第十九話:悪意の種
第十八話と第十九話を一緒に投稿しました。
大広間を後にしたソリナは、公爵邸へ戻るため、静まり返った皇宮の回廊をゆっくりと歩いていた。磨き上げられた白い大理石の床に、規則正しくヒールの音が響く。
カツ――。
カツ――。
その音だけが、人気のない回廊へ静かに吸い込まれていった。
皇宮へ潜ませている間者から、「大広間で何やら騒ぎが起きております」と知らせを受けた時は、念のため様子を見に来ただけだった。
けれど。
(来て正解でした)
ソリナは口元へ小さく笑みを浮かべる。
(あのモッサリ女が恐怖に耐えかねて皇宮から逃げ出さなかったのは、少しばかり計算違いでしたけれど……)
イリンカと目があった時に微笑んできたのは予想外だった。
(どうやら何か感づいたようでしたが、何の問題もありませんわ)
それに、それ以上の収穫があった。先ほどの光景が鮮明によみがえる。近衛兵へ取り押さえられ、泣き叫びながら引きずられていくラルカ。あの惨めな姿は、実に滑稽だった。
(ええ……ラルカ。あなたは本当に期待を裏切らない。馬鹿な女ね)
ソリナは心の中だけで、小さく笑う。ラルカは最後まで必死に叫んでいた。
――私は殺そうとまでは思っていませんでした。
その言葉は、本心だったのだろう。
(あなたに、人を殺す度胸なんてあるはずがありませんもの)
ラルカは愚かではあっても、小心者だ。嫌がらせをする勇気はあっても、本当に人の命を奪う覚悟など持ち合わせてはいない。ソリナは、ゆっくりと口元を吊り上げた。
では。
イリンカの頭上へ落ちてきた、あの植木鉢は一体、誰が落としたのだろう。
(私が撒いた『噂』を、本気で信じた誰か)
――イリンカは皇帝を脅迫して皇后になろうとしている。
――皇帝陛下は無理やり婚約させられている。
――あの女は帝国の害悪だ。
そんな嘘を、ソリナは少しずつ、少しずつ宮廷へ流し続けてきた。
誰か一人に強く吹き込むのではない。
十人へひとつずつ。
百人へひとつずつ。
そうして悪意という名の種を、大地へ蒔くように広げていった。
種は、勝手に芽吹く。育てる必要などない。人の嫉妬も、憎悪も、正義感も。
ほんの少し水を与えてやれば、勝手に膨れ上がっていくのだから。
そして、その中の誰かが。
ついに殺意という花を咲かせた。
「ふふっ……」
思わず、小さな笑みが漏れる。
「くすくすっ……」
堪えきれず、笑い声が静かな回廊へ溶けていった。
なんて素敵なのだろう。
自分は何もしていない。私の手は、何一つ汚れていない。
それなのに。
私の撒いた種が、勝手に育ち、実を結び、イリンカを苦しめてくれる。
こんなにも美しいことがあるだろうか。
(もっと苦しめばいい)
(もっと怯えればいい)
(もっと絶望すればいい)
あの女には、それがお似合いだ。私だけのウラドお兄様の隣へ立とうなど、泥遊びをしてきた娘が、玉座へ腰掛けようとするくらい身の程知らずではないか。
その時だった。
脳裏へ、大広間で見た光景が浮かぶ。イリンカの隣へ並び立つウラド。彼女を守るように前へ立ち、誰一人寄せ付けまいとする、あの力強い背中。
その姿を思い出した瞬間。ソリナの笑みが、すっと消えた。
ギリッ――。
奥歯が軋む。嫉妬で胸が焼け付く。
あの場所は。
あの腕に守られるのは。
お兄様と肩を並べるのは。
本来なら、私だったはずなのに。
「……必ず、手に入れますわ」
ぽつりと漏れたその声には、先ほどまでの優雅さはない。
執着。
狂気。
そして、底知れない独占欲だけが滲んでいた。
「さぁ……」
ソリナは再び微笑む。
「次は、どんな種を蒔いて差し上げようかしら」
その笑みは、慈愛に満ちた聖女のものではない。獲物を追い詰めることに歓びを覚える、蛇のような捕食者の笑みだった。
誰もいない回廊を歩く彼女の足音だけが、静かに、どこまでも長く響き続けるのだった。




