第一六六話 復帰前日
「……んー、さすがライオトリシア産の赤ワインだ、香りがいいね」
「仕事中なのに……全く」
上機嫌で手に持ったグラスからワインを口に含む私を見て、書類仕事を進めていたパトリシアが眉を顰めながらため息混じりにそう呟く。
衛兵隊駐屯地の一角にある執務室で私とパトリシアは事務仕事を進めていたのだが、ある程度進んだところで『絶対に間違いがあるはずだから』という理由で書類を彼女に取り上げられた以降、暇を持て余した私は冒険者から差し入れてもらったワインを楽しんでいた。
アテになるものが保存食として用意されていたビスケットだけだが、芳醇で香りの良いワインは長時間の仕事で少し疲れた体に染み渡る気がする。
「だってトリシアが書類取り上げちゃったじゃないか」
「だって間違いだらけですもの、こっちでチェックしないと」
「なら私は先に一杯やっても大丈夫だね」
帝国のワイン産業は歴史も長く非常に多種多様な種類を生産しており、敗戦国への輸出なども合わせるとかなりの量になるそうだ。
平民用の食堂などで出されるワインは水で希釈したもので、これを嫌ってエールしか飲まないって人も多く……まあそんな場所でワインなんか飲んでると『気取った奴』というレッテルを貼られたりもする。
軍人もその辺りは似たようなもんで、みんながエールを飲んでいる時にワインを手にしてようものなら、大変なことになるわけだ。
私はたまたまどっちもいける口だったため、その場の状況に応じてある程度立ち回れたので面倒なことになったことはないのだけど、同僚の貴族家出身者が色々嫌がらせを受けたりするのが見たことがある。
ちなみに貴族は薄めるなんてことはしないためワイン本来の味を楽しむことが一般的だが、地方によってはひどく甘ったるい種類なんかもあって、好みが分かれてしまう。
ライオトリシアのワインは樽に保存して寝かせて熟成させるという工程を挟むため、前世のワインに近い味をしていると感じる。
「アーシャさん、ワイン好きですよね」
「戦闘後の一杯はエールが多くてさ、のんびり飲む時はワインがいいのさ」
実はこれは単なる方便でしかなく、単純に自分には前世という過去が存在していることを自覚するためと言っても良い。
前世ではそこまで酒好きというわけでもなかったと思うが、同僚と馬鹿騒ぎしながら飲む酒は楽しかった記憶があるし、しんみりとした場ではそれに合わせた飲料を飲んでいたはずだ。
神様というのが本当にいるのであれば、どうして私は前世という記憶を朧げながらに持っているのか不思議でならない。
ずっと遠く、そして遥かな過去のように思えるその記憶が時折脳裏をかすめ、そしてそれを思い出す時にはひどく頭が痛む。
もう忘れたいのに、忘れられない記憶の残穢のようなそれが時折私を不安にさせることがあり……アルコールとタバコはそれを少しだけ忘れさせてくれる気がする。
「そういえば……彼は帝都に戻った頃ですね」
「バーナビーか……囚人の護送は過酷だからな、大変だろうが」
「そうなんですか?」
「まあ大丈夫……死なないようにほどほどの扱いになるはずだ」
帝国だけじゃないけど、囚人となった人間の扱いはかなりひどいと聞いているので、それを悲しんで自殺するなんて貴族も昔は少なくなかったらしい。
食事が移動中に一回でも出ればめちゃくちゃマシな方で、大抵は輸送先まで水くらいしか与えられない過酷な護送になる。
特に何らかの理由で対立しているような状態だと、御者に金を握らせて合法的に移動中は痛めつけるように命令してくる連中なんかもいるとかで……人が人として扱われるのは真っ当な場合だけだというのをまざまざと感じてならない。
「帝都に無事着いていると良いのですけど」
「おばちゃんの面子もあるからね、御者には言い含めてあるだろうよ」
「……そうですね」
パトリシアが少し書類作業の手を休めて寂しそうな顔でそう呟くが、まだ婚約破棄をしたことに強い実感が湧いていないのだろう。
私はグラスに残ったワインをぐい、と飲み干し懐から帝国印を取り出すと、火をつけてから紫煙を燻らす。
私が初めて婚約解消になったのは確かまだ騎士学園にいた頃で、相手は帝都に住んでいた顔も全く知らないひとまわりくらい上の軍人だった。
手紙のやり取りはしていたものの、正直婚約って言ってもな……と困惑しながらやり取りしていた記憶があってどうにも気が進まなかった思い出がある。
その人が戦死して婚約が強制的に解消された時は正直ホッとしたものだが、それは私が前世で男性だったという記憶があるからこそ、強い忌避感を感じていたかだと思う。
それと違ってパトリシアは女性であり、バーナビーと婚約をした当初は彼のために色々な贈り物をしたり、好みに合わせた服装などを心がけたりしたらしい。
私とはまるで婚約解消、破棄という言葉に対する気持ちが違うのかもしれないな。
「ようやく終わった……アーシャさん四箇所間違えてましたよ」
「……ごめんて」
「そういえばヴィギルスはいつ戻ってくるんですか?」
「明後日には取りに行けるって」
修理というか新規建造に近いくらいの大作業だったらしいが、私の乗る人形騎士ヴィギルスは修理が完了しそろそろ衛兵隊駐屯地へと戻ってくると伝えられている。
人形騎士の技術が戦争中とは比べ物にならないほどに進化していて、バーナビーが持ってきた戦士級人形騎士フルミナリスは驚くような能力を持っていた。
まあ……タナトルムの介入でおかしなことにはなってしまったが、あれが騎士級人形騎士として再設計されて量産することになれば、帝国軍の戦力は飛躍的に向上するかもしれない。
それとは別で帝国軍主力人形騎士の候補は他にもいくつか存在していて熾烈な開発競争が進んでいるため、数年後には私の想像などを遥かに超えるものができる可能性は高いな。
「ヴィギルスもグラディウスの性能を超えることはないんだよなあ……」
「そうなんですか?」
「基本的に人形騎士はそのベースとなった機体の性能より高くなることはないからね」
ヴィギルスは愛機として使用しているのもあって多少贔屓目に見ているものの、戦争中に使ったグラディウスと比べてどうか、というとそれほど違いを感じない。
量産騎としてあんまり見た目の派手さを感じないグラディウスよりも見た目は格好いいけどね……個人的にも細く白い機体はまあ、嫌いではない。
実際に戦っていて思ったが、数年も経過したら私がヴィギルスを操ってもどうにもならない人形騎士が出てきてしまう可能性がゼロではないんだよね。
「フルミナリスはどうだったんですか?」
「基本性能はグラディウスベースだったから、本当の能力ではなかったと思うよ」
「そうですか……」
「新設計として作られたらまるで違ったかもね」
パトリシアが書類をまとめなおした後、ソファに座っている私の隣に腰を下ろす。
帝国印を床で揉み消した後、テーブルに置かれている吸い殻入れに放った私は彼女の細い肩をそっと引き寄せる。
彼女の柔らかい髪が私の頬にふれ、愛用しているらしい香水の匂いがふわりと香る……私に身を預けたパトリシアの体重を感じながら、その額にそっと口付けた。
そんな私の行動に微笑を浮かべたパトリシアは、背中へとその細い腕を回して私へと抱きつくとそっと呟いた。
「大丈夫ですよ、私とアーシャさんがを一緒にいる限り誰にも負けませんから……」
_(:3 」∠)_ そろそろ通常運転に戻ります
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