勇者の諦観
「おや、珍しい」
仮面の青年は、肩を竦めました。
「ようこそ、女神様。こんな辺鄙な場所に、何か御用かな?」
スラリとした長身に、琥珀色の髪。
顔を覆う鉄の仮面を兜として、右肩にのみ世界の東の端の国の縅、胸には革の胸当て。
穿いた剣も極東の意匠でありながら、羽織った外套は、西の騎士達の纏う物でした。
奇妙な戦装束に身を包んだ青年は、ひとりの住人もない無人の街の中、置き去られた人形劇の台車の前、ベンチに座っています。
世界の残滓。女神が繋ぎとめる最後の箱庭の隅。宮殿に沿って存在する、唯一の無人の街。
「あまり此処には長居しない方が良いでござーるよ」
ケラケラと、明るい調子で青年は言いました。
「暑いし、あまり眺めも良くない」
仮面の向こうの瞳は、台車の向こうを見詰めます。
そこに、〝終わり〟が見えていました。
スッパリと、台車の向こう、煉瓦の家々の背後には、虚無が広がっています。
夕焼けが広がる、常夏の街。
そこが、この箱庭の終点でした。
〝終わり〟が迫るように口を開いている場所で、青年は鼻歌混じりに立ち上がりました。
車輪の付いた台の上。
放置された人形達と、人形達の為のおもちゃの杖、おもちゃの家具、おもちゃの食事。
誰もいない、おもちゃのような無人の街で、奇妙な装束の青年は、無造作に一体の人形を掴み起こします。
遠くで蝉が鳴いていました。
カナカナカナカナ……と、夕暮れを、夏の終わりを告げる音。
しかし、この箱庭の終点には、もはや夜も来なければ、夏が終わる事もないのです。
ただ、そこに口を開いている〝終わり〟がこの箱庭そのものを飲み込むのを、待つだけ。
それまで蝉は終わる事も出来ずに鳴き続けるのでしょう。
数日、数ヶ月、数年、あるいは数百年後かもわからない、いつかが、来るまで。
「女神様、人形劇はお好きかな?」
青年は、僅かに傷んだ人形の操り糸を取り、器用にお辞儀させました。
それは、若い騎士の人形でした。
そうしてもう片手で、幾つもある背景用の木枠を探りました。やがて青空と、緑の芝が象られた枠を見付けると、台車の天板に備えられた溝に嵌め込み、人形の背後に立てます。
「〝これなるは、在りし日の高貴なる御方の物語〟」
仮面越しに、少しくぐもっている声が街に響いて。
「うーん?ちょっと、これは芝居としては良くないでござるねぇ」
青年はそう言うと、片手で仮面を外し、台車の隅に置きました。
「では、改めて」
遮るものなく、明瞭に響いたのは青銅の声でした。
青銅を打ったような、あまりに清々しく、深く、麗しい音。
「〝これなるは、在りし日の高貴なる御方の物語〟」
今度こそ朗々と響き渡る芝居文句は、誰もいない無人の街に、これ以上ないほど麗しい音を齎します。
「〝乱世の終焉、偉大なる公国歴元年に至る、かの統一大公の物語である〟」
右に青、左に金。
左右で異なる瞳をした、琥珀色の髪の美しい青年。
彼は楽しげに微笑み、誰もいない街に、さも多くの人々が行き交っているかのような仕草で、辺りを見回します。
「〝さあ、瞳を輝かせた童達、座してとくと聞くが良い!さあ、そこを行く大人達よ、暫しその足を止めて冒険に出よう!〟」
そうして、その瞳は正面に立つ女神に向けられました。
「〝さぁ、天の女神も御照覧あれ!戦乱の時代を終わらせ、麗しき平和の時代を開いた、大公の物語を!〟」
器用に人形を操り、青銅の声は朗々と、一人の大公の物語を語り上げます。
暗黒時代とも呼ばれる、ひたすらの戦乱の時代。
世界から希望と信仰が失われ、信仰を源としていた魔法の力が枯れ始めて。
精霊が消え、妖精が死に、魔物達すら影を潜めた時代。
何の外敵も無いまま、世界が急速に萎み、自ら瓦解しようとしていた時代。
その時代を終わらせた、一人の公王。
若き大公は、数多の合戦を勝ち抜き、多くの盟約を結び、遂に、群雄割拠する地を統一したのでした。
後に統一大公と呼ばれる、その公王の物語を、青銅の声は語り上げます。
大公を示す騎士の人形は、数多の戦を乗り越え、数多の出会いと別れを繰り返し。
やがて、終わりに辿り着きました。
「〝嗚呼、戴冠の時は来た!遂に、我が麗しの王に、天も地も、世界の全てが託される時が!〟」
背景の木枠は、純白の聖堂に変わっていました。
その中央で、舞台の上座、光降るステンドグラスに向かい、跪く大公の人形。
そうして、その背後には、道化の人形が恭しく控えていました。
その物語の間中、ずっと、ずっと、大公と共にあった、道化。
右手で大公を操る仮面の青年は、器用に、左手のみで道化を踊らせます。
「〝嗚呼!我が大公!我が唯一無二の、愛しい主!〟」
青銅の声は蕩けそうに甘く、そう囁き。
「〝貴方の救った世界に、どうか、幸あれ!〟」
そこで、パタリと、途切れました。
踊り続けていた道化の人形は、そこで、プツリと、息絶えました。
最後まで、戴冠する王を見詰めながら。
その王へ向けて、忠誠を誓うように、膝から崩れ落ちて。
「〝これなるは、在りし日の高貴なる御方の物語〟」
ことりと、背景を倒しながら、青銅の声は万感を込めて響きます。
「〝天も地も、遠き御座に在ります女神すらも、心に刻むが良い!〟」
二色の瞳は、誰もいない世界を見回し、けれどそこに幾億万もの人々を見るように瞬いて。
「これなるは、在りし日の我が主の物語!さぁ、人も神も、天も地も、万物は見よ、聞け!そして魂まで刻むが良い!我が大公の、輝かしき物語を!」
そうして、青年は人形をそっと放し、優雅に胸元に手を当てて一礼しました。
「お気に召したかな?」
愉快そうに笑って、青年は再び仮面を被ります。
「拙者、頑張ったのだけれど」
「貴方は」
女神は、桜色の唇から鈴の鳴るような細い声を漏らしました。
「貴方は、あの日の死を、私の所業を……」
「それ以上は、言わない方が良いのではないかな?」
青年は女神の声を遮り、軽い仕草で台車に腰掛けます。
ギシリ、と、台車が軋み、女神は、ビクリと肩を揺らしました。
「女神、俺はあの冬の宮の騎士様とは違う」
再び仮面を外し、青年は静かに女神を見詰めます。
「あるいは、あの常春の庭の坊ちゃんともね」
足を組み、静かに、青年は言いました。
「俺は彼等のような勇者じゃない。彼等のような、輝かしい救世の勇者では、ないんだ」
自らの胸に片手を当て、麗しい男は言い切ります。
「俺は軍師だ。ただひとりの主の為に、二百の盟約を成立させ、百の砦を守り、五百の怨敵をあらゆる手段を用いて排除した、軍師だ」
かつて世界を統一に導いた大軍師は、立ち竦む女神を見据えて。
「謀将、ライムント。俺は、あの二人のように世界を守った勇者じゃない。俺はただ、愛しい我が主の為に、我が主が求めた平和な世の為に、あの日々を駆け抜けただけに過ぎない」
ならば、と、軍師は言いました。
「俺は、あの竜殺しの坊ちゃんのように無知で、無垢で、無邪気ではない」
ならば、と、軍師は続けます。
「俺は、あの悲劇の騎士王子のように、高潔で、優しく、寛容ではない」
かつて、愛しい主の戴冠の日。
急に鼓動を止めた己の心臓をキツく片腕で押しながら。
「俺は、あの方を……我が愛おしい戦友、我が主を、見届けたかった」
青銅の声持つ稀代の軍師は、女神に鋭く告げました。
「君が尋ねたいことなど、訊くまでもないだろう。それでも問うと言うならば、君は相応の返答を覚悟した方が良い」
女神は打ち据えられたようにヨロヨロと後ずさります。
「……ええ」
震える声で、女神は頷きました。
涙を堪えるようにキツく胸元を握り締め、頷きました。
「……その通りです。私は、優しい嘘を、甘い答えを欲したのでしょう……」
「……冬の宮の騎士様の所に行くといい」
ふっと表情を緩め、軍師は優しく言いました。
「あの人は本当に、お人好しだ。俺は、甘えることは否定しない」
「……でも」
女神は、しかし、と小さく呟きます。
「……彼はあまりに善良です。善良であればこそ……常春の庭の少年を気遣っています。だから……本当は、彼は、少年の思いを裏切るような関係を、良しとは、思っていないのではと……。私は……」
「大丈夫だよ、あの手の人間は」
軍師は少し寂しそうに言いました。
「あの手の生まれ付きの王様はさ、寄り掛かられて、溺れられて。板挟みになって自分が一番損をする役回りになっていると知っていて。それでも、それがあるからこそ、立っていられるんだ」
かわいそうな、かわいい生き物さ、と。
懐かしそうに、軍師は微笑みます。
「……まぁ、傍から見たら痛々しいが。でも本人達は、本当に心底、それで良いんだって思ってるのさ。自分か耐えれば他が楽をできるならって、笑いながら他人に何もかもあげちゃって、ボロボロになって、心底幸せになって満足してるから救えない」
だから一緒にいてやりたかった、と。
軍師は首を左右に振りました。
「あの騎士様が、万一に、君と竜退治との板挟みに耐えかねて壊れかけたら、きっと、俺は、あの騎士様を万策尽くして支えるよ。……懐かしい誰かさんと似てるから、見てられない」
だから君は安心して甘えるといい、と。
軍師は儚く笑うのです。
「……それに、俺は貴女に恩義を感じてもいる」
目を見開く女神に、台車から降りた軍師は、恭しく跪きました。
「かつて我が主が救った世界、我が主が愛した世界」
青銅の声をした忠臣は、女神の前で深々と頭を垂れます。
「いま一度、この剣に守る機会を与えて下さった事、感謝致します」
麗しい、忠誠の勇者。
ただひとりの主の為に、幾百、幾千、幾万もの苦難を乗り越えた果て、世界すら救った軍師。
決して絶える事ない、忠誠の誓い。
それこそが、世界を一つにした大公の最強の剣、最高の盾、大公国の、至宝。
女神が来る日に備え、一等輝く時に連れ去って保存した、勇者の魂。
かつて主の元から一方的に連れ去られた事を憎みながら。
それでも、その魂は、ただ主の愛した世界を再び守れるという事を、良しと言うのです。
「貴方は、ここに長居せずとも良い」
勇者は微笑んで女神を見上げました。
「大丈夫。〝終わり〟は、この私が、ここで睨み続けていよう」
「……貴方は」
女神は首を振って、その先の言葉を飲み込みました。
ただ心の中で、再び仮面を被る勇者を、讃えます。
たとえ、彼自身が何と言おうとも。
やはりその魂は、他の勇者達と寸分も劣らず変わらず、勇者でしか有り得ないのだ、と。
女神は、静かに目を伏せ、勇者に背を向けました。
いつとも知らぬ果ての日まで鳴き続ける蝉の声から逃げるように、女神は立ち去ります。
なぜ、あの勇者の主は、ここに、いないのか。
最高の軍師を失ってなお、巨大な統一国家を生涯纏め続けた、偉大なる統一大公。
自らの軍師に匹敵するほどには、己自身も勇者であったはずの、大公。
なぜ、彼の大公は、ここに、いないのか。
そう、忠誠の勇者は、そこに忠誠の主がいる限り、きっと他の勇者には……あの騎士王子には、目もくれないでしょう。
いつか己の所業に苦しめられる日が来ることを、女神は予見していたのです。
いつか縋り付き、溺れる先を求める事を、予見していたのです。
その女神が選び、保存した勇者達の魂こそが、彼等なのです。
偉大なる軍師ならば、気付いているのでしょう。
長く、長かった世界の歴史の中、数多生まれた勇者達の中で。
女神がなぜ、いま、この箱庭で目覚めた勇者達を保存したのか。
そこに、勇者足り得る以外に、一体どんな理由があったのか。
なぜ、勇者足り得るはずの大公がいないのか。
……それでも、軍師は〝終わり〟を睨む事を、この箱庭で戦う駒となることを、引き受けたのです。
「ああ……かわいそうなライムント……」
女神の呟きは、無人の街の、誰の耳にも入りません。
「貴方も、また、かわいい、かわいそうな、勇者なのですね……」
勇者とは、与え続け、奪う事を知らない、あわれないきものなのだと。
七日で死ねぬ蝉達が、囁いているようでした。




