91 追跡の終わり
運河の異変は静かに進行した。
遊歩道を歩く人々がほとんど気づきもしないまま、水面は最初より1メートル以上上昇し、そこで止まる。
エドには何が起きているか、さっぱりわからない。が、他の3名は事態を完全に把握しているようだった。
〝何だよ。わけがわかんねーの、オレだけってこと?…じゃねーな。ポチもか。〟
真紅の風船状態のポチは、明らかに戸惑った様子だ。きょとんとした顔で運河と、あとなぜかカイを見比べている。
唐突に、水面が弾けた。
まるで何か巨大なものが、水を割り浮上したかのように。
潜水艦が海面を割るのとそっくりの光景だった。
が、エドは首を傾げた。
運河の中央で、確かに水は左右に割れたのに、それ以上何も起こらないのである。
何かが出てくるわけでもなく、当然ながら潜水艦が浮上してくるはずもなく。
今や、遊歩道にいた通行人のほとんどがざわめき見守る中、割れた水面は音を立てて合わさり、そのまま何ごともなかったかのように、水位までが元に戻った。
実際は水面の異変以外、何が起きたわけでもないのだが、釈然としない思いを抱いたのは、エドだけではなさそうだ。
どこかの船の波か、いや不発弾でも爆発したのか、などという声がそこらじゅうで聞こえる。
〝不発弾?今のは爆発なんかじゃなさそうだが?〟
間違いなく何か、巨大だが見えない何かが運河を割って浮上した。
そうとしか言いようのない動きである。
「ほう。そやつか。」
カミラの声で振り向くと。
「ン?少尉、なんだそれ?」
カイの手のひらに乗っているのは、1匹の亀であった。
「こいつか飲み込んだみたいですね、〝ティティスの瞳〟を。」
「は?えぇっ!?」
二度見しても亀は亀。そこいらによくいる普通の亀にしか見えない。
カイの、細いがわりと大きな手に、丁度乗るくらいの大きさである。
「な、なんでそんなモンを飲み込んだんだ?ハラ壊さね〜の?」
「美味そうだったんでしょうね。王妃は、ここで魔具を外して、運河に投げ込みでもしたか、あるいは落としたか。この亀は、一見普通の亀ですが、これは擬態です。魔具の力を借りているんでしょう。」
「魔獣ってことか?」
「その通り。」
カミラが頷いた。
「魔界ではありふれた亀での。名を〝宝石亀〟という。宝石、ことに魔力を帯びたものが大好物で、それを喰らい、魔力を消化することができる。それ故にポチが追跡できなくなったのじゃ。〝ティティスの瞳〟は、こやつにとってまたとない珍味であっただろうの。」
「宝石亀?そりゃまた奇天烈な…。」
やはりどう見ても普通の亀だ。
「!?」
「あっ!」
少尉が声を上げたときには、亀はとっくに彼の手を離れていた。
「ポチ?」
エドは、ポチの喉が倍ほどに膨れ、その膨らみが下へ下へと降りていくのを不思議な気持ちで見た。
宝石を食う亀を食っただと?何でもありかよと突っ込みたいところだ。
そういえば肉食性とは聞いていたが、しかし!そんな妙な亀モドキを食って、ポチは大丈夫なのか?
「まあ、大事あるまい。〝さらまんでる〟は、悪食で知られておる。」
「しかし、博士?あの亀、ポチの一万倍以上の体積がありましたが…?」
カイは困惑した様子である。
「そこは問題ないのじゃ。ポチは体内でプラズマを生成できるゆえ、消化には困らぬ。それ故の悪食で、しかも大食漢じゃ。」
とまあ、カミラは涼しい顔だが、カイはより難しい顔で首を傾げ、エドはどうにも腑に落ちない。
今更、物理法則がどうのと言うつもりはないが、しかし。
10倍以上の体積を持つ獲物を捕食する種は、深海魚など他にもあるだろうが、一万倍となると異次元である。捕食後すぐに焼き尽くしたとでも言うのだろうか?
「ま、考えてもムダなんじゃない?見て!ポチったら、すっごく満足そう。」
「あ〜。そうだな確かに。」
だが、魔力の追跡はここまでだ。
わかったことと言えば、王妃はここで変身の魔具を手放した。
それが自ら望んだことだったのか、それともそうしなければならない理由あってのことだったのかはわからない。
王妃ティーを演じていた俳優は、ここで舞台から降りたのだ。
そして、闇に消えた。
見上げれば、遊歩道には街灯が多くない。王妃が消えた夜、この場所は闇に沈んでいただろう。
この惑星には、リマノのような月はない。星あかりはあまりにも頼りない光しかもたらしてはくれないのだ。
扮装を解いた俳優は、夜の懐に紛れ姿を消した。彼または彼女はどこに消えたのだろう?その時、何を考えていたのだろうか。なぜ、自ら舞台を降りたのか。
〝本人に会ったら、ぜひ聞いてみてえもんだよな〟
「エドよ?考え事か?」
「ああ、すんません。ちょっとボーッとしちまった。さて、エル=ポポのファイトまでまだかなり時間があるんで、できたらもう1人の証人から事情を聞きてぇんですがね?」
「もう1人とな?はて、誰じゃ?」
「王妃付き女官です。宮殿警護官ルド・エミネフスカの妹の。」
「ああ!そうじゃな。」
「少尉、兄のルドに聞いてみてくれないか?」
「いいですけと、何でボクからなんですか?」
「あの堅物、オレみてえな見るからに胡散臭いヤロウとはあんまり相性が良くねえんだわ。ま、経験則だが、オレよりゃあんたの方が受けがいいのは間違いねぇ。」
それに、エドは連邦捜査官に過ぎないが、カイには盟主側近という肩書きがある。
「そういうものですか。」
と、カイは素直に頷いてルドに連絡を取った。
コールが1回、2回、3回…。
「ん…?出ませんね。彼は確か、あれから半休だと言ってたはずですが。」
「そうなのか。」
「ええ。」
10回目のコールも過ぎ、カイが諦めようとした時、突然応答があった。
『ハイ。お待たせしました…。』
カイとエドの目が合った。
どちらからともなく小さく頷く。
〝奴さん、えらく動揺してんな〟
というエドの印象にカイも同感らしい。
「お休みのところ恐縮ですか、あなたの妹さんにも直接お話をお聞きできたらと。」
と、ルドの様子には気付かないフリでカイ。
『妹、ですか。今、ラタリスカヤを離れてまして…。』
「どちらに?」
『あの…。』
ルドは口篭った。
近くに誰かいるようだ。ならば口に出来ないことは多いだろう。
「まあ、いつでもかまいませんので。形式的な質問をさせていただきたいだけですから。妹さんがお帰りになったら、お知らせください。」
『あ、はい。承知しました。』
「それでは失礼します。」
と、カイは通話を切った。
正確には、切ったフリをした。
今の通話でルドの個人用端末は完全にカイが支配したのだ。
だから、盗聴は容易だった。
ルドの、震えるような嘆息。それは泣き声に近い。
絞り出す声。
『何故なのですか…!何故…』
誰かに向けられた言葉は悲痛だった。
返事はない。
ただ、固い床を踏む誰かの足音が遠ざかり、やがてドアの開閉音が聞こえた。
足音はなお遠ざかる。
『なぜ…。』
ルドの言葉は呟きになった。
それも途絶え、あとは何も聞こえない。
呆然としてその場に佇んででもいるのだろう。
「…千絵ちゃん?」
エドの促しに、彼女は頷いた。
「混乱。絶望。そしてまた混乱。あと、これは嫌悪?それから裏切りに対する悲しみ、かしら?端末を通してじゃ良くわからなかったけど、大体そんな感じね。」
「何だか修羅場っぽいな。」
「んー、近いかも?」
彼女は他人の感情を読む。
その力の前には、いかなる遮蔽も効果がないのだ。
つまり今、ルド・エミネフスカはのっぴきならぬシチュエーションにいる。
彼に何があったのかはわからない。
立ち去った相手が誰だったのかも。
だがしかしルドが修羅場に近い場面に直面していたのは確かである。
それなのに、だ。
「何故だ?何故あの男は少尉のコールに応えた?本来ならそれどころじゃねえはずの場面だよな?」
エドの言葉に、他の3人は虚を突かれ言葉を失った。
お付き合い頂きありがとうございます。
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