寵愛の玉座
「〝神様〟相手の戦は、流石に拙者も経験がないでござーるね」
世界の残滓、女神の留める箱庭の宮殿。
玉座の間は、がらん、としていました。
黄金と真紅の錦で彩られた壇上の玉座は無人。
ならば、王との謁見に臨む誰かが跪くべき紅の絨毯の上にも人影はなく。あるいは、広間に居並び、跪いて忠誠を示す臣下達もここにはありません。
左右両壁に整然と並んだアーチ型の窓から見える外は真の暗闇でした。
玉座の背後にある一等大きな窓から覗いている、丸い丸い銀の月だけが、唯一、暗闇に浮かぶ暗闇ならざるものです。
「でもまぁ、最低限必要と思われる……というか、現時点でこちらが打てる手は、普通の戦と同じでござろうよ」
真紅と紅の錦で飾られた円柱に、寄り掛かった仮面の軍師がひとり。
がらん、と寂しい王無き玉座の間には、その彼と、冬の宮の騎士だけが存在していました。
「兵と武器、兵糧の確保でござる」
「兵数は二百と少しだ。今は武具もそれに足るくらいはあるが……。いかんせん、鍛冶屋が少ない。事が始まって武具の消耗があれば、やや苦しいな」
軍師の言葉に、冬の宮の騎士は静かに応じます。
「もっとも、兵が減る速度がそれを上回る可能性もあるが……」
「兵糧も同じくだな」
軍師は頷きました。
開けぬ夜に囲まれたこの広間で、二人の勇者は、これより先に待つ戦について、思案しておりました。
「そもそも、二百程度の兵で〝神様〟が遣わす〝魔物〟とやらが殺せるものかが、まず疑問だけどね」
軍師の声は明るく軽快でしたが、その言葉は、鋭く容赦がありません。
「拙者はあくまで〝人間〟の戦をしてきた軍師だ。〝魔物〟とやらの殺し方となると、竜退治の坊ちゃんや、君の方が詳しそうでござるね」
「俺が討伐した魔神と〝魔物〟が同じものかはわからないが」
騎士は視線を暗がりに投げ、思案するようにゆっくりと口を開きます。
「魔神といえど、切れば死んだ。問題は、それ自体が恐ろしく強かったことと、切れるほど近付くまでに、膨大な魔の軍勢を退けなければならない事だった」
「もし、それと同じだとすれば、〝魔物〟だけが迫ってくるか、それとも、〝魔物〟を頭として大量の軍勢が迫ってくるか、で話は変わってくるな」
軍師は仮面の頬をコツコツと指先で叩きました。
「〝魔物〟だけで迫ってくるなら、拙者の仕事は守の戦になるでござるね。この宮殿を……残っている人々を、二百の兵を使って、いかに守るか考えること」
〝魔物〟退治そのもの、即ち、攻の戦は、他の三人を中心に行うことになるだろう、と。
「君達が凱旋するまで、砦を守るのがこの拙者、軍師の仕事になるでござろう」
「そうだな」
騎士は同意して、だが、と微かに眉間に皺を寄せます。
「軍勢が迫る時には、また違ってくる」
「寡兵でいかに対抗し、あまつさえ敵軍の波を崩し、大将首に到達するか」
フフ、と軍師は笑って、仮面に手を掛けます。
「なるほど。そちらの方が、私の腕が試される」
青銅の声が、夜の広間に響きました。
「二百の兵をもって、怨敵の喉元まで、如何に最高戦力を届かせるか」
「貴公を侮る意図はないと前置きするが、聞きたい。……可能か?」
騎士の声に、ふむ、と仮面を外した軍師は、顎に手を当てます。
「五倍の兵力差までなら、覆した実績がある。千の軍勢までなら、まぁ何とかしてみせよう」
淡々と、誇るでもなく。
「だが、それ以上となれば、保証しかねるな」
謙遜も、卑屈もなく。
その言葉は、稀代の大軍師が、現状で弾き出した最も確実な答えでした。
「なるほど……。いや、千までは覆すと言うのなら、上等過ぎる。この上ないが」
「〝神様〟とやらが、並の軍師程度以上に賢明ならば、まぁ千以上で仕掛けてくるでござろうなぁ」
再び仮面を被って、軍師は笑います。
「〝神〟であればこそ、拙者の戦績くらい知っているだろうし」
困ったものだ、と呟いて。
けれどその声には、微かな恐れも、戸惑いもないのでした。
「しかし戦なんていつも〝不確実〟の連続でござるよ。千を覆した時だって、その前夜までは〝七百までなら出来るが、それ以上は保証できない〟と言っていた」
保証しかねるなら、保証できるようになるまでのこと、と。
断言に、騎士は目を瞬きます。
「……貴公が歴史に名を残した理由が、今ほどわかった事はない」
「ふふ、惚れたでござろう?」
素直な感嘆に、軍師は肩を竦めてみせました。
「負けたくなければ勝つしかない。何しろ、この戦には引き分けも和平もないでござるから」
そうして、静かに歩み寄ったのは玉座で。
「さて、二百の兵力の運用について、魔神討伐の将と本腰入れて検討したいのだけれど?」
「ああ、こちらもそうしたい」
騎士は頷いてから、不思議そうに軍師を見返します。
「なにを?」
「なにって、手招き」
軍師は、玉座の横に立って騎士を手招いていました。
「長話になるから。そこへ座ればいいじゃないか」
軽い調子で、手招きしていない方の指先は、玉座を指します。
「まさか。そうはいかない。私は、この宮殿の主ではないんだ」
パチリと目を瞬いて否定した騎士に、そんなことは構わないだろう、と、軍師は応じます。
「宮殿の主は女神様でござる。そして、あの方は〝女神様〟であって、〝王様〟じゃない」
コツリと、豪勢な椅子の背を叩き。
「そも、この宮殿は王を頂く権力の中枢ではないんだ。形が宮殿なだけで、実態は〝終わり〟からの避難所、大洪水の中で漂う頼りない船みたいなモンでござーる」
王無き宮は王宮にあらず、と軍師は軽い調子で言い切ります。
「即ち、王無き玉座は玉座にあらず、ただの豪華な椅子でござーるね。ほら、怖いことも遠慮することも無いでござろう?」
バンバンと、今度は錦の貼られた椅子の平面を勢い良く叩き、軍師は騎士を再度手招きます。
「さ、座った、座った!拙者、長話する気満々でござーるよ」
「しかし、貴公が立っているならば……」
「ああ、気にしない気にしない。拙者は拙者で、ここに坐るから」
歩み寄りながらも、今一歩で玉座に座る事を戸惑う騎士に、軍師は笑って玉座の肘掛を指して見せました。
「それこそ我が君の城にては、ここが拙者の特等席だった」
「玉座の肘掛が?」
目を丸くした騎士に、ああ、と軍師は笑い声を上げます。
「そうでござるよ。流石に、頭の固い貴族や臣下、客人の前では控えたけど」
そうして肘掛に半分座るようにして寄り掛かり、腕組みしました。その体勢で、少し顎を引いて、首を傾けるのが、かつての彼のお決まりの姿勢でした。
「信頼の置ける近しい者達と、軍議したり、大事な国策を練る時は、いつもこうしていたでござるねぇ」
不敬だと、真面目にやれと、口々に仲間達に言われながら。しかし、その愛情こもった柔らかい罵倒こそが、緊迫した軍議の時にこそ、軍師も含めた誰もに必要だったのです。
「〝ライムントだからしょうがない〟と、我が君が溜息を吐いて諦めるのが、様式美でござったーよ」
呆れたように、諦めたように。
そして、どんな危急の時にも変わらぬ軍師の不遜な言動に、少しホッとしたように。
大公はいつも、軍師が玉座の肘掛を椅子にする事を許しました。
「大公殿はだいぶ寛容だったようだな」
笑う騎士に、ああ、と軍師は仮面の奥で微笑みました。
「寛容だったさ。生真面目だけれど、妙なところで我慢強くて。口煩く見えて、実はとことん他人に甘い人だった」
今も愛おしく、慕わしい、無二の主を思い、軍師は目を閉じます。
「遠征中、陛下用のスープに、兵士が塩と間違えて砂糖を入れた事があったでござる。ところが、我が君ときたら、それを遠征中で材料が不足しているのかもしれない、と。拙者が気付く前に、黙って飲み干したわけだ」
そんな人だったと、軍師はケラケラ笑いながら思い出を噛み締めます。
「あの人は、元は大公家の本筋ではなく、傍流の家系で」
「傍流?」
聞き返す騎士に、ああ、と軍師は目を再び細めます。
「かの大公は、群雄割拠する乱世の世に、大公国の外れ、国主の遠い血筋ながら、鳴かず飛ばずの慎ましい地方領主の一族にお生まれになったでござーる」
後に偉大なる覇者となる人は、はじめは玉座など転がり込む事もない身から起きたのでした。
「それもあったのかもしれないな。礼儀や規律、節制には厳しいくせに、自分が偉い、という事には疎いところがあってね」
国主の血縁たる気品と誇り高さ。地方領主らしい名も無き民草への共感と気安さ。相反するようなものを、ごく当然のように持ち合わせた人でした。
「初めて会った時、あの人はまだ大公国の騎士団長だった。そして私は、公国に参謀として雇われたばかりの傭兵将軍だった」
懐かしく愛しい記憶をなぞり、軍師は小さく、幸福そうな息を吐きました。
「……一年足らずで……そう、たった一年足らずで。この熱狂、狂おしいほどの思慕を得たことは……、恋をした、と言うのが最も近いのかもしれない」
共に戦場を駆け、宮廷で過ごし、そばに立てば立つほどに。
軍師は、若過ぎる騎士団長に理想の王を見たのです。
「この方こそ、私が仕えるべき生まれながらの王だと、心底思った」
仮面越しにくぐもった声にすら滲むほど、そこには確かな信頼と忠誠がありました。
「愚直なほどの高潔だった。名も形も知らぬ、されど何処かに確かに存在する誰かさえいるならば、その誰かの為に何もかも差し出してしまえる。そんな、哀れで愚直で、奇跡のような高潔こそが、あの方の本質だった」
その高潔の輝きを畏怖し、敬い。
その高潔の危うさを美しく、悲しく思い。
気付いた時には。
その輝かしく危うい諸刃のような在り方から、もはや目を逸らすことなど出来なくなっていたのです。
「ああ、このような人を、このような生き様を、なんと呼ぶのか」
幾度も自問して、幾度も、言葉にならぬほどの畏怖と憐憫と敬愛と、あらゆる全てを込めて、その姿を見詰めて。
「そう、その生き様こそを、王道と呼ぶに相応しいと、俺は答えを決めた」
きっと、その生き様の美しさ、強さ、悲しさ、その全てこそが、王の道、王の生き様なのだと、答えを得たのです。
「ならば、その道に付き従うと決めた。その道に栄光あれと、永劫、歌い続けることを誓った」
後に統一大公となる騎士団長の横、流れ者であった軍師は、その時、初めて輝かしいものを、何が起きても変わらぬ絶対を、信じたのです。
そして、その輝かしい魂を持つ王の描く世界を、共に掴みたいと、心の底から思ったのでした。
「いとおしい、私の王」
軍師は微笑み、仮面を外しました。
「あの方の道行きに幸あれと、そう万策持って寄り添うこと。あの方の進む先に、常に勝利の祝歌を響かせ続けること。あの方を最高の玉座に押し上げることこそ、私の生き様、私が私に課すべき生涯の意味なのだと、答えを得た」
青銅の声に、冬の宮の騎士は聞き入り、やがて微笑みます。
「奇跡のような出会いだな。そうとまで信頼する王に出会えたことは……素直に、羨ましい」
「ああ、そうだろう?謙遜はしない。これだけは、あの人との出会いだけは、髪の毛一本分たりとも謙遜なんてしてやるものか。奇跡なんて言葉すら生温い出会いだったんだ。三千世界に一等の、俺の、最高の偉業にして幸運」
軍師は頷いて、ふふ、と笑いました。
「さて、そうだ。ほら、座るといいよ」
空の玉座を示して、肘掛に座した軍師は笑います。
「あの方と共に駆けた世界だ。あの方の愛した世界だ。〝神様〟からだって、もう一度、守り抜いてみせる」
「……ああ、貴公がいれば、できる気がしてきたな」
騎士は楽しげに笑いました。
「策を練るとしよう。連綿と、私の時代から貴公の時代へ、そして、その先へ。継がれてきたものを、ここで絶ってはならない」
英雄譚に聞き入り、冒険に胸弾ませた少年のように。眉尻を上げて言い切った騎士は、今度こそ玉座に掛けました。
「献策を、軍師殿。貴公がただ一つでも活路へ届く策を見出すならば、その策は、必ずや我が剣が成すと約束しよう」
静かな声に、闇すらも跪いたような気がしました。
迫り来る〝神〟との戦を前に、僅かも引かず、恐れず。
なにものにも動かせぬ、不退転、不動の覚悟を決めた、そんな、声。
かつて、玉座も、名誉も、与えられて然るべき幸福の一切を、得られずに死んだ悲劇の勇者。
誰よりも高潔であるが故に。
全てを無辜の民に、名も知らぬ、顔も知らぬ万人に差し出してしまった、忘れられた騎士王。
玉座を得ぬまま死んだ、しかし、誰より王であるべきだった青年を、軍師は横目に見やります。
「あの御方こそ、我が生涯唯一無二の主」
それは変わりません。永久に、変わり得ないでしょう。
しかし、軍師は夜に包まれた玉座を見回し、吐息を落とすのです。
「けれど……」
絶対の主の面影を偲ばせるものは、ここにいました。
生涯一度も玉座に就かなかったとしても、その生き様は、その本質は、あの人と同じでした。
同じであると、こうして言葉を交わせば交わすほど、気付かざるを得ないのです。誰よりもかの統一大公を愛したからこそ、軍師は、この騎士と大公の本質的な同一性を悟らずにいられません。
「戦が始まれば、〝旗印〟が必要でござるね」
軍師の王は、軍師が掲げるべき御旗は、ただ一人、ただ一つです。
かわりなどいません。代替品など有り得るはずもありません。絶対唯一無二のものです。
先に出会っていれば、などという〝もしも〟すら考える事を拒絶し、切り捨てるほど絶対的に。軍師の主はただ一人、あの大公だけです。
しかし、今、この箱庭で。
この玉座は空でした。
この宮殿には、王がありません。
しかして、軍師にとって玉座に就くべきただ一人は。
軍師の王は、ここにはないのです。
きっと、おそらく、それこそが、この歪な箱庭の女神が謀った事と、知ってはいても。
ここには、真の主はなくて。
ここには、空の玉座があるのです。
そうして。
もう間もなく、戦が始まるでしょう。
神殺しを標榜する、望み無き戦が。
その時、旗印となるべき王が必要なことも、明白でした。
ならば冬の宮の悲劇の騎士こそは、王たる資質の持ち主なのです。
答えは出ていました。
全て女神の思う壷。
巧妙に、女神が仕組んだ配役に舞台。
自分は今、台車の上の操り人形と、偉大な軍師は分かり切っています。
それでも、答えは一つでしかありえなかったのです。
「……座り心地はいいかな?」
軍師は静かに問い掛けました。
「ああ、まぁまぁだな。……豪奢過ぎて、かえって肩が凝りそうだが」
玉座の上で首を傾げる騎士に、そうか、と軍師は微笑みます。
「平気さ。すぐに慣れる。拙者がここにいる間は、そこが貴方の特等席だ」
かつて玉座に押し上げた唯一無二の主は不在。
ならば、今は泡沫の夢。
かの王と本質を同じくしながら、玉座を得られなかった悲劇の騎士を目の前に。
今、この箱庭では、この騎士に仕えようと、軍師は誓います。
己の誇る全ての策を持って、この箱庭の玉座を、仮初の主に贈るのです。
そうなるように、用意された舞台の上、用意された台本。
女神の用意した捻りもないそれに踊らされる滑稽な自分は、軍師どころか道化と知っていても。
それでもなお軍師は、そう選ばざるを得ないのだと自認しました。
王たる魂を目の前にすれば、道化として踊ることさえ厭わぬからこそ、軍師は軍師なのでした。
玉座の肘掛に座して、軍師は道化のように明るく笑います。
「昔から、人は拙者が王に寵愛されていると言ったものでござったねぇ」
「そうなるだろうな。玉座の肘掛に座る軍師なんて、普通は有り得ない。どれほど貴公が大公殿の信頼を勝ち得ていることかと、皆思うはずだ」
応じる騎士に、そうだろうね、と軍師は頷きます。
「でも、本質は逆だと思っているよ。今も昔も」
「逆?」
怪訝そうな騎士に、答えぬまま微笑んで。
さて、と、かつての記憶、そして、これより先の戦の展望を語りながら。
そう、本質は逆なのだと、心のうちで呟きいて、軍師は目を細めました。
愛されていたのは確かでしょう。
けれど、玉座に座る事を許したのは、王ではないのです。
万策尽くして、他の全てを薙ぎ払い。
愛しい相手が、玉座に座ることを許すのは。
ただ一人と、定めた寵愛の相手に、栄光の座を用意するのは。
「俺は、尽くしたい家臣なんだよ」
今は自覚のない王を得た玉座の間で。
二度目の王を据える軍師は、そう、笑いました。




