(幕間) 帝国歴一二七九年 異世界より 〇一
「ん? なんか言ったかおっさん」
「……何にも言ってねえよ、ところでお前この報告書ちゃんと見たのか? 間違っているぞ」
アナスタシア・リーベルライトは、ふと誰かに呼ばれた気がして振り返ると、書類の山に埋もれそうな状態で作業を進めていたニルス・テグネールへと話しかけた。
ブリムスティル渓谷での任務を終え、過酷な戦闘による各部のダメージを考慮し人形騎士フェラリウス整備のため駐屯地へと帰還した二人は、渓谷についての調査結果、そして魔物の出現と撃破についての報告書を提出するために慣れない事務作業に没頭し続けている。
帝国軍でもこういった書類作業とそれに伴う手続きというのは書面で行われており、特にアナスタシアへと貸与されているフェラリウスの破損やその原因などを報告せよという補給担当士官からの依頼があれば最優先で対応しなければならない。
とはいえアナスタシアは根本的に事務仕事があまり得意ではないようで、手書きの報告書の大半をニルスが添削し、それを再び修正するという二度手間のかかる状況が発生していた。
「ええ? またか……」
「お前本当に戦闘以外からっきしだめなのな」
「苦手なんだよ、書類作るの」
「俺が昔書いた書類をもう一度見直して覚えろ」
ニルスは添削済みの書類をつまみ上げるアナスタシアへと、サンプルとして複写しておいた報告書の束を放ってよこすと、渋々ながら彼女はそれを手に取り興味がなさそうな表情でめくり始める。
戦闘では無類の強さを誇るアナスタシアだが、そのほかの能力が壊滅的に悪く、特に料理はもう二度と担当させないと心に決めるほどにひどかった。
焼くだけのものが黒焦げになり、ナイフで切るだけのものがボロボロになる……実家で何をしていたのか怪しく思うほどに、生活能力が皆無である。
長期の作戦行動中には自炊の必要も出てくるのだが、後で聞いてみると彼女は保存食で何とか食いつないでいたと聞き、そんな状況でよく飢えなかったものだと感心したものだ。
人形騎士の操縦席には多少の収納スペースが存在し、人形使いの裁量で何を載せておくかを決められるが、彼女が重整備に回したケレリスのスペースには保存食がぎっしり詰まっていたそうだ。
「……今日も宿舎に戻るのは遅くなりそうだな、おい書類は俺が何とかするからお前帰っとけ」
「いいの?」
「俺のほうが年上だからな、任せろ」
「やった、ラッキー」
「あんまり夜更かしするなよ、肌荒れるぞ」
「若いから大丈夫なんですーぅ、じゃねおやすみぃ」
満面の笑顔を浮かべたアナスタシアが立ち上がるとニルスは苦笑いを浮かべるが、人形使いである彼女の本領を生かすには、自分の補佐が必ず必要だという気持ちにはなっている。
どちらにせよ彼女に任せておくといつまで経っても終わらない書類作業など、最初から任せなければ何とかなると思うのだ。
上機嫌で部屋を出ていくアナスタシアの後姿を見ていると、彼の視線に気が付いたのか彼女が突然振り返って、笑顔を浮かべて軽く手を振ってから扉を閉めた。
ここ数回の出撃で多くの時間を過ごしたことによって、アナスタシアとの距離はかなり近くなったといっていいだろう。
「……ったくかわいい顔しているのにな、ふああ……流石に疲れているか」
ニルスは静まり返った部屋の中で大きなあくびを始める……渓谷の戦いでは久しぶりに魔術を使ったが、その時の疲労がまだ抜けていない気がする。
軽い眠気を感じて彼は大きく息を吐くと、ほんの少しの間だけだと自分に言い聞かせて瞼を閉じると、深い暗闇の中へと自分が沈んでいくような感覚に身を委ねる。
魔術を行使する際に体内にある魔力を使って数々の奇跡を顕現させるのだが、その魔力の総量は生まれ持った器の大きさによって変わる。
これは星屑の塔で最初に学んだことであり、ニルスの魔力は魔術師として働くにはギリギリの量でしかない、と伝えられた。
人一倍努力を重ね、魔術の理論を学んでいくとその残酷なまでの現実が高い壁となって前に立ちふさがっていく。
先日炎の槍を放った時に炎は白色に輝いていたが、より魔力が高いものが放つ炎は青く輝くのだ。
そしてその威力も桁違いなものになるため、やはり自分は魔術師としては才能がないのだ、と改めて思わされた。
『……だが魔力がすべてではない、君は魔力に頼らない術を見つける必要がある』
当時ニルスを教えていた師匠はそう話すと、魔術師の間では下賤の術とされている魔法についての研究資料を閲覧する許可を与えてくれた。
その資料のおかげで彼は他の魔術師に比べてはるかに多くの魔法について知識を得られ、おそらく人よりも上手く扱える自信を得ている。
ただその反面下賤の術を熱心に学ぶ落ちこぼれ、というレッテルも貼られることにはなったが、まあそれは魔術師としての規範を考えると仕方のないものだ。
その時代に彼と距離を置いていた学友が実力を過信して主戦場で命を落としていたという話を聞くと、今の自分はまだ運が良いのだろうと思っている。
『……て』
「ん? もしかして、まだ帰っていないのか?」
ふと誰かに呼ばれた気がしてニルスは少し瞼の落ちかけていた目を手で擦ると、椅子から立ち上がる。
先ほど帰ったアナスタシアに呼ばれたのかと、扉を開け暗く鎮まりかえった廊下へと視線を向けるがそこには誰もいない。
夢でも見ていたのだろうか、とまだぼんやりと霞がかったような思考を振り解こうと彼は軽く首を振り、そして大きく背伸びをした後に再び席へと戻っていく。
書類自体は明日でも問題ないだろうが、あまりに遅れてしまうと小言が増えてしまう……こういうものは、相手が言い出すよりも前に出しておくに越したことはないのだ。
椅子に座ると、軽く頬を両手で叩いてから再び書類の作成へと没頭していく……だが、そんな彼の耳に今度ははっきりとした声が聞こえた。
『……異世界の英雄よ』
「誰だ?!」
ニルスは反射的に椅子から立ち上がり、油断なく周りの気配を探り始める……すでに駐屯地の大半は人が残っていないため、もしいるとすれば守備隊の連中だけなのだが。
その割にはか細く、女性の声にも思える柔らかいトーンだった……『助けて』という言葉に眉を顰め、ニルスは音を立てないようにゆっくりと廊下へと歩みを進める。
人形騎士の整備場ではまだ作業が続いているのか、少し大きめの音が響いている気がするが、ニルスとアナスタシアが作業場にしているこの部屋がある建物には人が残っていない。
元々この駐屯地は古くは小さな村があった場所を帝国軍が攻め落とし、そして住んでいた住人を強制的に移住させて建設した場所だと聞いたことがある。
「……誰かいるのか? いるなら返事しろ」
『……こちらに気が……くださ……この声を聞……助け……』
「助けて? 俺が助けて欲しいくらいなのに……出てこい」
ニルスの耳にはっきりと助けを求める女性の声が聞こえた気がする……彼は廊下の奥、暗く灯りのない方向へとゆっくりと進んでいく。
この廊下はこんなに長かっただろうか……あまり作りの良くない床板が軋む音を立て、あたりに響くのを聞きながらニルスはゆっくりと、だが慎重に前へと歩いていく。
暗闇はどんどん深く、そしてどうにも感じる違和感と肌に突き刺すような寒さを感じる、そんなバカな……ヴォルカニア戦線は高地でもなければ雪は降らないのだ。
ニルスは懐に入れた短剣へと手を伸ばすと、油断なく前へと歩いていく……視線の先、暗闇の中にぼんやりとした何かが浮かび上がった気がして、彼は目をこらす。
そこには人影のようなものが浮かんでいるようにみえ、彼が手を伸ばすとともに……強い恐怖と、あまりに理解不能な何かが通り抜けた気がして彼は思わず反射的に目を瞑った。
『見つけた……ッ! こっちにきてッ!!!!!』
_(:3 」∠)_ 突然のホラー調
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