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女神の箱庭  作者: 空野 氷菓
宣戦する守護者達
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瓦解の果実


 「あ、珍しい!銃士のにーちゃんじゃん!」


 屈託のない若い声に、銃士は振り向きました。


 終わった世界の残滓、女神が保つ箱庭の宮殿。その外れの厨房は、常に変わらず、透明な早朝の光に包まれていました。


 季節も時刻も、終わった世界の要素を拾い集め、無理矢理繋いで組み立てて、どうにか維持している箱庭。

 その歪で醜悪な箱庭にあっても、透き通るような、ただ純粋な光そのものである、早朝の陽光。


 無邪気な笑顔を浮かべる竜退治の少年は、その光の中で、ヒラヒラと銃士に向けて手を振ります。


 「なになに?にーちゃんもツマミ食い?」


 まだ食事時には遠い時刻。厨房の中には、食事係の姿もありません。


 食事係や掃除係、僅かな田畑を耕し、家畜を飼う人々、勇者達を筆頭にした出陣を待つ少数の兵士達。

 それは、来る終わりの時に備え、女神が選定した〝良き人々〟。

 勇者達を支える役目を持つ彼等、彼女等は、〝神様〟から無事に世界の続きを取り戻した暁には、新たに始まる世界で〝最初の人間〟となるはずの〝最後の人間〟達です。


 では、自分達はどうなるのか、と、ふと銃士は思いました。


 もしも、世界の〝終わり〟を、この箱庭から押し返す事が出来たとして。

 〝良き人々〟が、新たに〝始まる〟世界で最初の住人となるのなら、勇者達は、どうなるのでしょう。

 やはり、最初の人間として、新しい世界に生きる事になるのか。

 それとも、今度こそ普通の人間と同じように、この魂は女神の元に保存されることなく、冥府に至る事が出来るのか。


 いいや、と銃士は思いました。


 もはや世界は一度〝終わった〟のです。

 ならば、世界の為にあった冥府も〝終わった〟のでしょう。そこにあったはずの〝終わった世界〟の魂達は、きっと、消えてしまったのかもしれません。


 もはや、勇者達が死んだところで、その魂は、かつての世界に遺した愛しい人々と同じ所には絶対に辿り着けないのです。

 愛しい人々は、世界と共に〝終わって〟しまったのです。


 たとえ〝神様〟すらも殺して、この箱庭を守り切ったとしても。

 銃士にとって本当に愛おしかったものは、二度と戻りません。


 銃士の中の絶望は、既に満杯でした。

 残酷な事実を新たに認識したところで、もう、その絶望が新たに嵩を増すこともありません。

 ただ、とうに砕けた魂が、またひとつ、パキン、と細かくなるだけでした。


 「にーちゃん?」


 不意の物思いに沈んで黙り込んだ銃士を、厨房の中の少年は不思議そうに見詰めます。


 「おーい?俺のこと、見えてる?」


 「ああ、残念ながら見えている」


 ようやくと答えると、なんだよ、と少年は頬を膨らませました。


 「残念って何だよ、失礼だぞ!」


 「そうか、悪かった」


 大袈裟に腕組みして眉を動かしてみせる少年から視線を逸らし、銃士は厨房の奥に向かいました。


 「え、あ……いや」


 サラリと謝られてしまい、少年は鼻白んだように眉を下げます。


 「……あのさ、何探してんの?」


 少しの間、厨房の奥にある棚を探る銃士を見詰めてから、少年は問い掛けました。


 「紅茶の葉を」


 「それならコッチだよ」


 銃士が目星を付けて探っていた棚の横、別の棚を開いて、少年はブリキの缶を取り出します。


 「何種類かあるけど、俺には全部一緒に思えるからさ、自分で選んで」


 コトン、コトンと。軽い音を立てて、手近の調理台に乗せられていく数個のブリキ缶。

 巻かれた紙には、それぞれ風味の違いが記されていました。


 「あ、お湯と、急須もいるだろ?」


 並べ終えると、パタパタと、少年は厨房内を行ったり来たりしてお茶の準備を整え始めます。


 「ええと、砂糖とミルク、いる?」


 「ありがたいが、茶器一式は自室にある。欲しかったのは茶葉だけだ」


 銃士が首を横に振ると、えっ、と少年は、高い棚に背伸びをして伸ばしていた手を引っ込めました。


 「ええ!?なんだよ、珍しく出て来たなぁと思ったから、面倒みようと思ったのに!」


 残念そうな顔に邪気や恩着せがましい感情はなくて。ただ純粋に、あまり関わりのなかった銃士に構いたいという好奇心が溢れています。


 「なぁなぁ、ここで飲んでけば?今さ、丁度、俺もツマミぐ……おやつにしようと思ってて」


 ほら、と、先ほどまで自分が立っていた位置を示す指先。

 作り置きの焼き菓子と、林檎がいくつか、どこからか少年に持ち出されて、コロコロと机上に転がっています。


 「腹は減っていない」


 首を振り、銃士は視線を食器の棚に移しました。缶ごと自室に持ち帰るわけにもいかないだろうと、茶葉を入れる為の容器になりそうな食器を目で探します。


 「そう言うなよー!」


 少年は屈託なく笑い、林檎を一つ手に取りました。


 「ほら。これ、表面まで蜜が出て来てるんだ。食べ頃だよ、きっと甘い」


 そのまま机に座って、ブラブラと足を揺らしながら鼻歌を歌う姿。


 これが、かつて世界を救った竜退治の勇者かと、ふと、銃士は食器を探す事を止めます。


 お世辞にも行儀が良いとは言えない格好と行動。けれど、眩く透明な、夜明けの光に照らされた厨房の中、童歌を口ずさむ少年の姿には、のどかで、胸が痛くなるほどの安らかさと懐かしさがありました。


 「俺の育った村は、葡萄の名産地だったんだ」


 少年は機嫌良く、そう語り出します。


 「親父は元は王国騎士団の第二隊の隊長で、百匹の魔物を一人で倒して北の砦を守った無敵の騎士隊長だった」


 自慢げに、誇らしげに、しかし、あまりに素朴で屈託のない声と顔には、嫌味も自惚れもなく。


 「でも、倒した大妖魔から死に際の呪いを受けて、俺が小さい頃に死んじまった。で、母さんは、俺と兄貴を連れて実家の葡萄農家に戻ったわけなんだけど」


 以来、毎日、葡萄ばかり食べさせられた、と少年は顔を顰めました。


 「信じられる?毎日だぜ、毎日!三食、飲み物は葡萄絞ったやつ!で、毎日、おやつは葡萄か、葡萄パイか、葡萄クッキーか、葡萄か葡萄か葡萄か葡萄!」


 皮が緑とか紫とか、そういう細かい違いは意味無いから、と、少年は今はここにいない誰かに憤ります。


 「早く一人前の剣士になって、こんな村出て行ってやる、って思ってた」


 笑って、少年は手の中の林檎を見下ろしました。


 「はじめて村を出て、王都で見習い騎士の選抜試験を受けた時、出された食事に付いてきたのが林檎でさ。それだけで、なんか都会に来たな、って、感動したの、すげぇ覚えてる」


 えへへ、と。

 頬を掻いて、少年は銃士を振り向きます。


 「俺、それから林檎が好きなんだよな。いや、実を言うとさ、葡萄がスッゲー恋しくなる時もあるんだけど。でも、一番好きなのは、林檎」


 早朝の光は、透き通り過ぎて熱を持たないと、銃士は思いました。

 昇ったばかりの太陽の光は、洗いたてのように透明ですが、故に、まだ燃え上がることも無く、地上を温める熱を持ちません。


 しかし、それならば今、少年の回りにだけは、真昼の陽光が差しているように思われました。


 その周囲は明るくて、光に満ちていて。

 しかし、熱を持たない光そのものなだけの明るさではなくて。

 それは真昼の、一等高く熱く燃え上がる時の太陽、光に熱が伴い、光そのものではない、輝きにまで至った時の、明るさです。


 その少年の回りには、確かに、温かな輝きがあるように思われました。


 ひどく胸が締め付けられるのは、その輝きに、在りし日を見るからでした。


 「赤い林檎も、青い林檎も大好きだけどさ、やっぱり、赤い方が美味しそうに見えるよな」


 少年は、机の上にあったナイフを手に取り、林檎の皮を剥き始めました。

 戦用の篭手を外した少年らしい未熟な細さを残した指先は、けれど、剣を握り慣れた指先です。その手の甲には、歴戦のうちに負った細かな疵が、いくつか散っていました。


 刃物ならば握り慣れているはずの竜退治の勇者は、そうして、普段握る物より格段に小さな刃物を握って。

 しかし、物慣れない、どうにも危なっかしい仕草で、林檎の皮を剥こうとします。


 ぶつり、ぶつり、と。ほんの中指の程度の長さまでいっては、切れて落ちてしまう赤い皮。そのたび、必要以上に深く刃を差し込まれ、でこぼこに深く抉られてしまう白い果肉。

 あれ、あれ、と、眉を八の字に下げて、徐々に、無自覚に刃物に顔を近付けていく少年。


 「竜退治」


 銃士は呼び掛けると三歩で少年の横に至りました。


 「貸してみろ」


 「あ」


 ナイフと林檎を取り上げて、銃士は少年の横、机に寄り掛かります。


 スルスルと、慣れた様子で、綺麗に垂れていく赤い帯。


 「え、包丁使えるの?意外」


 「……お前、家の手伝いもした事がないのか」


 銃士の言葉に、少年は少し気まずそうに目を逸らしました。


 「芋の水洗いとか、鍋の火の番とかならしたけどさぁ……」


 母親から、力仕事を除けば家の手伝いは要求されなかった、と、呟きます。


 「それに、兄貴が魔道士だったから……。台所で謎の植物とか切り刻んで、煮込んだりしてること多くて……」


 台所は兄の縄張りでもあったのだ、と少年は頬を膨らませます。


 「俺が入ると、触るな!動かすな!今いいとこなんだぞ!ってすぐ怒るわけよ。だから台所は近付かなかったんだ」


 アンタは手伝いしてたの、と続けられ、銃士は肩を竦めました。


 「お前と逆だ。俺の家には母親がいなかった。父親は船乗りで、一年の大半は航海に出て不在だった。弟と妹は、ほとんど俺が育てた」


 「え、そうなの?」


 目を丸くする少年に、銃士は皮を剥き終えた林檎を切りながら頷きます。


 「お前の兄貴は苦労しただろうな。厨房を荒らす弟ほど厄介な敵はいない」


 「いや、俺、荒らしてないし。入らないようにしてたし。それに兄貴は料理してたんじゃなく、変な薬調合してただけだし!」


 抗議する少年の鼻先に、ひと房に切った林檎をヒョイと突き出すと、その文句はピタリと止みました。


 「あ、ありがとう」


 反射的に受け取って、少年は林檎をジッと見詰めます。

 綺麗な形に切られたひと房は、確かに手馴れたものでした。


 「……アンタさ、じゃぁ、家事とか、出来るんだ?」


 シャリシャリ、と。

 林檎を齧りながら、少年は問いました。


 「人並みには」


 銃士は答えて、切り分けた林檎を手近に出されていた皿に並べます。


 気紛れに世話を焼いたのは、シャリシャリと林檎を頬張る少年に、在りし日の妹や弟の姿を重ねたから。


 二度と、もどらない、大切なもの。


 絶望は色濃く満杯でした。

 限界のある絶望などまだ甘いと、そう思う事すら既にありません。

 絶望には限界があるのです。底のない絶望などないのです。

 絶望というのは、本当の絶望というのは、落ちた時点で、もうそれ以上に落ちようがない、どん底なのです。

 落ちる高さが、希望が、何一つないのですから。

 だからこそ、絶望と言うのです。


 再現なく膨らむ、深くなり続ける絶望があると錯覚しているのなら、きっと、それは絶望ではなく、単なる悲しみや苦しみなのです。

 それがどれだけ苦しかろうが、悲しかろうが、それは単なる苦しみ、悲しみであり、絶望ではありません。


 ならば、銃士の中にある虚無は、絶望でした。

 悲しみも苦しみも存在し、想像を絶するほどに激しく、深くなり続けていましたが。

 しかし、それとは明らかに違う、この暗くて冷たい虚無だけは、これ以上、深くなり続けることはなくて。

 ならば、それは絶望でした。


 だから、今、二度と戻らぬものを追憶しても、絶望は一切深まりません。

 ただ、魂が更に砕ける渇いた音だけが、静かに聞こえます。

 魂を、自分の中身を砕かれる耐え難い苦痛、発狂するほどの痛みだけが、静かに、確かに、銃士の中で増すのでした。


 ナイフを水桶に浸して洗い、傍の布巾で拭うと、銃士はその場を離れようとしました。


 真昼の日溜まりのような少年の横には、これ以上、いられません。

 その輝きは、暖かく懐かしくて、遠いいつかに近過ぎました。

 砕けた魂は、その輝きを浴び続ければ、きっと渇ききって、更に細かく、鋭く、割れてしまうでしょう。


 けれど。


 「茶葉は?」


 茶葉など既にどうでもよく、ただ立ち去りたかった銃士の袖を、少年の手が引きました。


 「気が変わった、もういい」


 静かに振り払う銃士に、え、と少年は首を傾げます。


 「……それなら、一つ、林檎は?」


 「いらない」


 「あ、もしかして、林檎が嫌いとか?」


 少年は屈託なく笑いました。


 「なら、焼き菓子もあるぜ。あ、厨房係の作り置きだから、内緒で一つずつだけどな」


 共犯を誘い、焼き菓子を示す顔に、銃士は首を左右に振ります。


 「ちょっとは付き合ってよ。アンタさ、あんまり俺達と関わろうとしないんだからさ、たまにはユックリ長話しようって」


 少年は再度、銃士の袖を引きました。


 「あ、林檎の皮むき教えてよ。次から一人でやれるようにさ」


 「……ひとりで練習しろ」


 「ええー!長男なんだろ、もっと面倒見良いトコロ見せてくれよなー」


 屈託なく、邪気なく、明るく。

 もう一度、銃士に果実を握らせるその声。


 ああ、これが竜退治の勇者か、と。

 銃士は不意に実感しました。


 この輝き。

 並び立てば中身を砕かれると知ってなおも、知らぬ間に再び、横に立ってしまうほどの、あたたかさ。

 これが、きっと、かつて五つの災厄、竜に襲われた世界を、人々を奮い立たせ、勝利に導いたもの。


 この少年騎士は、確かに勇者だと、銃士は認めます。


 「なぁ、なんかさ、ほら、皮で兎作るのとか、あれ、どうやるか知ってる?」


 首を傾げる少年に、ああ、と銃士は小さく頷きました。


 「あれは、皮をむく前に切り分けて、切り込みを入れる」


 「え、どゆこと?」


 手元を覗き込んで来る少年に、渋々と見せてやれば、やがて、若草の目は輝いて。


 「意外と簡単じゃん!それなら俺も出来る!」


 「……こんな物が作りたいのか」


 「いや、別に、俺は兎じゃなくてもいいんだけど!」


 横目に見れば、急に、少年の頬は朱色を帯びます。


 「……その……女神様が、兎、好きって言うから」


 視線を泳がせる様子に、銃士はピタリと動きを止めました。


 ああ、そうでした。

 この少年の、あまりに真っ直ぐな、純粋な、心。

 その心の向いている先を思い出し、パキリと、また、魂が砕けます。


 しかし、今度のそれは己の痛みの為ではなくて。


 「……おまえは」


 「え?」


 視線を再びこちらに向けた少年は、驚いたように目を見開きます。


 「……にーちゃん?」


 「……お前は、あの女神が」


 その先の言葉を、銃士は寸前で飲み込みました。


 憎くないのかなど、問うのは愚問でした。

 あまりに残酷でした。


 何も知らぬ無垢な勇者なのです。


 少年が手に入れるはずだった優しく愛おしい未来を引き千切り。

 愛していた家族や友人、全てのものと、永遠に、死してなお再び同じ場所には立てないようにして。


 少年から無垢に、一途に想い続けられていると、知りながら。


 高潔で玲瓏な騎士の本質に漬け込み、愛しい別人の身代わりをさせて。その寝台で溺れ、ひとり逃げて。


 そんな歪みきって醜悪な、女を。


 この無垢な勇者は、知らぬのでした。


 それを教える事が、あまりに残虐で、身勝手で、自己満足であることなど。


 誰もが知っていました。


 だから、冬の宮の騎士は、溺れ寄り掛かってくる女神を受け入れたのです。

 その高潔故に、少年の純情を裏切る罪悪感と自責の痛みは誰より激しいはずであるのに。

 自分が女神を拒めば、あの女神は折れると、歪んだ均衡を保つ、この箱庭は立ち行かぬと知っているから。

 あるいは少年に真実を告げれば、きっと少年は自分以上の痛みを受けるだろうと、知っているから。

 甘んじて全ての皺寄せを受け入れているのだと、それは、銃士にすら容易に分かることでした。


 そして、その騎士をかつての主と重ね、泡沫の主君と据えている軍師も。泡沫の主が黙する限り、それに従うでしょう。

 あるいは、真実の主たる大公の生きた世界の残滓、この箱庭を守る事を良しとしたならばこそ、その危うい均衡を保つため、少年に残酷な真実を告げることはないのでした。

 

 騎士も軍師も、そういう勇者なのです。

 勇者であるが故に、偽の幸福の中に少年を取り残す事、その残酷さや歪さを理解し、自責しながらも、勇者であるが故に、少年を傷付ける事などできず、その自責の痛みを自業自得と受け入れ、飲み込んでしまうのでした。


 もしも、告げるものがいるとするなら、それは他ならない銃士のみです。


 しかし、銃士もまた、たった今、告げることなど出来はしないと思い知りました。


 目の前の屈託なく笑う眩しい日溜まりに、どうして己の中の絶望を垂らすような真似が出来ることでしょうか。


 そう思うほどには、銃士もまた、魂砕けようとも、その砕けた魂こそ、勇者であったのです。


 「……お前は、そのままでいろ」


 「え?」


 飲み込んだ言葉のかわりに、零れ落ちたのは、祈りでした。


 「お前は、それでいい」


 それは希望ではありません。

 既に絶望した銃士から零れるそれは、希望ではないのです。


 ただ、それは本心でした、祈りでした。


 なにひとつ、未来に希望などないけれど。

 この小さな日溜まりが、永遠に守られることなどないと、諦観し、絶望しているけれど。


 何も知らぬまま、せめて、偽の幸福の中に、この無垢な少年がいられれば良いと。


 それを叶わぬ祈りと確信する絶望を満杯に抱え、しかし、叶わぬと確信している時点で、その祈りを思い浮かべてしまっているということなのです。


 銃士は今度こそ、少年に背を向けました。 


 「お、おい!」


 少年の伸ばした手は、今度は空を切って。


 「にーちゃん」


 「ここまでだ。もう貴様と話す気は無い」


 廊下に出てから、銃士は振り向きました。


 早朝の光に照らされ、少年の輝きを抱えた厨房から、一歩外。

 松明もない廊下は、薄闇に包まれています。


 歪な、継ぎ接ぎだらけの宮殿でした。

 なにもかも壊れた奇形の箱庭でした。


 けれど、厨房の中、光は本物なのです。


 それは、あまりに残酷だと、銃士は思いました。


 女神の歪さを、醜さを嘲笑い、見物することこそが壊れた勇者の最期には相応しいでしょう。


 しかし、その壊れた勇者でも。


 この輝きが崩壊していくのをいつか見ると思い馳せた時、パキパキと、既に砕けに砕けている中身が、更に粉々になるのでした。


 顔を伏せ、銃士は表情を隠しました。


 「……お前は、どうか、そのままで」


 掠れた声で、叶わぬと確信している祈りを嘯き。


 銃士は今度こそ、光溢れる場所から立ち去りました。


 絶望は既に満杯で、嵩を増すこともなく。


 ただ、中身を砕かれ、磨り潰される痛みは気が狂うほどで。


 そして怒りが、憎悪が、果てしなく大きく燃え上がっていました。


 己から全てを奪われたこと。


 あの光を、こんな場所に、落とし捕らえたこと。


 ああ、ああ、と、声にならない咆哮が銃士の身の内を巡ります。


 ああ、ああ、ああ、ああ、ああ……。


 ゆるさない、ゆるせない、ゆるしてなるものか。


 ああ、ああ、ああ……。


 その勇者に有り得ぬ怨念は、憎悪は、悪意は、怒りは。


 けれど、彼が勇者であるが故に。


 彼が、己ひとりの不幸よりも、好ましいと、守るべき何かと認識したものに掛かった不幸にこそ、心揺さぶられる勇者である故に。


 いま、より一層、深く高く、灼熱に。


 「……ゆるさない、ゆるしてなるものか……!」


 低い怨嗟の声は、なにより、日溜まりの少年の愛するものに向いていました。


 日溜まりを慈しむ故に、その日溜まりが愛するものを憎悪して。

 小さきものの為に戦わんとする勇者であるが故に、憎悪の怪物に成り果てて。


 それは途方もなく報われない、崩壊の暗示のみで出来た関係性でした。


 そんな風に、全てが継ぎ接ぎだらけの、狂った箱庭。


 勇者であるが故に、誰より勇者にあるまじきものに変貌しようとしている、青年。


 ギシギシと、音を立てて、全てが軋んでいました。


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