそっと整えていた。
その時だった。
侍女長補佐のエマが、どこか慌てた様子でヨアナへ声を掛けた。
「ヨアナ。今日の婚約式で使用する予定の宝飾品が見当たらないの。もしかしたら、まだ宝物庫に保管されたままかもしれないわ」
「それは大変ですね。すぐに確認しないと」
「ええ。一緒に探しに行きましょう」
「はい、エマ様」
そう言うと、エマはイリンカへ向き直り、申し訳なさそうに頭を下げた。
「イリンカ様、少々席を外してもよろしいでしょうか」
宝飾品が見つからなければ、婚約式にも支障が出かねない。
イリンカは素直に頷いた。
「ええ、もちろんよ。確認をお願いできるかしら」
「かしこまりました。行ってまいります」
二人は一礼すると、そのまま宝物庫へと向かっていった。
*
宝物庫。
そこは、皇室が所有する宝飾品や貴金属を厳重に保管する場所だった。
国宝級の品々も数多く収められているため、立ち入りには侍女長補佐以上の付き添いが義務付けられている。
エマは専用の魔術鍵を取り出し、静かに扉を開いた。
重厚な扉の向こうには、美しく輝く宝飾品が整然と並んでいる。
初めて足を踏み入れたヨアナは、思わず目を丸くした。
「すごい……。こんな宝飾品、見たこともありません」
「どれも国宝級の品ばかりよ。取り扱いには十分気を付けてね」
「ひぇ……気を付けます」
思わず背筋を伸ばしたあと、ヨアナは感嘆の息を漏らした。
「でも、これ全部……将来は皇后となられるイリンカ様がお使いになるのですよね。本当にすごいなぁ」
「…………私は奥を探してくるわ」
エマは、静かな声だけを残し、奥の保管室へ姿を消す。
ヨアナは小さく首を傾げたものの、気を取り直して周囲を見回した。
「私はこちらを探してみよう」
そう呟き、棚へ視線を向けた、その時だった。
「きゃっ――!」
突然、奥の部屋からエマの悲鳴が響く。
続いて、何かが倒れる鈍い音が耳に届いた。
「エマ様!?」
ヨアナは血相を変え、声のした方へ駆け出す。
そこには、床へ倒れ込んだエマの姿があった。
「大丈夫ですか!? しっかりしてください!」
慌てて膝をつき、肩を支える。
エマは苦しげに目を開き、か細い声を絞り出した。
「うっ……ヨアナ……逃げて……」
「今すぐ助けを呼んできます!」
ヨアナが立ち上がろうとした、その瞬間だった。
ふわり、と空気が揺らぐ。
甘い眠気が、まるで霧のように身体へまとわりついた。
(……しまった。眠りの魔術……!)
急速に意識が遠のいていく。
(婚約式が狙われている……?)
(イリンカ様に知らせないと……)
必死に足へ力を込めようとしても、身体は思うように動かない。
薄れていく意識の中で、ヨアナの脳裏に浮かんだのは、今日、幸せな日を迎えるはずだった主の姿だけだった。
*
イリンカの部屋に、ノックの音が小さく響いた。
「どうぞ」
イリンカが促すと同時に部屋に入ってきたのは、いつもの冷静さを失ったエマだった。肩を激しく上下させ、青褪めた顔には明らかな焦燥が見えた。
「エマ……っ? 一体どうしたの、その様子は!」
ただ事ではない気配に、イリンカは椅子から立ち上がった。ひどく怯えているエマは、歯の根を鳴らしながら、震える声で吐き出す。
「宝物庫の近くで……不意に背後から何者かに襲撃されたのです。私が意識を失っている間に、ヨアナが連れ去られてしまい……。目が覚めたとき、傍にこの手紙が残されていました」
エマの震える指先から差し出されたのは、一枚の書状だった。そこには、殴り書きのような筆跡でイリンカへの伝言が書いてあった。
『イリンカ・バサラブ 侍女見習いの命が惜しければ、手紙に記された場所に来い。誰かに知らせてはならない』
「卑怯な真似を……。あの子を人質にするなんて……っ」
怒りと悔しさが込み上げ、イリンカは強く唇を噛み締めた。何の罪もないヨアナを巻き込むなんて……。
「すぐに、ウラドやクリスティアンたちにこの緊急事態を知らせて、人員を動かしてもらわないと――」
「ですが、イリンカ様! 猶予は一刻もありませんわ! 今この瞬間にも、ヨアナの命が奪われてしまうかもしれないのです! それに、ここには知らせるなと書いてございます」
エマは悲痛な声を上げ、涙の滲んだ瞳で必死に訴えかけてくる。その切迫した様子に、イリンカの理性がわずかに揺らいだ。
王宮の護衛を動かす手間を考えれば、エマの言う通り一秒の遅れがヨアナの生死を分けてしまうかもしれない。
「……分かったわ。案内して、エマ。ヨアナを助けに行きましょう」
覚悟を決め、イリンカは部屋の扉へと一歩を踏み出した。
(待っていてね、ヨアナ……。絶対に無事でいて――)
胸の中で侍女の名を呼びながら、イリンカはエマと共に、静まり返った回廊へと駆け出していった。




