第三話:宰相閣下は苦労人
ダキア大帝国――その政務を統べる頂点とも言うべき宰相府の執務室で、宰相クリスティアンは机の上にうず高く積み上げられた書類の山を前に、深いため息をついた。
整然と並ぶ決裁書類の一つひとつには、帝国の未来を左右する重要案件がずらりと並んでいる。
その膨大な業務の中でも、彼が特に心血を注いできたのが、身分に関係なく平民からも広く人材を募るという、新たな人材登用制度であった。
厳格な審査と徹底した教育を経た者を皇宮内の重要な役職へと登用するこの試みは、当然ながら特権にしがみつく貴族たちから激しい反発を受けることとなる。
伝統を重んじる保守派の面々は口を揃えて反対を唱え、制度を根底から潰そうと幾度となく陰湿な妨害を仕掛けてきた。
それでも、こうしてようやく実務の運用開始まで漕ぎ着けることができたのは、ひとえに眠りから目覚めた皇帝ウラドが、圧倒的な武力と覇気で帝国を再び完全に掌握したからに他ならない。
絶対的な恐怖の象徴である彼が背後に控えているからこそ、表立って逆らえる者など誰一人としていなかったのだ。
だが、そんな多大な功績を挙げた肝心の皇帝本人は、国政の安定を見届けるや否や、今もなお遥か遠方のフィオル王国に滞在し続けていた。
理由は極めて単純であり、思いを寄せるイリンカを正式に妃として連れ帰るまでは絶対に動かないという、ただそれだけの執念によるものである。
結果として、クリスティアンをはじめとする側近たちは一足先に帰国させられ、皇帝不在の穴を埋めるべく、寝る間も惜しんで膨大な政務を処理する羽目になっていた。
(我が主ながら、完全に浮かれておいでだ……)
長い人生の中でようやく訪れた初恋なのだから無理もない、と頭では理解しつつも、そのしわ寄せを受ける側としてはたまったものではなかった。
遅咲きの恋とは、周囲の人間にとってこれほど厄介なものなのかと、身をもって痛感させられる。
おかげでこちらは、目を回さんばかりの大忙しであった。
心の中でそんなぼやきを漏らしながら、クリスティアンが再び疲れの溜まったこめかみを指先で押さえた、その時だった。
重厚な執務室の扉が、遠慮なしに勢いよく開け放たれる。
「よう、クリスティアン。今日、いよいよ陛下が帰ってくるんだってな」
入ってきたのは、帝国軍を統べる将軍ラゴスであった。彼の放つ豪快な声が室内に響き渡る。
手元の書類から顔を上げたクリスティアンは、机の上の紙端を丁寧に整えながら、憮然と言い放つ。
「ラゴス将軍、ノックぐらいしなさい……。先ほど、無事に国境を越えたとの連絡が入りました。そういうわけですから、こちらも急ぎでお迎えの準備を進めなければなりません」
ラゴスは頑強な腕を組み、窓辺へと歩を進めながら首を縦に振った。そして、どこか面白がるような、興味深げな光を瞳に宿して口を開く。
「例の件、やっぱり……姉ちゃんに伝えるんだろ?」
その言葉が向けられた瞬間、クリスティアンの端正な表情がわずかに強張る。
「はい、そのつもりです」
短く答えたあと、彼は小さく重い吐息を漏らす。
「イリンカ様に寛大に受け入れていただけると良いのですがね」
懸念を抱く宰相の様子を見て、ラゴスは「ははっ!」と喉を鳴らして豪快に笑い飛ばした。
「心配しすぎだって。姉ちゃんなら、そのくらいのことは笑って受け流すか、むしろ面白がるさ。それより、これから皇宮も一気に賑やかになりそうだな。俺としては今から楽しみで仕方がねぇよ」
まるで何の不安もないと言いたげだった。
窓の外の広大な敷地へ視線を向ける将軍の横顔には、新たな主を迎えることへの純粋な期待が浮かんでいる。
つられるように外を眺めたクリスティアンもまた、その言葉に静かに頷き、穏やかな声を返した。
「……そうですね。きっと、今まで以上に騒がしく、退屈とは無縁の日々になるのでしょう」
窓から差し込むうららかな午後の日差しが、張り詰めていた執務室の空気を柔らかく溶かしていく。
まだ見ぬ未来の皇后がこの大帝国に迎えられる日。
そして、その中心で皇帝すらも振り回しながら、いずれは多くの人々に愛されるであろう破天荒な女性の姿を思い描き、クリスティアンの口元には自然と温かな笑みが浮かぶのだった。




