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第十三話:癒しの魔術師

イリンカが皇帝専属の魔術医となってから、数日後のことだった。

いつものように皇帝の寝室を訪れたクリスティアンとラゴスは、部屋へ足を踏み入れた瞬間、揃って言葉を失った。


「……ここは、本当に陛下の寝室ですか?」


普段は冷静沈着な宰相ですら、珍しく目を見張っている。


「俺の知ってる部屋じゃねぇな。なんだこれ、すげぇ……」


ラゴスも感心したように口元を吊り上げ、ぐるりと室内を見回した。

それも無理はない。以前は重厚で静まり返っていた皇帝の寝室は、今やまるで別世界へ変貌していたのだから。


部屋の至る所には、柔らかな緑の草花が生い茂っている。窓辺には淡い紫のラベンダーが揺れ、卓上には白いカモミール、小さな鉢には瑞々しいミントが並んでいた。甘さと清涼感が混ざり合う香りが、空気そのものを優しく包み込んでいる。

しかも驚くべきことに、閉ざされた室内であるにもかかわらず、どこからともなく爽やかな風まで流れていた。その風が、眠り続ける皇帝の髪を静かに揺らしている。


幻想的ですらある光景だった。


「湿度と香りの調整もしてるんです。閉鎖された空間って、どうしても空気が淀むでしょう?」


イリンカは悪びれもなく説明する。


「あと、寝ている人って意外と環境に影響受けるんですよ。音とか香りとか、空気の流れとか」


当然のように語るその内容に、クリスティアンは内心で息を呑んだ。

――陛下が興味を持たれた少女なだけはある。植物魔術師とは聞いていたが、ここまで精密な制御を行うとは思っていなかった。

ただ植物を育てているのではない。空間そのものを、癒しへ作り変えているのだ。


(もし彼女の力が外へ漏れれば、各国が放ってはおかないでしょうね……)


そこまで考えた時だった。


――ビュンッ。


鋭く風を切る音が響く。


「!?」


次の瞬間、机の上に置かれていたペンが一直線に飛び、クリスティアンの眉間へ見事に命中した。


「痛っ……!」


思わず額を押さえ、その場にしゃがみ込むクリスティアン。


「ラド!? どうしたの、危ないじゃない!」


イリンカが慌てて声を上げる。もちろん、クリスティアン達にはラドの姿は見えていない。突然ペンが飛んできたようにしか見えなかった。


「大丈夫ですか、クリスティアン様!?」


駆け寄るイリンカに対し、クリスティアンは痛みに顔をしかめながらも、勢いよく頭を下げた。


「も、申し訳ございません……っ、陛下!」


その言葉に、イリンカはきょとんと目を瞬かせる。視線の先では、仏頂面のラドが腕を組み、露骨に不機嫌そうな顔でクリスティアンを睨んでいた。

どうやら、イリンカを利用できると考えたのを察し、怒ったらしい。

ラゴスは事情を悟ったのか、呆れたように肩を竦める。


「自業自得だ。気にしなくていいぞ、姉ちゃん」


「?」


意味が分からず首を傾げるイリンカ。だが本人はすぐ別のことへ意識を切り替えた。


「そうだ、見てください! 皇帝陛下、前より顔色良くなってませんか?」


嬉しそうに寝台を振り返る。確かに、以前より血色が良い。青白かった肌にはわずかに生気が戻り、髪にも艶が見え始めていた。


この数日、イリンカは自分の持てる力を惜しみなく使っていた。植物魔術で空間を整え、香りを調整し、身体が硬くならないよう毎日丁寧にマッサージを施す。

時には歌を歌い、時には前世の妙な知識を語りながら、ラドと他愛もない話を重ねてきた。

その穏やかな時間に呼応するように、眠り続ける皇帝の身体にも、少しずつ変化が現れ始めていたのだ。


「やっぱり、ラドと本体は繋がってるんでしょうね。ラドが落ち着いてくると、皇帝陛下の状態も良くなるみたいなんです」


イリンカは穏やかに笑う。その言葉に、クリスティアンとラゴスは目を見張り顔を見合わせた。


二人は、この数ヶ月。皇帝を目覚めさせるため、ありとあらゆる手を尽くしてきた。高位神官も、名高い魔術師も呼び寄せた。だが結果は、何一つ変わらなかった。

それなのに、この少女は、たった数日で変化を起こしてしまったのだ。


「このままいけば、きっと――」


イリンカが希望を込めて言いかけた、その時だった。


「あら。これは、一体どういうことかしら?」


柔らかく、美しい声が室内へ響く。

振り返ったイリンカは、思わず息を呑んだ。



そこに立っていたのは、息をのむほど美しい女性だった。

だが、その優雅な微笑みとは裏腹に――彼女の瞳は、明確な敵意をもってイリンカを見据えていた。

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