第十六話:狙われたモッサリ令嬢
事件は、私が庭に出た時に起こった。
その日私は、巨大温室の施工具合を確認するため、庭を歩いていた。暖かな陽射しが庭園を照らし、花々は色鮮やかに咲き誇っている。
穏やかな昼下がり――のはずだった。
「危ないっ!」
パァンッ――。
鋭い叫び声と同時に、頭上で何かが激しく弾ける音が響いた。
あまりにも突然の出来事に、私はその場で固まる。気が付けば、目の前にはラゴス将軍の大きな背中があった。私を庇うように立ちはだかるその向こうには、砕け散った植木鉢の破片が庭石の上に散乱している。
ようやく何が起きたのか理解し、背筋がゾクリとした。
「姉ちゃん、大丈夫か?」
将軍が振り返り、心配そうに声を掛けてくれる。
「……はい。ありがとうございます」
どうやら植木鉢が窓から落ちてきたらしい。将軍が咄嗟に弾き飛ばしてくれたのだろう。
もし、あれがそのまま頭に直撃していたら――。
そう思っただけで、身体が小さく震えた。
「……私を狙ったのかしら」
「おそらくな」
将軍は苦々しく眉を寄せる。
「最近、おかしな噂が妙に広まってる。陛下からも姉ちゃんの警護を強化するよう言われてな。俺が付いた途端にこれだ」
深いため息をひとつ吐き、真剣な眼差しで私を見据える。
「さすがに見過ごせねぇ。陛下のところへ行くぞ」
「えぇ、わかったわ」
私は素直に頷いた。
※
皇帝の執務室は、覇王の怒気に満ちていた。
ラゴス将軍に加え、宰相クリスティアン、侍女長アデラが揃っているが、誰もが一様に渋い表情を浮かべている。その中心には、腕を組み、眉間に深い皺を刻んだウラドがいた。
不満そうな顔で、ジィッと私を見つめている。
……覇王様、完全にオコである。
さすがに心配を掛けすぎたかな……と、私は少しだけ反省した。とはいえ、これからさらに追い打ちを掛けてしまう。申し訳ないなと思いながらも、私はおずおずと、自作の評価表を差し出した。
ウラドは無言で受け取り、静かに紙をめくり始める。
一枚。
また一枚。
読み進めるたびに眉間の皺は深くなり、それに比例するように部屋を満たす殺気も濃くなっていった。
……これはまずい。
私は気配を消すように、スススと後ろへ下がる。
次の瞬間――。
ドォォンッ!!
ウラドの蹴りが重厚な執務机を捉えた。
机は信じられない勢いで宙を舞い、壁へ激突して凄まじい音を響かせる。
クリスティアンたちは、ウラドのあまりの怒りに固まっている。
「おぉ。さすがは陛下だな! 見事な蹴りだっ」
ラゴス将軍だけは楽しそうだけど。
……一応、私たちには当たらない方向へ飛ばしてくれたらしい。怒っていても、そのあたりはちゃんと配慮してくれるようだ。
優しい。
いや、優しいの基準がおかしくなってきた気がする。
「……なんだ、これは」
凍り付いた空気の中、低く押し殺した声が響く。静かな一言なのに、それだけで背筋が震えるほど恐ろしい。
「このリストにいる奴らを、全員八つ裂きにしてやる」
覇王様、自ら粛清宣言である。
うん。シャレにならないな。
「……ここ最近、イリンカ様についての悪い噂が異常な勢いで広まっております」
クリスティアンが眉をひそめながら説明する。
「恐らく、裏で意図的に先導している者がおります」
その言葉に、アデラも静かに頷いた。
「侍女たちからも、イリンカ様のお身を案じる声が数多く上がっております。そろそろ静観するのは難しいかと」
意外なことに、思っていた以上に、忠義に尽くす侍女は多かった。嫌がらせをしている侍女たちを注意したり、アデラへ報告したり、中には止めさせてほしいと進言してくれた者までいたらしい。
さすがはウラドの皇宮だ。
多くの侍女たちは陰口に流されることなく、きちんと物事を見て、私の身を案じてくれている。
アデラは少し困ったように息をつき、さらに言葉を続けた。
「それに……そろそろ侍女見習いのヨアナが倒れそうです」
その視線が、そっと私へ向く。ほんの少しだけ、責めるような眼差しだった。
皆の視線が痛い。
「うぐっ……」
思わず言葉が詰まる。
私への嫌がらせを、ずっと傍で見続けてきたヨアナ。なぜか当事者である私よりも、彼女のほうがすっかり憔悴しきってしまっていた。
今朝、挨拶に来た時など、今にも倒れそうで、死にそうな顔色をしていた。
……被害者は私のはずなのに、なぜか私が悪い空気になっている。
解せぬ。
「イリンカ、どうする?」
ウラドが苛立ちを押し殺した声で問いかける。
「俺としては、今すぐ全員叩き潰したいところだが」
……すぐにでも殴り込みに行きそうな雰囲気だな。
それでも最後の判断は、私に委ねてくれる。その姿勢が素直に嬉しかった。
ちょっぴり好きだな、なんて思う。もちろん、本人には言わないけれど。
けれど、ウラドもそろそろ我慢の限界なのだろう。金色の瞳には怒りだけではなく、私を案じる色が滲んでいた。
「そうね」
私はゆっくり頷く。
「確かに、潮時かもしれないわ」
口元に不敵な笑みを浮かべ、アデラへ視線を向ける。
「アデラ。場を作ってちょうだい」
静かなその一言を合図に、部屋の空気がゆっくりと張り詰めていった。
*
皇宮の大広間。
普段は式典や謁見に用いられるその場所へ、侍女と侍女見習いたちが一堂に集められていた。突然の招集に、広間はざわめきに包まれている。
「何があったのかしら」
「こんなこと、今まで一度もなかったわよね」
不安げな囁きがあちこちから聞こえ、落ち着かない空気が広がっていた。
ヨアナもまた、その中で胸の鼓動を早めていた。
(何が起こるの……?)
こんな形で全員が集められるなど、これまで一度もなかった。胸の奥に、不安がじわじわと広がっていく。
そんな中、少し離れた場所から聞き覚えのある声が耳に届いた。
ラルカを中心とした侍女見習いたちが、小声で囁き合っている。
「とうとう、あの女が出ていくのかもね」
「やっとね。最初からここには相応しくなかったのよ」
その言葉に、ヨアナは思わず眉をひそめた。
イリンカ様が追い出される――。
まるで、それを期待しているような口ぶりだった。
その時だった。
「ヨアナ、落ち着いて」
隣から穏やかな声が掛かる。
振り向くと、侍女長補佐のエマが困ったように微笑んでいた。
「……もう少しだけ待っていて」
優しく言い聞かせるような口調だった。
「……エマ様」
ヨアナは胸が熱くなるのを感じた。
エマもまた、この状況を憂いていたのだ。それだけで、張り詰めていた心が少しだけ軽くなる。
ふと、その視線がエマの胸元へ向いた。襟元には、鈍く美しい光を放つ銀のバッジが留められている。
大帝国の紋章が精巧に刻まれた、気品あふれる意匠の品だった。
「それ……陛下に認められた方々だけが拝領できるというバッジですよね」
ヨアナが羨望を滲ませながら尋ねると、エマはどこか誇らしげにはにかんだ。
「えぇ。陛下から直接賜る、とても栄誉あるお品よ」
そっとバッジへ指先を添え、そのまま懐かしむように目を細める。
「私は陛下が即位されて間もない頃からお仕えしてきたの。気が付けば、もう十年になるわ」
その声音には、長い年月を共に歩んできた者だけが持つ温かさが滲んでいた。
「陛下は昔から努力家で、とても勤勉なお方だったわ。それでいて身分に関係なく臣下へ接してくださる、本当に素敵なお方なの」
当時のことを思い出したのか、エマはふっと頬を染める。その優しい微笑みからは、心から皇帝を敬愛していることが伝わってきた。
(やっぱり、陛下は昔からすごいお方だったんだ……)
ヨアナは静かに頷く。
今の臣下たちがあれほど忠誠を誓っている理由も、少しだけ分かった気がした。
エマは再びバッジへそっと触れ、まるで誓いをするように小さく呟いた。
「私は、このバッジに恥じない行動をしなければいけないの。全ては陛下のために……」
その声はあまりにも小さく、ヨアナには最後まで聞き取ることができなかった。
その時――。
重厚な大広間の扉が、ゆっくりと開かれる。
ざわめいていた空気が一瞬で静まり返り、全員の視線が一斉に入口へ向いた。
そこへ、イリンカが静かに姿を現した。




