第十五話:ヨアナの不安
侍女見習いのヨアナは、このところ胸の奥に消えない不安を抱えていた。
イリンカ様の周囲で、おかしな出来事が立て続けに起きているのだ。植物が突然枯れる。紅茶には虫が入り、クッションには針が仕込まれている。どれも偶然で片付けられるような出来事ではない。
誰かが意図的に仕組んでいる、悪質な嫌がらせだった。まるでイリンカ様を、この皇宮から――いや、この国から追い出そうとしているかのように。
犯人についても、ヨアナにはある程度の心当たりがあった。もちろん、侍女長アデラにも相談していた。
けれど返ってきたのは、どこか苦し気な表情とともに告げられた一言だけだった。
「イリンカ様が、もう少し様子を見たいと仰っていて……」
それ以上、アデラは何も語らなかった。
命令には従うしかない。けれど、何もできず見ているだけというのは、思っていた以上に苦しかった。
今日のお茶の時間でも、紅茶の中には虫が入っていた。それだけでも十分に悪質な出来事だったのに、その様子を見て楽しそうに笑っている侍女までいた。
あの光景を思い返すだけで、胸の奥がじくじくと痛む。
悔しくて、たまらなかった。
(皇帝陛下は、どうして何もなさらないの……)
本来なら、あれほどの無礼を働いた者たちは厳しく罰せられてもおかしくない。それなのに、何も起きない。何も変わらない。
もしかすると――。
そんな考えが、不意に頭をよぎる。
(噂は、本当なのかしら)
最近、宮中では奇妙な噂が囁かれていた。
イリンカ様が皇帝陛下を脅している。だから陛下は逆らえず、婚約を受け入れたのだ、と。
あまりにも馬鹿げた話だ。けれど、何も行動を起こさない陛下を見ていると、一瞬だけその噂が頭をかすめてしまう。
だが、ヨアナはすぐに首を横へ振った。
(違う)
これまで傍でお仕えしてきたからこそ分かる。イリンカ様は芯が強く、誠実で、誰よりも優しい人だ。
……見た目こそ、少しモッサリしていらっしゃるけれど。
それでも、その優しさまで演技だとは、とても思えなかった。
だったら、自分にできることをするしかない。少しでもイリンカ様の力になりたい。
その決意を胸に、侍女たちの控えの間で仕事の支度をしていると、少し離れた場所から聞き慣れた笑い声が耳へ届いた。
ラルカを中心とした、貴族出身の侍女見習いたちだった。
「ねぇ、見た? さっきの困ったお顔」
一人の侍女が面白そうに笑う。
「えぇ。ようやく身の程が分かってきたみたいね」
「あんな見た目で、本当に陛下と釣り合うと思っているのかしら」
その言葉は、聞き流せなかった。胸の奥から熱いものが込み上げ、気づけばヨアナは一歩踏み出していた。
「未来の皇后陛下になんてことを言うのですか。あなたたちは侍女として恥ずかしくないのですか」
その一言で、控えの間の空気がぴんと張り詰める。ラルカたちは露骨に顔をしかめた。
「平民のくせに、生意気ね!」
「お父様に言って懲らしめてもらうわ!」
険悪な空気が一気に広がり、周囲の侍女や見習いたちも戸惑うように互いの顔を見合わせた。
誰もが止めに入れず、その場が硬直しかけた時だった。
「皆さん、おやめなさいな」
凛とした女性の声が、控えの間に静かに響き渡る。
侍女長補佐のエマだった。
彼女が姿を現した途端、張りつめていた空気がわずかに和らぐ。エマは誰か一人に肩入れすることなく、その場にいる全員を静かな眼差しで見渡した。
「ヨアナさんの言う通りです。皆さん、それぞれ思うところはあるでしょう。ですが、私たちはこの皇宮を任される侍女です」
一拍置き、穏やかな口調のまま続ける。
「自ら誇りを失うような振る舞いをしてはいけません」
その言葉に、ラルカたちは気まずそうに視線を逸らした。
エマは今度はヨアナへ向き直り、柔らかく微笑む。
「ヨアナ、あなたは悪くないわ。周りに惑わされず、自分の仕事に誇りを持って励みなさい」
そう言って、そっと肩を叩いてくれた。
「はい。ありがとうございます」
自然と笑みがこぼれる。
エマは男爵令嬢でありながら、平民である自分たちにも分け隔てなく接してくれる。その姿は、ヨアナが心から尊敬する理想の侍女だった。
(いつか私も、エマ様のような侍女になりたい)
その憧れを胸に、ヨアナは改めて気持ちを引き締めた。
やがて控えの間へ侍女長アデラが姿を現す。
「皆さん、これから業務の打ち合わせを行います」
その一声で侍女たちは素早く整列し、控えの間は再び静寂を取り戻した。
アデラの説明が始まる中、ラルカだけは不満を押し殺すように俯いている。
(何よ……)
(どうして、あんなモッサリした女なんかに仕えなくちゃいけないのよ)
(どうせ、もうすぐいなくなるくせに)
胸の奥には、ソリナとのお茶会で語られた夢が、今も鮮やかに残っていた。
いつか自分は皇帝陛下の側妃となる。そして、そのときは真っ先に平民のヨアナたちや、エマのような生意気な侍女を宮殿から追い出してやる。
そんな甘美な未来を思い描きながら、ラルカは美しい皇帝の隣で微笑む自分の姿を夢想する。
その日が必ず訪れると信じて疑うことなく、胸を密かに高鳴らせていた。




