第二十四話:優しい夜の終わりに
ラドは、まるで長い間まとわりついていた重荷を下ろしたかのような顔をしていた。
その表情は穏やかで、どこか晴れやかだ。記憶を取り戻したことで、ようやく自分自身と向き合えたのだろう。
そんな彼を見つめながら、イリンカは静かに口を開いた。
「もうすぐ、皇帝陛下は目覚めると思うわ……」
少しだけ言葉を区切り、それから続ける。
「ラドとは、お別れね」
そう告げた声は平静を装っていたが、胸の奥に小さな寂しさがあった。
ラドもまた、同じことを感じていたのだろう。
「そうだな……」
短い返事だった。けれど、その声には感傷が混じっている。
どこか寂しそうな横顔に、イリンカは思わず微笑んだ。
そして、心に秘めていた思いを口にすることに決めた。
「ラドに聞きたいことがあるの」
「なんだ?何でも答えてやるぞ」
イリンカは背筋を伸ばし、改まった様子でラドを見つめる。その様子にラドも思わず背筋を伸ばす。
記憶を取り戻した今だからこそ聞ける、大事な話なのだろうと思ったのだ。
だが――。
次の瞬間。
イリンカは実に真面目な顔で言い放った。
「謝礼は沢山貰えるのかしらっ!?」
「…………」
ラドは思わず真顔になった。
この女、信じられねぇ……。今の流れでそれを聞くのか。
胸を打つ別れ話でも始まるのかと思えば、まさかの金の話である。
しかし当の本人は至って真剣だった。
「だって、大帝国ダキアの皇帝を救ったのよ!?本来なら英雄として爵位を賜ってもおかしくないわよっ!」
勢いよく立ち上がり、拳を握り締める。
「私の未来――隠居生活のために、支度金が沢山必要なのよ!」
その瞳は野望に満ちていた。
もうすぐ原作物語のクライマックスとなる舞踏会が始まる。そこを無事に乗り切れば、自分は物語から退場できるはずだ。
平穏な隠居生活。それこそがイリンカ最大の夢である。
「支度金、か……」
ラドは腕を組みながら考え込む。するとイリンカはさらに力説し始めた。
「私は何としても物語から逃げ切って、新しい人生――隠居生活を楽しむのっ!」
あまりにも切実な主張だった。ラドはしばらく黙ったあと、小さく頷く。
「わかった」
「え?」
「目覚めた暁には、必ず用意してやる。支度金」
「本当!?」
ぱっと顔を輝かせるイリンカ。
「絶対よっ!皇帝が嘘つかないでね!嘘ついたら針千本飲ますからねっ!」
「いや、普通に死ぬだろ。それ」
呆れたように返しながらも、ラドは思わず吹き出した。自然と笑みが零れる。
こうして他愛もないやり取りをする時間も、もう終わるのだ。
だからだろうか。ふと、胸の奥から願いが込み上げた。
「最後だから……お前の膝枕で眠りたい」
珍しく素直な言葉だった。
イリンカは少しだけ目を瞬かせ、それから柔らかく笑う。
「しょうがないわねぇ。まぁ最後だもんね」
ぽんぽん、と自分の膝を叩いた。
「こっちにいらっしゃい」
ラドは静かに近づき、その膝へ頭を預ける。
すると、すぐに優しい手が髪を撫で始めた。ゆっくりと。慈しむように。
幼い頃から欲しかったものが、そこにはあった。
「やっぱり、お前の傍は心地良いな……」
自然とそんな言葉が漏れる。イリンカは小さく笑った。
「ふふ……今夜はゆっくり眠りなさい」
指先は変わらず優しい。
「目覚めたら大帝国の皇帝になっちゃうんだから。きっと忙しいわよ!」
わざと明るく、おどけるように言う。
けれどイリンカには分かっていた。目覚めた先で待っているのは、重責に満ちた現実だ。
皇帝としての義務。帝国を背負う責任。きっと過酷な日々が再び始まる。
だからこそ――。
今夜くらいは何も考えず、安心して眠ってほしい。今夜くらいは、ただの少年でいてほしい。
そんな願いを込めながら、イリンカは優しく彼の頭を撫で続けた。
やがて静寂が訪れる。
暖かな寝室。穏やかな寝息。月明かりだけが静かに二人を照らしていた。
そんな時間の中で、イリンカの瞼も少しずつ重くなっていく。
そして――。
気付いた時には、ラドは消えていた。




