第二十五話:覇王の目覚め
ラドが消えた翌日。
静まり返った皇帝の寝室には、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
長く続いた眠りの終わりが、ようやく訪れようとしている。
寝台の傍にはイリンカ、宰相クリスティアン、将軍ラゴスの姿があった。
誰もが固唾を呑み、その瞬間を待っている。
やがて。
皇帝ウラドの瞼がゆっくりと持ち上がった。
現れたのは、陽光を溶かしたような黄金の瞳。
その色を見た瞬間、イリンカの胸が小さく震える。
――ああ。
――ラドの瞳だ。
今さらながら実感する。
あの少年は、本当に皇帝だったのだと。
ウラドの視線がゆっくりと室内を巡り、そしてイリンカを捉えた。
その瞬間だった。
鋭く威厳に満ちていた黄金の瞳が、まるで蜂蜜のように甘く柔らかく蕩ける。
「……」
イリンカは思わず息を呑んだ。胸が妙に騒ぐ。
だが、その理由に気付く前に別の感想が浮かんでしまう。
イケメンの笑顔って破壊力すごいな、ラドの時より危険かもしれない。
完全に他人事である。
しかし、その光景を見たクリスティアンとラゴスは違った。
二人は揃って固まっている。
陛下が笑った。
それだけでも十分な衝撃だった。
ましてや、女性へ向けてあのような表情を見せるなど、これまで一度たりともなかったのである。
やがてウラドは静かに口を開いた。
「起こせ」
「はっ」
ラゴスが慌てて寝台へ近付き、背中を支える。
身体を起こしたウラドは、真っすぐイリンカを見た。
「イリンカ」
初めて呼ばれた名前に、イリンカは目を見開く。
だが、すぐに居住まいを正し、恭しく礼を取った。
「はい、陛下」
「此度の件、誠に大義であった」
低く響く声が寝室に広がる。
「余の体調が完全に回復するまで、植物魔術医として力を尽くせ」
「かしこまりました」
イリンカは跪いたまま答える。
そのため気付かなかった。
その言葉を告げた皇帝の顔に浮かんでいた喜びにも。
黄金の瞳の奥に宿る、隠し切れない熱にも。
*
その後、皇帝の回復は驚くほど順調に進んだ。
イリンカによる治療と、ウラド自身の膨大な魔力。
その二つが合わさった結果だった。
もはや帝国の魔術医たちだけでも問題なく対応できる。
そう判断したイリンカは、王国へ帰還することになった。
見送りの日。
皇都の外れには、帝国が用意した質素な馬車が停められていた。
目立たぬよう配慮されたものだが、その前に並ぶ面々は全く目立たないとは言えない。
宰相クリスティアン。
将軍ラゴス。
そして――皇帝ウラド本人。
本来なら皇城の外へ姿を現すことすら珍しい人物である。
城壁の警備兵たちは何度も目を擦りながらその光景を見ていた。
「世話になった。道中、気を付けて帰れ」
柔らかな笑みを浮かべながらウラドが言う。
目覚めてからというもの、彼はイリンカの前では終始機嫌が良かった。
そう、良すぎるくらいに。
「こちらこそ、たくさんの謝礼を頂き感謝いたしますっ!」
対するイリンカは満面の笑みで返す。
侯爵家へ追加の支度金まで送ると言われたのだ。
太っ腹にも程がある。
さすが大帝国の皇帝は違う。
そう本気で感動していた。
そんな二人を見ながら、クリスティアンとラゴスは何とも言えない顔をしていた。
「……なぁ、クリス」
ラゴスが小声で囁く。
「何でしょう」
「俺、十年以上陛下の傍にいるけどよ」
「ええ」
「陛下があんな顔で笑うの初めて見た」
クリスティアンは静かに目を閉じた。
「奇遇ですね。私もです」
「だよなぁ……」
ラゴスは頭を掻く。
「しかも陛下って、一度決めたら絶対やり遂げるだろ」
「十年で大陸制覇を成し遂げた方ですからね」
「姉ちゃん、あの支度金の意味、本当に分かってんのか……?あれ、ほとんど結納――」
「黙ってください」
クリスティアンが全力で口を塞いだ。
「死にたいんですか貴方は」
「んぐっ」
その様子を見ていたイリンカは不思議そうに首を傾げる。
「?」
だがウラドは平然と言った。
「あいつらは気にしなくていい」
「そうですか?」
「そうだ」
よくわからないが、イリンカは納得した。
あっさり馬車へ乗り込む。
「では、ウラド陛下。皆様もどうかお元気で!」
窓から身を乗り出し、大きく手を振る。
「遠く王国より、皆様のご活躍を願っております!」
元気いっぱいの別れの挨拶だった。
ウラドは何も言わない。
ただ穏やかな笑みを浮かべながら、いつまでも手を振り返している。
やがて馬車は小さくなり、地平の向こうへ消えていった。
その姿が完全に見えなくなった頃。
ウラドは静かに振り返る。
「さあ、準備を始めるぞ」
その声は軽い。
どこか楽しげですらあった。
生気のなかった以前の皇帝を知る者なら、信じられないほどに。
クリスティアンとラゴスは顔を見合わせ、小さく息を吐く。
そして黙って頷いた。
最後にウラドは、イリンカが去った方角へもう一度視線を向ける。
黄金の瞳が強く輝く。
「待ってろよ、イリンカ」
その瞳には隠しきれない愛と執着が宿っていた。




