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第二話:バサラブ侯爵家の晩餐

バサラブ侯爵家のダイニングホールには、いつもより少しだけ賑やかな空気が流れていた。

明日、イリンカはダキア大帝国へ旅立つ。

家族揃って食卓を囲む最後の夜ということもあり、料理はどれも豪華で、使用人たちもどこか落ち着かない様子だった。


そんな中、一番分かりやすく動揺していたのは父のニコラエ侯爵である。涙がこぼれそうな顔で呟く。


「まさかイリンカが、あの大帝国の皇后になるなんて……」


声を震わせる父の姿にイリンカは少し胸が温かくなった。

やはり娘が遠くへ嫁ぐのは寂しいのだろう、なんだかんだ言っても父親なのだな、としみじみ思う。


――そう思ったのも束の間だった。


「これからの事を思うと、私は胃の痛みが止まらないよ。お願いだから、あちらでは絶対に問題を起こさないでくれっ」


必死の形相で懇願される。


失礼な。

娘を何だと思っているのだろうか、イリンカは思わず頬を引きつらせた。


すると向かいに座る母、ダリア侯爵夫人がくすりと笑う。


「あなた、心配しすぎよ。イリンカならどこへ行っても大丈夫に決まっているじゃない」


穏やかな声には微塵の心配も含まれていない。


「そのたくましさがあれば、帝国だろうが辺境だろうが、どこでもやっていけるわ」


母はもう少し愛する娘を案じても良いと思う。

父は心配しすぎで、母は心配しなさすぎだ。この夫婦は足して二で割ればちょうど良いのではないだろうか。


そして、そんな両親以上に深刻そうな顔をしている人物がいた。

可愛い弟のルシアンである。

イリンカが帝国へ行くと決まってからというもの、彼はことあるごとに泣いていた。鼻をすすり、真っ赤な目でイリンカを見つめてくる。


「っ……ひくっ。姉さん……。もし帝国が嫌になったら、必ず帰ってきてね」


姉をひたむきに慕うその純粋な健気さに、今度こそイリンカの胸はジンと熱くなり、優しく答える。


「えぇ、もちろんそうするわ」


だが、ルシアンが流れる涙を拭いもせず、平然とした口調で付け足した言葉に、その感動は瞬時に消し飛ぶ。


「その時は、ちゃんと皇帝陛下を暗殺してくるんだよ」


「いや、物騒過ぎるわっ!」


シスコンが行き過ぎて覇王の暗殺を当たり前のように勧めてくる弟に思わず全力でツッコミを入れてしまう。


まったく、揃いも揃ってまともな人間がいない、無茶苦茶な家族だ。

イリンカはやれやれと首を振った。この中で唯一の常識人は自分だけだと勝手に胸を張りながら、一同をぐるりと見回す。


「そうね! もしあの男が浮気でもしたら、顔の形が変わるまで殴り倒して実家に帰らせてもらうわっ」


そして勢いよく立ち上がると、ダイニングホールの天井に向けて力強く拳を突き上げた。


「ウラド皇帝、首を洗って待っていなさーーーい!」


まるで帝国へ嫁ぐのではなく、討伐に向かう戦士のような勢いだった。


それを見た父は頭を抱えて絶望し、母は「まぁまぁ、困った子ねぇ」と楽しそうに微笑み、弟は「さすが僕の姉さんだ」と頷いていた。

何一つ噛み合っていないのに、これこそがバサラブ侯爵家のいつもの日常の風景。


その様子を少し離れた場所から見守っていた老執事は、誰にも気づかれぬよう静かにため息をついた。



出発の朝は、抜けるような青空だった。

侯爵家の城の正面玄関には、フィオル王国ののどかな風景にはおよそ不釣り合いな、ダキア帝国の紋章が刻まれた豪奢な馬車が停まっていた。

朝日に照らされた漆黒の車体は重厚な存在感を放ち、周囲の騎士たちもどこか緊張した面持ちで控えている。


馬車の扉が開き、そこから降り立ってきたのは、大帝国の若き覇王、ウラド・ダキアその人だった。

肩までのレッドブラウンの髪を朝日に輝かせ、金色の瞳を爛々と輝かせている。

彼は周囲の目を気にする様子もなく、イリンカを見つけるやいなや、その端正な顔に隠しきれない喜びを浮かべて急ぎ足で歩み寄る。


「イリンカっ」


彼女の名を呼ぶ彼の声が、静かな朝の空気に響く。


侯爵家の人々と使用人たちは、一斉に美しい動作で帝国皇帝への最敬礼を捧げた。

父のニコラエ侯爵が一歩前へ出ると、緊張で声を強張らせながらも、貴族としての完璧な挨拶を述べる。


「ウラド陛下、この度は我が娘イリンカを直々にお迎えいただき、誠に恐悦至極に存じます。何ぶん至らない点ばかりの娘ではございますが、どうか、よろしくお願い申し上げます」


するとウラドは穏やかに首を振った。


「いや、こちらが無茶を言って押し通した婚約だ。気にする必要はない。バサラブ侯爵、お前の大切な愛娘を我が妃として迎えることを、快く許してくれたことに感謝する」


その言葉に、侯爵夫妻はほっとしたように表情を和らげた。


ウラドの機嫌は終始すこぶる良かった。彼はイリンカに向かって、その長い腕を伸ばし、優しく手を差し出した。


「さぁ、イリンカ。我が帝国へ向かおう」


その手のひらに自分の手を重ねると、彼はイリンカの指を愛おしげに包み込み、エスコートしながら馬車の中へと誘った。


ふかふかの座席に腰を下ろし、開け放たれた窓から顔を出す。

見送りに出てくれた家族や、これまで共に過ごした懐かしい使用人たちに向けて、イリンカはちぎれんばかりに手を振った。


「みんな、元気でね! 帝国の婚約式でまた会えるのを、本当に楽しみにしてるからっ!」


笑顔を浮かべて別れの言葉を叫ぶ、見送る人々も次々と手を振り返してくれる。


馬車がゆっくりと動き出し、見慣れた城と家族の姿が遠ざかり、やがて完全に見えなくなったところで、イリンカはようやくふぅと息を吐き、背もたれへ身を預けた。


静まり返った車内、対面に座るウラドが、ふと心配そうに私を覗き込んできた。


「本当に良いのか? 使用人を誰一人連れて来なかっただろう。心細くないか?」


金色の瞳が真っ直ぐイリンカを見つめる。


「もちろん帝国では不自由などさせない。だが、慣れた者が近くにいた方が安心だろう?」


その気遣いに、イリンカは小さく微笑んだ。


「正直なところ、これから向かう帝国の皇宮で、何が起こるか分からないでしょう? 私を快く思わない人たちから、どんな嫌がらせを受けるかも分からない。だったら、大変な思いをするのは私一人だけで十分だわ」


植物魔術医として一時的に滞在しただけで暗殺されかけたのだ。

今度は皇帝の婚約者として迎えられる以上、嫉妬も敵意も比べものにならないだろう。

家族のように大切に思っている我が家の使用人たちを、そんな危険な魔窟に巻き込みたくはなかった。それがイリンカの本音だ。


しかし、イリンカの正直な言葉を聞いたウラドは、ひどく不満そうに端正な眉をひそめ、苛烈な覇王としての色を瞳に宿らせて低く告げた。


「お前に苦労をかけるつもりなど毛頭ない。何か不快なことがあれば、すぐに俺に言え。お前の敵になる者がいるならば、それが誰であろうと、すべて叩きのめしてやる」


物騒すぎる言葉に、イリンカは思わず苦笑してしまう。けれど、その過剰なまでの独占欲と保護欲が、彼女を守るためであることは痛いほど伝わってきた。


「それは、最後の手段としてお願いするわ」


ウラドは少しだけ不満そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。


イリンカはふっと悪戯っぽく微笑むと、身を乗り出してウラドを見つめた。


「それよりもウラド、あなたにお願いがあるの。向こうに着いたら――」


大帝国への道すがら、イリンカは彼に向かって、これから始まる皇宮生活を乗り切るための「ある提案」を切り出すのだった。

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