第十六話:月下の浄化
「……うぐっ、……くぅ……っ」
ラドは苦しげに顔を歪め、小さな身体を震わせた。呼吸は浅く乱れ、まるで見えない何かに追い詰められているようだった。
「……嫌だ……っ。ごめんなさい、母上……。待って、父上……っ」
怯えきった声だった。普段の不遜な態度など微塵もなく、ただ幼い子供が悪夢に泣いているようにしか見えない。
聞いているだけで胸が締め付けられ、イリンカは涙が零れそうになる。
――この子は、一体どんな記憶を抱えているのだろう。
イリンカはそっとラドの傍へ膝をつき、その小さな身体を優しく抱き寄せた。
「大丈夫、あなたは悪くない。……悪くないから」
そう言って、怯えている少年を強く、強く抱きしめた。
小さな身体は初めこそ強張っていたが、やがて少しずつ力を抜いていく。
しばらくそうしていると、ラドはおくるみに包まれた幼子のように安心した顔を浮かべ、穏やかな寝息を立て始めた。
「……良かった」
イリンカは小さく息を吐き、胸を撫で下ろした。最近、ラドは眠るたびに悪夢を見る。だが、こうしてしっかり抱きしめてやると、不思議と落ち着くのだ。
「次は……」
そう呟くと、イリンカは静かに立ち上がり、今度は眠り続ける皇帝ウラドの寝台へ向かう。傍に置いてあった空の植木鉢を持ち上げ、そっと魔力を流し込んだ。
いつもの植物魔術とは違う。淡い緑色の魔力の中に、金色の粒子が細やかに混ざり込んでいる。光は静かに揺らめき、やがて植木鉢の土が小さく盛り上がった。
芽吹いたのは、白銀がかった葉を持つ植物だった。
「……ここまでやるとは、自分でも思ってなかったんだけどね」
イリンカは苦笑しながら、小さく呟く。
ホワイトセージ。
それは前世で浄化や魔除けに用いられていた植物だ。そして、この世界には存在しない。
植物創造――。
それこそが、イリンカだけの本当の能力だった。この世界の植物だけではない。前世で知っていた草花すら、無から生み出せてしまう。
流石に危険すぎる能力だと理解しているからこそ、誰にも明かしてはいない絶対の秘密だった。
ウラド皇帝は、強力な呪いをその身に取り込んだと聞いている。ならば、この植物に魔力を宿らせれば、何か作用するのではないか。
彼女は育ったホワイトセージの葉を摘み取り、皇帝の周囲へ静かに敷き詰めていく。
すると、白かった葉の表面が、じわじわと黒く変色し始めた。呪いの瘴気を吸っているのだ。皇帝の顔色が、ほんの僅かだが和らいで見える。
イリンカは考えていた。強すぎる呪いに対抗するため、ウラド自身の魔力が防衛反応を起こし、その結果、精神だけが身体から弾き飛ばされたのではないかと。
彼は十歳で即位したという。そして、ラドもまたその頃の姿のまま時を止められたように見えた。
悪夢に魘される幼い姿を見るたび、イリンカには思えてしまうのだ。
――記憶を失っている原因も、きっとそこにあるのではないかと。
やるべきことを終えたイリンカは、ようやく簡易ベッドへ腰を下ろした。
隣ではラドが静かな寝息を立てている。先ほどまで苦しんでいたとは思えないほど、今は安らかな表情だった。
「どうか……幸せな夢を見られますように」
願いを込めるように囁き、イリンカはそっと彼のつむじへ口づけを落とす。幼い頃、弟のルシアンによくしていた“おやすみ”の挨拶だった。
その瞬間――。
眠っているはずの皇帝ウラドの口元が、ほんの僅かに綻ぶ。まるで、微笑んだかのように。
けれど、その小さな奇跡にイリンカは気付かない。彼女はそのまま、ゆっくりと深い眠りへ落ちていった。
静かな寝室には、月光だけが降り注いでいる。
まるで二人を祝福するように、淡く優しく。




