第五話:皇帝の帰還
慌ただしく過ぎていった一日の終わり、夕闇が皇宮を包み込み始める頃。
ついに、ダキア大帝国のウラド・ダキア皇帝が帰還する時がやってきた。
皇宮正門前には、主の出迎えのために大勢の人々が集まっている。
最前列で並び立つのは、皇帝の腹心宰相クリスティアンと将軍ラゴス。
その後ろには、帝国を支える重臣たちが居並び、誰もが皇帝の帰還を今か今かと待ち望んでいた。
皇帝不在の間も国政は滞りなく機能していた。
しかし、この国においてウラド・ダキアという男は絶対的な存在であり、その帰還は国家の魂が戻ることを意味していた。
やがて、重々しい足音と共に馬車の列が姿を現した。
精鋭騎士たちに守られながら進むその一団は、近付くにつれて威容を放ち、見る者を圧倒していく。
そして、隊列の中央に位置する、漆黒の重厚な馬車が、正門の前でゆっくりと停止した。
張り詰めた沈黙が周囲の空気を支配する。
臣下たちが見守る中、豪奢な扉が開かれ、中から大帝国の覇王――ウラド・ダキアが姿を現した。
その瞬間、集まっていた者たちは一斉に跪き、臣下の礼をとる。
「表を上げよ」
静かに響き渡ったその声に、重臣たちの間に微かな動揺が走った。誰もが規律を忘れて顔を見合わせそうになる。
いつもと違う。
その声には、普段の威圧感だけではなく、どこか弾むような、歓喜の色が混じっていたのだ。
彼らがこれまでの臣下生活で、一度として聞いたことのない声だった。
おそるおそる顔を上げた重臣たちは、今度こそ驚愕する。
あの冷酷無比と恐れられる覇王が、隠しきれないほど上機嫌だったのだ。
端正な口元には笑みが浮かび、黄金の瞳は歓喜に濡れている。
その様子に、居並ぶ者たちは内心で騒然としていた。
後方に控えていた平民出身の侍女、ヨアナも例外ではなかった。
彼女は目を丸くしながら、信じられないものを見るようにウラドを凝視する。
陛下って、あんな風に笑われるんだ……。
思わずそんな感想が浮かんでしまう。
噂に聞いていた「フィオル王国で見つけた運命の女性」への溺愛ぶりは、どうやら宮廷の誇張ではなかったらしい。
けれど、まさかここまでとは思わなかった。
本当に婚約者様を愛していらっしゃるのね、いったいどれほど素敵なお方なのだろう。
ヨアナは期待で胸が高鳴る。
その時だった、ウラドが愛おしげに馬車へと振り返った。そして、ごく自然な所作で片手を差し出す。
その流れるような動作だけで、誰もが理解した。これから降り立つ、未来の皇后へのエスコートなのだと。
周囲の視線が一斉に馬車に集中する。
やがて、その大きな手の上に、白く細い手がそっと重ねられた。
続いて、一人の令嬢が優雅な所作で馬車から降り立つ。
皇帝が心から愛し、妃として迎えようとしている女性に人々の視線が一点に集まる。
次の瞬間、誰もが言葉を失った。
そこには、モッサリとした令嬢が立っていたのだ。
*
時は少し遡る。
ダキア大帝国へとひた走る馬車の中、イリンカは対面に座るウラドへある提案をした。
「ウラド、あなたにお願いがあるの。向こうでは、モッサリ令嬢の姿でいたいの」
その突拍子もない言葉に、ウラドは意外そうに整った片眉を上げた。
「何故だ?」
と訝しげに尋ねる低く落ち着いた声には、明らかな懸念が滲んでいる。
「そんな姿になれば、余計な侮りや嫌がらせを受けるかもしれんぞ。俺はそんなことは望まない」
ウラドとしては、愛する者に一瞬たりともそんな真似はさせたくなかった。
だが、当のイリンカはそんなウラドの心配をどこ吹く風とばかりに、軽々と肩をすくめてみせた。
「どうせ不愉快な思いをするなら一気に終わらせたいのよね」
何でもないような気軽さで、彼女は言い切った。
そしてゆっくりと口端を釣り上げ、悪魔のような笑みを浮かべてみせる。
「面倒な連中は、まとめて叩き潰しちゃおうと思って。ふふっ」
イリンカは貴族という者たちのプライドの高さと、身分や外見だけで他人を値踏みする本質を良く知っている。
間違いなく、嫉妬に狂った侍女たちからの陰湿な嫌がらせは起きるだろう。
ならば、最初からモッサリ令嬢となって舐められきり、相手を油断させて膿をさっさと出し切ってしまった方が、後々の生活のためにも楽なのだ。
「でも、皇宮の人員が足りなくなったら困るかしら?」
少しも困っていなさそうな顔で首を傾げるイリンカに対し、ウラドは楽しそうにくっと喉を鳴らした。
「いや、全く問題ないな。お前の好きなようにしろ」
そう言うと彼は満足そうに足を組み直し、背もたれへ深く身を預けた。
「人を見かけだけで判断し、本質を見抜けないような無能など、俺の宮殿には要らぬ」
傲然と言い放つその佇まいは、まさしく一国の主たる覇王然としている。だが、鋭かった覇王の瞳が、次の瞬間にはふっと熱を帯びた眼差しに変わった。
「それに、強気なお前も愛おしい。そんなお前を傍で見守るのも悪くない」
真っ直ぐに見つめられ、イリンカの顔が一気に熱くなった。不意打ちの甘い言葉に脳の処理が追いつかず、慌てて視線を逸らす。
「だ、だからそういう言い方やめてってば」
恥ずかしさのあまり俯きながら、
「……慣れてない」
と小さく呟くのが精一杯だった。
そんなイリンカの様子が可愛くて仕方ないとばかりに、ウラドは何の前触れもなく、長い腕を伸ばして彼女を引き寄せた。
「きゃあっ」
突然ウラドの力強い腕の中で抱きしめられ、思わず素っ頓狂な声が出てしまう。
「なら、慣れるまで言い続けてやる。好きだよ、イリンカ」
さらに強く抱きしめられ、男の体温とともに甘い言葉が耳元で容赦なく囁かれる。
「絶対に離さないから」
完全にキャパオーバーだった。頭の中が真っ白になり、イリンカの思考回路は完全に停止する。
そして。
「いやぁぁぁぁぁぁっ!?」
限界を迎え真っ赤な顔で悲鳴を上げる婚約者を、ウラドは愛おしそうにクスクスと笑いながら見つめる。
それでも腕を離す気は毛頭ないらしく、イリンカを離すまいと包み込んだまま、決定的な追撃を放った。
「愛してる、俺のイリンカ」
大帝国への道すがら、馬車の中の二人は、相変わらず通常運転な甘い時間を紡いでいたのである。




