第二十二話:生まれる前から
元老院の老人たちと、それに雇われていた破落戸たちは、ラゴス将軍の部下によって次々と拘束されていった。
帝国法に則り、正式な裁きを受けることになるらしい。
こうしてイリンカは無事救出された。
着替えと身支度を済ませ、ようやく用意された客間でひと息つくことができた頃。
その様子を見守っていたクリスティアンが、静かに頭を下げた。
「……此度は申し訳ございませんでした」
いつもの冷静な宰相らしからぬ苦い表情だった。
「警備に不備がありました。調べたところ、元老院の手の者が紛れ込んでいたようです」
拳を握り締め、悔しさを押し殺すように俯く。皇帝を支える宰相として、自らを責めているのだろう。
そんな重い空気を吹き飛ばすように、ラゴスが豪快に笑った。
「大変だったな、と言いてぇところだが――姉ちゃん、全然無事だったな!」
実に楽しそうである。イリンカは思わず苦笑した。
確かに誘拐された被害者とは思えない結果になってしまった気がする。
「ですが、これで陛下を脅かしていた老害どもは排除できます」
クリスティアンは気持ちを切り替えるようにそう言った。
「後は、陛下がお目覚めになってくだされば良いのですが……」
その言葉には、長い間胸に抱えてきた願いが滲んでいた。
けれど彼はすぐに表情を整え、優しくイリンカへ向き直る。
「今日はお疲れでしょう。このまま客間でお休みいただいても構いませんよ」
労わるような声音だった。だがイリンカは小さく首を横に振る。
「いえ」
迷いはなかった。
「陛下の寝室で休みたいです」
ずっと考えていたのだ。今度こそ、ラドと向き合わなければならないと。
*
皇帝の寝室は、今夜も静寂に包まれていた。
窓から差し込む月明かりが白く床を照らし、穏やかな夜の気配だけが漂っている。
寝台の上では、ウラド皇帝が変わらず眠り続けていた。
その傍らで、ラドが振り返る。
「ねぇ、ラド」
「なんだ?」
「あなたに見て欲しい物があるの」
そう言ってイリンカが取り出したのは、亡き皇后の居室から持ち帰った一冊の本だった。
古びてはいるが、大切に扱われてきたことが分かる。植物図鑑だった。
ラドは不思議そうに首を傾げる。
「この図鑑がどうかしたのか?」
イリンカは答えず、あるページを静かに開いた。そこには一輪の花の挿絵が描かれていた。
『ジュリーラド』
それは、イリンカがラドと名付けるきっかけになった花だった。
皇帝ウラド・ダキア。その名前を知った時からイリンカは、もしかしたら……と思っていたのだ。
自分がこの花からラドと名付けたように、皇后もウラドと名付けたのではないかと。
そして、ジュリーラドが描かれたページだけが違った。余白という余白に、たくさんの走り書きが残されていたのである。
丸みのある優しい筆跡。おそらく皇后自身のものだろう。
『きっと、私たちの子どもは美形よ!あなたに似て、こんな色の瞳になるはず』
『魔術医が皇子だと言っていたわ』
『名前はウラドよ。早く会いたいな』
どの言葉にも喜びが溢れていた。生まれてくる子どもへの期待。愛情。幸せな未来への願い。その全てが込められている。
ラドは目を見開いたまま動かない。まるで呼吸することさえ忘れてしまったかのようだった。
イリンカはそんな彼を見つめながら、静かに言葉を紡ぐ。
「ラド」
優しく呼びかける。
「皇后様は、あなたが生まれる前から愛していたわ」
ラドの肩が僅かに震えた。
「きっと先帝もそうだったと思う」
イリンカは少しだけ眉を下げる。
「ただ……先帝は悲しみが大きすぎたのかもしれない」
最愛の人を失った痛み。それは簡単に乗り越えられるものではない。
「だから、すぐには向き合う余裕がなかったのかもしれないわ」
静かな声で続ける。
「でも、もし色々な思惑やしがらみが無かったなら――きっと、いつか良い親子になれたと思うの」
それは慰めではなく、イリンカ自身が辿り着いた答えだった。
そして最後に。心の底から伝えたかった言葉を贈る。
「あなたは……望まれ、愛された子どもよ」
ラドの瞳が揺れる。
「少なくとも皇后様――あなたのお母様は、そうだったわ」
苦しまなくていい。自分を責めなくていい。そう伝えたかった。
この想いが届けば。この真実が、彼を縛る鎖を少しでも解いてくれれば。
ラドは何も言わなかった。ただ黙って、イリンカの言葉を聞いている。
長い沈黙が落ちる。
やがて――。
ぽたり、と。
一筋の涙が頬を伝った。
「……っ」
ラドの胸の奥から何かが込み上げてくる。
苦しい。喉が詰まる。息が上手くできない。
どうしてこんなに胸が痛むのだろう。
ラドは片手で顔を覆い、そのまま俯いた。肩が微かに震えている。
イリンカは、言葉をかけずにただ静かに待った。
彼が自分の気持ちと向き合う時間を奪わないように。
しばらくして。
ラドは小さく息を吐いた。
「……思い出したよ、全部」
ラドはそうポツリと呟くと、自分について話し出した。




