第二十一話:婚約式前夜
いよいよ婚約式が、明日に迫っていた。
数日前には、フィオル王国からイリンカの家族も帝国へ到着し、久しぶりに家族水入らずの穏やかな時間を過ごすことができた。
過密なスケジュールの合間を縫って、そのような時間を用意してくれたウラドには、心から感謝している。
この大帝国にやってきてからというもの、彼がどれほど自分を深く想いやり、大切にしてくれているのかが、痛いほど伝わってきた。
それが嬉しくて、彼のことを考えると、自然と頬が緩んでしまう。
(私も、随分と絆されちゃったなぁ)
いつか、この気持ちをきちんと彼に伝えたいとは思うのだ。
そう思っているのに、いざ本人の顔を前にすると照れてしまい、どうしても言葉が出てこない。
それが最近の、小さな悩みだった。
こんな乙女チックな思考、およそ私らしくないなと、イリンカは思わず不満げに顔をしかめる。
そんなイリンカのくるくると忙しなく変わる百面相を傍らで見ていたヨアナが、不思議そうに首を傾げて声をかけてきた。
「イリンカ様、どうされましたか? 何だか面白いお顔をされていらっしゃいますが……」
「ん? な、何でもないわ!」
慌てて誤魔化すイリンカに、ヨアナはくすりと笑う。
「ふふ、さては明日の婚約式を控えて、緊張されていらっしゃるのですか?」
「……まぁ、それは少しだけ、あるかもしれないわ」
イリンカが照れくさそうに答えると、ヨアナは嬉しそうに部屋の中央へ視線を向けた。
「それにしても」
うっとりとした溜息を漏らしながら、部屋の特等席に鎮座している一着のドレスへと視線を向けた。
「本当に素晴らしいドレスですね! 陛下の愛を感じます」
部屋へ運び込まれたばかりの婚約式用のドレスは、まるで芸術品のような存在感を放っていた。
このドレスは、ウラドの願い、という命令によって、帝都でも名高いデザイナーが不眠不休で仕立て上げた一着である。
つい先ほど届けられたばかりだったが、やり切った表情を浮かべるデザイナーの目の下には、それはもう見事な隈が刻まれていた。
本当にお疲れ様です。心の底から同情した。
モスグリーンの最高級シルクをふんだんに使った生地には、全体に上品かつ豪奢な金の刺繍が、まるで流れる星のように細やかに施されている。
――緑と金。それは他でもない、イリンカとウラド、二人の瞳の色を象徴していた。
まさに、ウラドの凄まじい独占欲がこれでもかと炸裂しているデザインだ。
「……本当、よくもまあ、こんな短い期間でこれだけのものを用意できたわよね」
呆れ半分、感心半分で呟くと、ヨアナはぐっと拳を握りしめて力説した。
「イリンカ様を絶対に離さない、絶対に逃さないっていう、陛下の執念を感じますっ!」
「うん。……それは、全く否定できない」
その言葉には説得力があって、思わず遠い目になる。
そんな風に、微笑ましく言葉を交わし合っていたイリンカとヨアナ。
そんな二人のやり取りを、少し離れた場所から静かに見つめる者がいた。
侍女長補佐のエマだった。
「本当に美しいドレス……。いよいよ、明日なのですね」
エマは、穏やかな微笑みを浮かべポツリと呟いた。
*
その夜――。
静寂に包まれた皇帝の寝室には、柔らかな灯りだけが静かに揺れていた。
イリンカは、いつものようにウラドの腕の中にいる。
帝国へ来たばかりの頃は、抱き締められるたびに慌てて逃げ出そうとしていたものだ。
けれど今では、その温もりにも少しずつ慣れてしまった。
広い胸に身を預けると、不思議なくらい心が落ち着いていく。規則正しく響く鼓動を耳にしながら、イリンカはそっと身体の力を抜いた。
そんな彼女の変化が嬉しくてたまらないのだろう。
ウラドは腕の力を少しだけ強めると、慈しむようにその身体を抱き寄せた。
「いよいよ明日だな」
穏やかな声が頭上から降ってくる。
「うん……。さすがに少し緊張するわね」
婚約式。
それは二人の未来を、この大帝国中へ示す特別な一日。そう思うだけで胸がそわそわと落ち着かなくなる。
ウラドは金色の瞳を細め、嬉しそうに笑った。
「これで名実ともに、お前は俺のものだと世に知らしめられる」
そして、その笑みをさらに深くする。
「逃げるなよ」
冗談めいた口調だった。
けれど、その言葉の奥にある本心は痛いほど伝わってくる。
イリンカは思わず小さく笑ってしまった。
「……逃げないわよ」
少し照れくさそうに視線を伏せ、小さな声で続ける。
「あなたと生きていくって……決めたもの」
囁くような声だった。
けれど、その言葉はしっかりとウラドの耳へ届いていた。
「イリンカ……!」
歓喜を隠しきれない声とともに、ウラドは彼女を強く抱き締める。まるで、この幸せを二度と手放すまいとするかのように。
「幸せにする」
真っ直ぐな眼差しで見つめながら、静かに言葉を重ねる。
「誰よりも」
飾り気のない、ただ真摯な誓い。
その言葉に、イリンカの胸はじんわりと温かく満たされていく。
頬を染めながらも、自然と笑みがこぼれた。
「……ありがとう」
短い一言だった。
それだけで十分だった。
二人の間には、穏やかで満ち足りた空気が流れる。
しばらく静かな時間を過ごしたあと、イリンカはふと思い出したように顔を上げた。
「それとね、婚約式では、何が起こるか分からないわ。ソリナ様も何か仕掛けてくるかもしれない」
ウラドの表情が僅かに引き締まる。
「何かあった時のために、ある魔術を使いたいの」
「魔術?」
ウラドは不思議そうに首を傾げた。
イリンカは小さく頷く。
「私とあなただけの秘密の魔術よ」
万が一、誰かに引き離された時でも。
互いを結びつけるように。
そんな願いを込めて。
イリンカの話を最後まで聞き終えたウラドは、一瞬目を丸くしたあと、口元をゆっくりと吊り上げた。
「……それは悪くないな」
まるで子どものように楽しそうな笑みだった。
その笑顔を見て、イリンカもつられて微笑む。
こうして二人は、穏やかな時間を重ねながら婚約式前夜を過ごした。
そして――。
いよいよ、婚約式の朝が訪れる。




