勇者の瓦解
「何の用だ?」
気怠そうに、その男は言いました。
世界の残滓、女神の保つ頼りない箱庭の宮殿の一角。
金色の葉が頭上にも、足下にも広がる森の中、青年は、気怠そうに振り向きます。
「貴方は、いつも、こちらにいらっしゃるので……」
「それに何か問題が?」
切株に座って足を組んだ男は、黒い髪を素っ気なく掻き上げ、女神から再び視線を外しました。
煌びやかな外套を纏った青年でした。
細工は華やかなでありながら、落ち着いた濃紺色の隊服に、金色の飾緒、鈍金の柄のサーベルと、銀の小銃を携えた、若い銃士です。
「まさか貴殿は、俺に、あの常春の中庭に向かい、希望に燃える少年の談笑の相手をしろと申されるか?」
皮肉げに口角を上げ、銃士は永遠の秋を謳歌する森を見詰めて言いました。
「それとも、永久の冬の宮で、悲劇の騎士と酒でも酌み交わせと?」
御遠慮しよう、と、銃士は肩を竦めます。
「貴殿があの男と共にしている寝台に、まさか俺まで加われと申すのではあるまいな?」
びくりと、肩を震わせ、女神はフルフルと首を左右に振りました。
小さな生き物が酷い仕打ちを受けて怯えているように、哀れを誘うその仕草にも、銃士の紫水晶の瞳は一切、向こうとしません。
「ならば、時を止めた夏の街に居座る道化、あの軍師と人形遊びでもしろと?」
「私は」
桜色の潤んだ唇から、鈴の鳴るような音が必死に振り絞られます。
「私は、ただ、貴方があまりに他の誰とも接する事がないので……」
「では聞こう、接してどうなる?」
ピシャリとした言葉に、女神は声を失いました。
幾ばくかの沈黙があり、かさこそと、風に攫われる金の葉が噎ぶ音が響きます。
金色の葉屋根から所々に透ける空は痛いほどの青で、そこに吸い込まれる金の葉の末路には、気の狂うような悲愴があるように思われました。
「これから、戦が始まります」
ようやくと、女神は声を振り絞りました。
「長く、辛く、勝ち目の果てしなく薄い戦いとなるでしょう」
だから、と女神は呟きます。
「だから、せめて、共に戦う人々と幾ばくかの幸福な時を」
「傑作だな!」
その瞬間、金の葉の噎ぶ声を掻き消すような、盛大な哄笑が響き渡りました。
硬直する女神の前で、銃士は切株に座ったまま腹を抱えて、その美貌を歪め笑い続けます。
そうして、いかほどか、ようやくと満足するまで笑い終えると、涙すら滲んだ目元を指先で拭いながら女神に視線を向けました。
白い肌に、息も耐えるほどの哄笑によって朱が差していました。鮮烈なアメジストの瞳は潤み、ゆっくりと瞬くと一滴、すぅと涙が伝います。
黒い黒い、夜よりも、烏の羽よりも黒い射干玉の髪を、雑に耳に掛け直す仕草。
そうして吐息を漏らして息を整える様は、もし、ここに純粋な少女の一人でもあれば頬を染めたことでしょう。
けれど、それも数秒のこと。
艶めかしく麗しい銃士の顔には、次の時には、これ以上ないほどの嘲りの感情が浮かびました。
「貴様が、それを言うのか」
そう言って、銃士は立ち上がりました。
怯えたように身を震わせる女神に構わず、黒い篭手を嵌めた手、その片手が、芝居掛かって見えるほど仰々しく天を仰ぎます。
「幸福?幸福な時を、と、貴殿が仰るか、女神よ」
嗤い、銃士は小首を傾げました。
「大切な、共に肩を並べる人々と、共にあれ、と?彼等と共に食卓を囲み、葡萄酒を飲み、談笑し、その後には暖炉の前でボードゲームをして、勝って、負けて、言い合いをして、笑い合って、やがて愛しい相手と共にベッドに入って、甘い言葉を交わし合いながら眠れと?そんな、月並みで平和な、愛おしい愛おしい、幸福な時を、と……」
銃士は、再び小さく肩を震わせて笑います。
「お前が、俺から奪ったのに」
女神の肩が、跳ねました。
「俺の兄弟を返せ」
銃士は嘆きます。
「俺の部下達を返せ」
震える女神に向け、皮肉げに微笑んで。
悠然と立ちながら、その喉からは絶望を煮詰めたような呪詛の如き嘆きが零れていました。
「俺の愛しい花嫁を、返せ」
帝歴一八五〇年。
世界を七度滅ぼせる特大の魔法兵器を発動せんとした大魔導士を破った、帝都銃士隊長、アリスティド。
腹心の部下を喪い、尊敬する師を喪い、数多の苦難の末に、ようやくと世界を救った青年。
彼は、婚約者との結婚の日、突如として名も知れぬ病に倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。
「俺は、顔も知らない、名前も知らない、どこのどいつとも知れぬ誰かの為に、戦ったんじゃない」
銃士隊長は、嘲りの表情を浮かべたまま、血を吐くように嘆きます。
「俺は、弟と妹の為に明日が欲しかった。部下達を見捨てて逃げる事なんて出来なかった。恩師の思いを、夢のまま終わりにしたくなかった」
女神に向けるように延ばされた手は、何かを求めるように、宙を掻きました。
「愛しい我が恋人……、彼女の隣にいられる未来が、欲しくてたまらなかった……」
その為に走り続けたのでした。
その為に、何度も、何度も、いっそ死んでしまいたいほどの苦痛も、苦悩も、絶望も挫折も乗り越えて。
世界を守る為ではなく。
ただ、愛しい人達の明日を手に入れる為に。
希望を失わぬ無垢の英雄ではなく。
生まれついての高潔な騎士でもなく。
一人に尽くす天才的な軍師でもなく。
この青年は、ただの青年だったのです。
人より優れてはいても、世界を救おうなどと考えはしない、手の届く範囲のものだけを大切に抱えていた、真摯で、謙虚な。
しかし、そうして身の丈に見合うささやかな幸福を愛したからこそ。
およそ身の丈に余り過ぎる偉業に手を伸ばし、掴み取った青年なのです。
高尚な理由も、壮大な目的もいらない。
ただ、ささやかな、愛しい人達と生きる未来さえ、その背中にあれば。
それだけで、世界すら救ってみせた、ひたむきで、真摯で、実直な人間だったのです。
たった一粒の幸福さえ信じていられるのなら、その強い意志の宿った手は、どんな奇跡も射抜く事が出来たのです。
それこそが、稀代の銃士隊長、帝国の至宝。
来る日に備え、一等輝く時に女神が切り取り、保存した、勇者の魂。
しかし、だからこそ。
「ようやくと手に入れたはずの未来を、鼻先で奪った貴様が、俺にささやかな幸福を説くと言うのか?」
勇者は哄笑しました。
震えて蒼白になる女神を見て、涙すら滲ませるほど、愉快げに哄笑しました。
誰より未来を願った勇者は。
必死に呼び掛ける花嫁の腕の中で。
なぜ、どうして、なぜ、と。
たった、あとたった一歩すらない距離で、届かない未来に絶望しながら。
どうか、君だけは幸せに、と。
ただ最期に、一言、泣きじゃくる愛しい人の頬を撫でてやることすらできないまま。
ぶつりと、魂を、引き千切られたのでした。
「貴様に俺の無念が分かるか、分かってなるものか」
泣き叫ぶ事すらできない深い深い絶望。
保存された勇者の輝ける魂は、しかし、保存された瞬間に砕け、目覚めた時には粉々でした。
もはや勇者足りえない絶望が、彼を嗤わせていました。
深い深い世界全てへの怨念と嫌悪を込めた嘲笑だけが、今の彼に残っているものでした。
「私は……」
女神はそこに口を開いている絶望に、震えて身動きひとつできません。
自分が成した事の残酷さそのものが、そこに麗しい青年の形を取って立っていました。
「泣き喚きたいのなら、あの冬の宮の騎士の寝台にでも逃げ込むが良いだろう」
口角を釣り上げ、銃士は嗤います。
「あるいは常春の少年の純真な思慕で、女神たる矜持を満たすも良い。久遠の夏の街で、軍師にぬるい叱責を貰って免罪符とするも自由だ」
だが、とその声は微かに甘く、艶やかに揺れました。
「俺が貴様を愛することは永劫にない」
そうして、銃士は女神に背を向けると、森の中へと歩み出しました。
「ああ、良かろう。時には他所にも顔を出そう。戦えと言うのなら、〝神様〟とすら戦ってやろうとも」
振り返らぬまま、遠ざかる銃士は甘い声で語ります。
「だが、俺は、貴様の勇者には、ならない」
女神はその場にくず折れるように座り込み、両手で顔を覆いました。
やがて金の森に銃士の姿が消えても、動くことはできませんでした。
知っていたのです。
あの青年が、あの銃士が、どのような性質の勇者かなんて、知っていたのです。
一等輝く時に保存してしまえば、きっと、目覚める時には勇者足りえないと、予想など出来ていました。
そして、ならば他に保存すべき勇者を見付ける事も、さして困難でもなかったのです。
たとえば、常春の庭の少年の父親もまた、偉大な勇者でした。
たとえば、冬の宮の騎士の臣下にもまた、素晴らしい勇者がありました。
たとえば、夏の街の軍師の主など、勇者の中の勇者でした。
それでも、女神は、あの銃士を選んだのです。
あの麗しい銃士が、欲しかったのです。
あの花嫁、たかが人間の女になど、渡したくなかったのです。
「……アリスティド……あなたを、愛しているのに……」
女神は泣き声に、それでも隠しきれない甘さを込めて囁きました。
来る日の為にと勇者の魂を保存する時、そこには、勇者たる事の他に、確かに理由があったのです。
「ああ、私は、なんて身勝手な……」
そんな事は百も承知で犯した罪でした。
そんな事は百も承知で、女神は勇者達に、それぞれ、残酷な選定の基準を当てたのです。
盲目に尽くし、矜持を満たしてくれる、かわいい無知な少年。
罪を許し、叶わぬ想いの捌け口にもなる、麗しい男。
歪んだ選定基準を悟り、その辻褄を合わせんとする、賢明な軍師。
世界などどうでもよくて、ただ、欲しかった、愛しい男。
この箱庭は、我が儘な女神の自己愛で出来ているのです。
それを誰より知って、あの銃士は嗤い続けているのです。
歪んだ自己愛を晒し続け、羞恥と罪悪感に苛まれながらも、世界再興などという大義名分を前に、今更後戻りなどできない、滑稽で無様な女神。
あの銃士は、だからこそ、壊れてなお勇者の真似をして戦うことを肯定しているのです。
その嫌悪故に、無様で滑稽な女神の箱庭に、甘んじて存在しているのです。
決してお前の物にはならぬと。
我が儘な女神が欲し、奪い。
されど、決して手に入れられない存在として。
高笑いしながら、歪んだ箱庭で、女神の懊悩を見物しているのです。
〝神〟を殺す禁忌の戦。
壊れた勇者にとって。
その戦いは、希望の為の救済ではなく。
その戦いは、絶望故の、復讐で。
この箱庭は、世界の最後の希望ではなく。
この箱庭は、醜悪な最後の幻想なのです。




