第十七話:モッサリ令嬢の断罪(前編)
重厚な扉が開かれ、大広間に足を踏み入れたイリンカへ一斉に視線が集まる。
その姿は、本日もいつも通りのモッサリ令嬢であった。
しかし、彼女の傍らに寄り添う侍女長アデラの表情は、いつもの穏やかなものとは異なり厳しさを湛えている。
ただ事ではない――。
その場の誰もが、肌を刺すような緊張感から本能的にそれを察知していた。
「皆さん、このたびは私のためにお集まりいただき、ありがとうございます」
大広間の高い天井に、イリンカのよく通る声が静かに響き渡る。
しかし、続く言葉には、どこか痛ましげな響きが混じっていた。
「……最近、私の周りでは、不可解で妙な出来事が立て続けに起きています」
心なしか、その声は微かに震えているように聞こえた。
イリンカは悲しみに耐えかねたように、そっと視線を床へと落とす。
「私は正直に申し上げて、これ以上の状況には耐えられそうもありません……」
その弱々しく落胆した表情を見た瞬間、ラルカの口元は勝ち誇ったように吊り上がった。
(とうとう、あのモッサリ女が諦めて自分の国へ帰るんだわ……!)
勝利を確信し、内心で歓喜の声を上げるラルカ。
その一方で、事態を深刻に受け止めていたヨアナは、最悪の結末を予感して血の気が引いていくのを感じていた。
(イリンカ様、まさか……嘘でしょう!?)
「そんな、駄目よ……」
絶望に包まれるヨアナの耳に、隣から消え入りそうな呟きが届く。
視線を向けると、侍女長補佐であるエマが、酷く動揺した様子で青ざめながら、拒絶するように幾度も首を振っていた。
誰もが固唾を呑み、彼女の言葉を待っている。
大広間は、水を打ったように静まり返っていた。
「私は、フィオル王国に……」
言葉を溜め、誰もが息を止めたその瞬間。
イリンカはガバッと勢いよく顔を上げ、大広間全体を震わせるほどの張りのある声で言い放った。
「――絶対に帰りません!」
(!?)
あまりの落差に、その場の全員の思考が完全に停止した。
「は……?」
あまりにも間の抜けた声が、ラルカの口から漏れる。
静まり返った場の中、その呟きを確かに聞いたイリンカは、先ほどまでの悲劇のヒロインの仮面を外し、ニヤリと笑ってみせた。
そのまま、手元にあった分厚い紙の束を、大広間の全員に見せつけるように高く掲げる。
「ここに、皆さんのこれまでの勤務態度を記録した『評価表』があります。今日お集まりいただいたのは他でもありません。この評価が低い方々には、今すぐこの皇宮から出て行っていただきます」
「なんですって……!?」
「どういうことよ!?」
一転して、大広間は蜂の巣をつついたような空気に包まれる。
特に、日頃からイリンカに対して明確な嫌がらせを行ってきた自覚のある侍女たち――ラルカを筆頭とする面々は、あまりの衝撃に目を見開いて硬直していた。
そんな彼女たちを、イリンカは冷徹極まる視線で見つめる。
「あなたたち……良くもまあ、色々と陰湿な真似をしてくれたものよね。本人の目の前で堂々と悪口を言い、クッションには針を入れる。そして、私の紅茶に虫を入れるなんてね」
呆れ果てたように、明らかな怒りを孕んだイリンカの告発に、事情を知らない真面目な侍女たちは一斉に眉をひそめた。
「なんて見下げ果てたことを……」
「同じ皇宮の侍女として、恥ずかしいわ」
冷ややかな非難の視線が、一転して自分たちへと注がれる。
逃げ場をなくしたラルカたちは、必死に言い訳を叫び始めた。
「で、ですが、イリンカ様は陛下を脅してこの国に居座っていらっしゃる悪女だと聞きました!」
「そうです! 私たちはただ、この皇宮の正しき秩序を取り戻そうとしただけで……!」
「そんなモッサリとした冴えない令嬢を、我が国の至高たる陛下が心から大事になさるわけがありません!」
醜く喚き散らし、自分たちの正当性を主張し、なおも目の前のイリンカを侮辱して歯向かおうとする侍女たち。
その姿を、イリンカはフッと鼻で笑い飛ばした。
「出所も定かではない信憑性のない噂話を鵜呑みにし、あまつさえ人を見た目だけで簡単に判断する。そんな愚かで思慮の浅い侍女、この大帝国の皇宮には一切必要ないわよ!」
一刀両断。
ぐうの音も出ない正論で彼女たちのプライドを叩き潰すと、イリンカはどこか楽しげに、皆の背後へと視線を向けて笑った。
「私は悪女なんですって、ウラド」
「俺は、お前が悪女であろうとなかろうと、一向に構わないがな」
大広間の空気を震わせる、重厚な声音。
全侍女が弾かれたように振り返ったその先には、大帝国の頂点に君臨する皇帝ウラドが、悠然と佇んでいた。
その左右には、冷たい眼差しを向ける宰相クリスティアンと、威風堂々とした将軍の姿もある。
ウラドは迷いのない足取りで、ごく自然な動作でイリンカの真横へと並び立った。
そして、周囲の侍女たちを塵芥でも見るかのような視線で鋭く睨みつける。
「余が遥々フィオル王国まで自ら出向き、直々に迎えた最愛の婚約者を、あろうことか否定する不届き者がこの皇宮にいたとはな」
低く抑えられた声には、凄まじい怒りと殺気が滲んでいた。
その瞬間、イリンカを馬鹿にしていた侍女たちは、ようやく自分たちがどれほど愚かなことをしてしまったのかを理解した。
噂は全て偽りで、目の前のモッサリ令嬢は、皇帝から寵愛を受ける絶対的な存在であったのだと。
「も、申し訳ございません……!」
「お許しくださいっ! 愚かな噂に惑わされていたのです!」
「何でもいたします、どうか、どうかお慈悲を……!」
次々と床へ膝をつき、額を擦り付けて涙ながらに許しを乞う侍女たち。
しかしウラドは、そんな彼女たちの見苦しい姿を見下ろすのみで、一切の言葉を返そうとはしない。
無言の圧力が大広間を埋め尽くした時、代わりに宰相クリスティアンが一歩前へと進み出た。
「未だ正式な婚約の儀の前とはいえ、イリンカ様はすでに準王族に該当する高貴なお方。そのお身体を傷つけ、侮辱する行為は、大帝国への明確な反旗と見なされます。……すなわち、一族諸共『死罪』に値する大罪です」
死罪。
その二文字に、ラルカたちの顔から完全に血の気が失せた。
ガタガタと全身の震えが止まらない中、ラルカの脳裏に、あの美しいガゼボで交わされた約束が浮かび上がる。
(大丈夫……私には、ソリナ様が付いている。あのお方が後ろ盾になってくださるはず……!)
そんな思いに突き動かされてラルカは、恐怖で狂いそうな気持ちを押し込めて声を限界まで張り上げた。
「へ、陛下はあの女に苦しめられているはずです! この偉大なる大帝国のためにも、正統な血筋であるソリナ様をこそ皇后にお迎えするべきですわ!」
床にへばりついたまま、必死に命乞いと主張を繰り返す。
「この、私めも側妃として全てを捧げお支えます! そんな、見た目も美しくないどこの馬の骨とも知れぬ令嬢では、大帝国の皇后など到底務まりません――っ!」
「黙れ」
ウラドの地を這うような一言で、大広間の空気が完全に凍りついた。
覇王の放つ圧倒的なまでの、本物の「殺気」。
それは、温室育ちの貴族の令嬢たちが耐えられるようなものではなかった。
魂を直接掴まれたかのような圧倒的な恐怖に、ラルカは声を発することすらできず、ただ歯の根を鳴らして震えることしかできない。
「どこまでも浅ましい戯言を……。ソリナの奴に、良からぬことでも吹き込まれたか」
ウラドが不快そうに、これ以上ないほどに顔を歪めた、その時だった。
「あら、嫌ですわ。まるで私が悪いことでもしているかのように仰らないでくださいな、ウラドお兄様」
張り詰めた地獄のような空間に、あまりにも不釣り合いな柔らかな声が響いた。




