第九話:覇王の誓い
その後、イリンカはウラドとの晩餐を終え、温かい湯で長旅の疲れを癒した。
もちろん、まだ宮廷の者たちへ素顔を明かすつもりはない。
そのため、事情を察しているアデラに手伝ってもらいながら素顔に戻る。
支度を終えたイリンカをあらためて見つめ、アデラは心底感心したように、小さな息をつく。
「……それにいたしましても、イリンカ様は本当に美しいお方なのですね。陛下があれほど大切になさるのも納得です」
真心からの真っ直ぐな賛辞を受け、イリンカはどこか決まり悪そうに苦笑いを浮かべた。
「これがこれで、そのまま表に出ると目立つから厄介なのよね……。余計な火種は作らないに越したことはないわ」
「確かに、その本来のお姿のままでは、嫌でも皆様の視線を独占してしまわれるでしょうね」
アデラも宮廷の複雑な人間関係を思ってか、納得したように静かに頷いた。
そうして身支度を終えたものの、王国からの大移動による疲労がどっと押し寄せてきたのか、イリンカは小さくあくびを漏らす。
「ふぁ……そろそろ眠くなってきたわね」
そう呟き、寝室へ向かって休もうとしたところで、ふと足を止めた。
「ねぇ、アデラ。私の寝室は、この扉の向こうで合っているかしら?」
室内に設えられた、上品な装飾が施されている重厚な扉を指差して尋ねる。
するとアデラは、どこか言いづらそうにわずかな間を置いてから、困ったような笑みを浮かべて答えた。
「…………さようでございます。そちらでお休みくださいませ」
アデラの様子が気になったものの、睡魔に勝てず、イリンカはそのまま扉を押し開いた。
そして次の瞬間、部屋へ足を踏み入れた彼女は完全にその場で固まることとなった。
そこは――どう見ても、皇帝ウラドの寝室だった。
「…………アデラ。これは一体、どういうことかしら?」
イリンカは本日、遥々王国からやって来たばかりの婚約者である。まだ正式な婚約式すら終えていない段階なのだ。
常識的に考えれば、同じ寝室で眠るのは婚姻の儀を終えた後ではないのだろうか。
しかし、問い詰められたアデラはイリンカと目を合わせようとはせず、申し訳なさそうに深く頭を下げた。
「……大帝国において、皇帝陛下のご命令に逆らえる者は一人もおりません。どうか、私どもの立場もご容赦くださいませ。それではイリンカ様、良い夢を」
そう言い残すと、アデラは驚くべき足早さで部屋を出て行ってしまった。
(……逃げたわね)
ジト目になったイリンカが閉まった扉を虚しく見つめていると、不意に部屋の奥から低い声がかかる。
「イリンカ。そんなところに立っていないで、早くこっちへ来い」
当然のように、広い寝室の奥にはウラドがくつろいだ様子で座っていた。
「…………」
イリンカは無言のまま、今度はその元凶であるウラドへと冷ややかなジト目を向ける。
しかし、そんな責めるような視線を受けても、当の本人はどこ吹く風といった様子で微笑んでいた。
「そんな顔で俺を睨んでも、可愛いだけだぞ」
ご機嫌そのものの笑みを浮かべ、美しい金色の瞳を細める。
「だいたい、この間まで毎晩のように一緒に寝ていただろう。何を今さら、そんなに驚く必要がある」
肩をすくめながら、さも当然の権利だと言わんばかりに平然と言い放つ。
「あれは、あなたがまだ生霊だった時でしょう!? しかも、見た目は少年の姿だったじゃない!」
あの不可抗力だった頃と、大人の肉体を取り戻した今を一緒にされては堪ったものではない。
イリンカが顔を赤くして必死に抗議していると、ウラドは面倒くさそうに整った片眉を上げ、そのまま長い足を動かして彼女へと歩み寄ってきた。
「な、何するのよ? ちょっと、やめなさ……きゃあっ!?」
次の瞬間、ひょいとなすがまま抱き上げられる。
ウラドはそのまま歩き出すと、部屋の中央に鎮座する、豪奢な天蓋付きの大きなベッドへと向かった。
ふわりと柔らかい絹のシーツの上に優しく寝かせられると、ウラド自身も当然のようにその隣へと横になる。至近距離に顔を寄せ、穏やかに微笑んだ。
「諦めろ」
短くそう告げると、ウラドはイリンカを優しく胸に抱き寄せ、その大きな体で包み込むようにして閉じ込めた。
「……っ」
ぴたりと密着する、男らしい体躯と体温。鼻腔をくすぐる、微かに香る彼の匂い。
あまりにも近すぎる互いの距離に、イリンカは緊張で思わず強張ってしまう。
(どうしよう……心臓が、さっきからドキドキしてる。顔も凄く熱い……!)
そんな余裕のない様子を、ウラドはトロリと蕩けるような眼差しで見つめていた。
愛しくて、可愛くて仕方ががない――そんな甘い感情が、隠そうともせずに全身から溢れ出ている。
「良い夢を……俺のイリンカ」
鼓膜に直接響くような低い声で甘く囁くと、彼はそっと、彼女の額へと優しい口づけを落とした。
「!!!!!!」
羞恥のあまり真っ赤になって硬直するイリンカを見て、ウラドは楽しそうにくすくすと笑う。
こうしてイリンカは、最後の最後までウラドのペースに翻弄されながら、大帝国での長い一日を終えるのだった。
*
夜も更け、皇帝の広大な寝室には、静かな月明かりが差し込んでいた。
薄いレースのカーテン越しに降り注ぐ銀色の光が、シーツの上で寄り添って眠る二人の姿を優しく照らし出している。
ウラドは自らの腕の中で、すっかり安らかな寝息を立てているイリンカを、穏やかな眼差しで見つめていた。
やはり、王国からの長旅で心身ともに疲れていたのだろう。
あれだけ不満を口にして抵抗していたにもかかわらず、腕の中に抱き寄せられて間もなく、深い眠りへ落ちてしまった。
規則正しく刻まれる小さな寝息。警戒心をすっかり失くした、無防備な寝顔。
ウラドはこみ上げる愛情に耐えかねて、彼女の頬へとそっと唇をよせた。
イリンカ。
この世界で、俺が生涯ただ一人と心に決めた大切な女。
明るく前向きで、面倒見が良くて。決して素直ではないくせに、その実、誰よりも優しく温かい。
俺が呪いに侵され、暗闇の中で眠り続けていたあの日々。彼女は俺を献身的に助けた。
それだけでなく、生霊となって彷徨っていた、幼い俺の心の傷までも癒やしてくれた。
かつて悪夢にうなされていた時、暗闇の向こうから何度も聞こえた優しい声。
「大丈夫よ」
そう言って励ましながら、あの細い腕で必死に抱きしめてくれた温もりを、俺は今でも鮮明に覚えている。
そして最後には――俺を縛り続けていた、あの忌々しい呪いさえもその力で解き放ってくれた。
そんな特別な女性に、惹かれないわけがない。彼女と出会って初めて、俺は生きる意味を知った。
だからこそ、もう彼女を失うことなど、万が一にも考えられない。
まるで一度口にしたら忘れられない、禁断の果実のようだ。
もしも彼女が俺の前からいなくなれば、自分はきっと、二度と正気ではいられないだろう。
だから、この静寂の中で誓う。
この命のすべてを懸けて、お前をいかなる脅威からも守り抜く。
誰にも渡さない、決して離さない、この腕から逃がしはしない。
穏やかな寝顔を見つめながら、胸の奥からせき止められないほどの愛しさが、自然と言葉になって零れ落ちる。
「愛してるよ、俺のイリンカ」
静かにそう囁くと、ウラドは彼女の美しい漆黒の髪をひと房すくい上げ、永遠の誓いを捧げるように口づけを落とした。




