第二十話:忠誠のバッジ
皇宮を騒がせていた陰湿な嫌がらせは、主犯格の連行という形で、ひとまずの決着を迎えた。
だが、被害者であるはずのイリンカには、ひと息つく時間などなかった。
間近に迫った婚約式。
その準備のため過密な日程が容赦なく組まれていたのである。
その原因は言うまでもない。
愛しい恋人を一日でも早く正式な婚約者として世に知らしめたい覇王様が、最短の日程を強引に押し通した結果だった。
(――ウラドめ、本当にいい加減にしてほしい)
心の中で盛大に文句を叫びながらも、イリンカは次々と課される課題を着実にこなしていく。
もっとも、その程度で音を上げるほど、この身体はやわではなかった。
原作では悪役令嬢だったイリンカのポテンシャルは高い。
大帝国特有の複雑な宮廷作法も、数え切れないほど存在するしきたりも、一度教われば十分だった。持ち前の頭脳は瞬く間に知識を吸収し、それを自然な所作として身につけてしまう。
その驚異的な習得速度には、侍女長アデラも宰相クリスティアンも揃って目を見張っていた。
ただ一人、ウラドだけは違う。
「俺の選んだ女なのだから、当然だろう?」
そう言って誇らしげに胸を張っている。
婚約者として信頼されているのは素直に嬉しい。
……嬉しいのだけれど。
(全部、ウラドが原因じゃないかっ!)
そんな複雑な思いを胸に、イリンカはぐぬぬと唸ってしまう。
「イリンカ様は、本当に何でも完璧にお出来になられるのですね」
慌ただしいレッスンの合間、新たに側仕えとなった侍女長補佐のエマが、心から感心したように声をかけてきた。
侍女長アデラは現在、婚約式全体の統括に追われ、ほとんど付ききりの状態となっている。
そのため、彼女が席を外す時間帯は、補佐であるエマがイリンカの身の回りを任されることになっていた。
もちろん、専属の侍女見習いであるヨアナも、いつものように傍らで控えている。
「そうなんです!」
エマの言葉に、ヨアナは待っていましたと言わんばかりに目を輝かせた。
「イリンカ様は本当に優秀で、何でもすぐに覚えてしまわれるんです! 私たち侍女の仕事がなくなってしまうんじゃないかって、困るくらいなんですよ!」
主人を褒められたことがよほど嬉しかったのだろう。
弾むような声で笑顔いっぱいに話すヨアナだったが、その途中でエマが静かに口を開いた。
「まぁ、ヨアナ」
穏やかな声音だったが、その響きには侍女長補佐としての厳しさが滲んでいる。
「お話の途中で勝手に割り込むのは、侍女としての礼儀に反するでしょう」
「あっ……!」
ヨアナの表情がみるみる青ざめる。
「も、申し訳ございません……! イリンカ様!」
慌てて深々と頭を下げる姿に、イリンカは思わず苦笑した。
「いいのよ。私は気にしていないわ」
そう優しく声を掛けてから、少しだけ真面目な表情になる。
「でもね、ヨアナ。エマの言う通りなの。私は気にならなくても、そういう小さな振る舞いを快く思わない貴族の方は大勢いるわ」
一呼吸置き、穏やかに微笑む。
「だから、これからは少しだけ気をつけましょう。あなたなら、きっとすぐに身につけられるわ」
宮廷で生き抜くための実践的な礼儀。
それは誰かを責めるためではなく、自分自身を守るために必要な知恵でもあった。
「……はい」
ヨアナはしゅんと肩を落としながらも、素直に頷く。
その少し落ち込んだ様子がどこか愛らしく、イリンカとエマは思わず顔を見合わせ、小さく微笑み合うのだった。
そこへ、控えめなノックの音が響いたかと思うと、返事を待つことなく大部屋の扉が勢いよく開かれた。
姿を現したのは、大帝国の皇帝――ウラドその人である。
「……陛下。せめてこちらが返事をしてから入室されてはいかがですか?」
姿を見るなり、イリンカは呆れ果てたようなジト目を向けた。
つい先ほどまでヨアナに宮廷での礼儀作法を説いていたというのに、その張本人である皇帝がこれでは台無しである。
「すまない。だが、一刻も早くお前に会いたくて。つい気が急いてしまった」
反省しているとは思えない甘い声でそう答えると、ウラドは足早にイリンカのもとへ歩み寄る。
そして、その華奢な身体を壊れ物でも扱うように、そっと抱き寄せた。
「イリンカ、会いたかった」
耳元へ落とされた低く優しい囁きに、イリンカの顔が一瞬で真っ赤に染まる。
「っ!? だから、人前でこういうことをするのはやめてって、何度も言ってるじゃない!」
腕の中でじたばたともがきながら抗議する姿に、ウラドは楽しそうに肩を震わせた。
照れているイリンカを微笑ましく見つめていた彼は、ふと部屋の隅に控える女性へ視線を向ける。
「エマか。お前がイリンカの側仕えに就いたのだな」
「はい。このたび、婚約式の準備でご多忙な侍女長に代わりまして、不肖ながらイリンカ様のお側でお仕えさせていただくこととなりました」
エマは一糸乱れぬ所作で、実に美しい拝礼を皇帝へ捧げる。
「そうか。エマは俺が即位した頃から皇宮に尽くしてくれている古参の侍女だ。きっとお前の力になってくれるだろう。エマ、イリンカを頼んだぞ」
「もったいなきお言葉。誠心誠意、お仕えいたします」
皇帝からの信頼を示す言葉に、エマは深々と頭を垂れた。
その姿を見つめていたイリンカは、少し意外そうに目を瞬かせる。
「そんなに長く仕えていたのね。エマはまだ随分と若く見えるけれど……」
「恐れ多くも、陛下と同じ十五の頃より、この皇宮にお仕えしております」
嬉しそうに微笑みながら答えるエマの指先は、無意識なのだろう、自らの襟元へと伸びていた。
そこには、大帝国の紋章が刻まれた気品あるバッジが輝いている。
「そのバッジ、特別なものだと先日聞いたわ。そういえば侍女長も身につけていたわね」
興味深そうに眺めるイリンカへ、ウラドはどこか誇らしげに胸を張った。
「ああ。これは俺が心から信頼する者だけに授ける証だ。忠義ある臣下は、俺にとって何より大切な存在だからな。万一に備え、守護魔術も付与してある」
「信頼できる……私には、身に余る光栄でございます」
その一言を聞き、エマの瞳は感極まったように潤み、襟元のバッジをそっと握りしめる。
その姿は、まるで何より尊い宝を授かった少女のようだった。
そんな様子を見ていたイリンカは、得意げに胸を張るウラドの横顔へ視線を移す。
自慢する子どものような表情が何とも微笑ましくて、不覚にも可愛いと思ってしまった。
思わず、小さく笑みが零れる。
「ふふっ。素敵だわ、とても貴方らしい制度だと思う」
「なんだ、イリンカ。お前も欲しいのか? お前になら、望むだけいくらでも授けてやるぞ」
嬉しそうに顔を綻ばせながら、ウラドはイリンカの顔を覗き込む。
「ちょっと! そんなふうに乱発したら、バッジの価値がなくなっちゃうでしょ!」
呆れ半分に言い返すと、イリンカはウラドの額をペシッと軽く叩いた。
本来なら、皇帝の額に触れることなど不敬の極みである。
しかし当の本人は咎めるどころか、叩かれたことすら嬉しいと言わんばかりに、幸せそうな笑みをますます深めるだけだった。
「お二人は、本当に仲がよろしいのですね。見ているこちらまで照れてしまいそうです」
頬をほんのり赤く染めたヨアナが、思わず笑みをこぼしながら隣のエマへ話しかける。
「ええ、本当に……」
エマもまた、慈愛に満ちた穏やかな微笑を浮かべながら、幸せそうに寄り添う二人を静かに見つめていた。




