永日さえも昏れる
眠る噴水のすぐ側に、美しい女神が在りました。
まろりとした天鵞絨のような黒の中に、ぽつり、ぽつりと真白い星が瞬く夜。
世界の残滓、〝終わった世界〟の歪な破片を継ぎ接ぎして創られた歪な箱庭は、遂に終焉を迎えようとしていました。
様々な時間を繋ぎ合わせていた宮殿は、今ようやく、全て夜に塗り潰されています。
僅かに存在していた善き人々は眠りに着き、そして全て、首を落とされて死にました。
残ったのは、箱庭の主である美しい女神様と、静かに眠る麗しい銃士。
そして、血塗れの少年がひとりでした。
少年が静かに見詰める先、女神は芝の上に座り込み、膝に乗せた銃士の頭を撫でていました。
「愛しい私のアリスティド」
初めて愛し合った恋人を呼ぶような、恥ずかしげで奥ゆかしく、けれど愛しさや高揚、期待を隠し切れない声音で、女神は吐息を零します。
「私のもの、やっと、やっと私のアリスティド……」
白い頬を撫でて、ふふ、と子供のように愛らしく、女神は笑います。
「私の勝ちです。花嫁になれなかったあの女じゃなくて、私の勝ちです。ね、そうでしょう、アリスティド、目覚めたら、貴方は私を愛してくれるのですから」
ふふ、と鈴を転がすような声で、潤んだ桜色の唇で、女神は愛らしく笑います。
「たくさん、たくさん私と愛し合って……。あの女にしたように。あんな人間の女なんかにしたよりも。もっと、もっと私を、激しく、優しく、深く愛して」
うっとりと、初恋の相手を見詰める乙女のような視線を向ける女神に、眠る銃士は答えません。
「女神様」
少年は、ゆっくりと、二人の方へと歩み寄ります。
「女神様」
その声に、女神はちらりと一瞥を向けました。
「何でしょう?」
「女神様、約束だから、一つだけ、俺の願い、きいて」
少年は、微笑みました。
泣きそうな、優しい微笑みでした。
「……ええ、そうでしたね、もちろんです」
女神は微笑んで少年を見上げます。
「ありがとう、ラルフ。私のために、嫌な役回りをさせてしまいました……」
でも、と女神は祈るように両手を合わせ、優しく微笑んで。
「貴方のおかげで、きっと私とこの人で、幸せに暮らしていけます」
「……うん」
少年は、銃士を見て小さく頷きました。
「にーちゃんはさ、優しいから、誰かが生きてたら、ここを捨ててどっかに行けないと思うんだ」
「ええ、そうですね。優しくて愛しくて、素敵な私の恋人……」
女神は再びはにかんで銃士を見下ろします。
その間に、それでね、と少年は視線を女神に移しました。
二人の視線は、重なりません。
かつて常春の緑と温かな風に包まれた庭。
今は真夜中、走り回るふくふくとした栗鼠や兎の気配もなく、噴水の水さえも眠りに着いた空間。
「女神様、俺の最後のお願い」
少年は、片手を差し出しました。
「女神様、俺、貴方を」
「ラルフ」
その言葉を遮るように、女神は視線を上げて微笑みます。
「ああ、ラルフ、かわいい私のラルフ」
いつの間にか、女神は少年の前に立っていました。
「ラルフ、私の為に戦ってくれた優しい勇者様」
女神の頬を涙が伝い、その手はそっと少年の背に回されます。
ほっそりとして、けれど柔らかな女性の腕が、少年をそっと抱き締めました。
「ラルフ、ラルフ、ありがとう、そしてごめんなさい」
健気に、罪悪感と悲しみで震える声が、小さく少年の耳元で囁きました。
「私、貴方が望むなら……最後に、何でもしてあげたいのです。でも……」
少し震える、けれどいじらしくも精一杯に優しい声音が囁いて。
少年は、ぎゅっと、その華奢で柔らかい体を抱き返しました。
「でも、かわいいラルフ、私は貴方のことを、弟のように愛していました」
その囁きと共に柔らかな頬を寄せられた少年は、少し間を置いてから、うん、と呟きました。
「うん。……でも、ごめん、女神様。俺、女神様のこと」
「ラルフ……ええ、貴方が私を愛していたのも、知っていました……。だから私も、騎士様を亡くして貴方が悲しんでいた時……恋人として愛せば、慰めてあげられるのではないかと思ったのです……」
少年の声を遮るように、ごめんなさい、と女神は嗚咽を漏らして、美しい鈴を転がすような声音で懺悔します。
「ああ、なんて愚かな私だったのでしょう。本当にごめんなさい。私も貴方を愛していたのは本当なのです。けれど、私の愛は、貴方の愛とはちがいました。私の愛、そして恋は、やっぱりあの人のものだったのです。わがままで愚かな私を責めても構いません、ごめんなさい、ごめんなさい、かわいいラルフ、愛しい、私の弟……」
「女神様……、ううん、俺は女神様を責めないよ」
「ああ、貴方は優し過ぎるのです。かわいいラルフ、愛しいラルフ。私の、私なんかを、こんな私を、そんなに私を愛してくれるなんて……」
少年の声を止めるように、少年の唇を撫でて涙を零しながら目を閉じる女神の手を、少年は、そっと掴みました。
「女神様を、責めるわけじゃないんだ。俺は、ずっとずっと、女神様のこと、大好きだよ」
小さく微笑んだ、その声は、震えることすらなく。
「でも、ごめん。俺と死んで」
びちゃりと、赤い飛沫が飛び散りました。
「ォ゛」
蛙の潰れるような鈍い喘鳴を漏らし、女神の目が見開いた時には、その背中に二本の剣が突き刺さっていました。
そうしてその剣先は女神の体を貫通し、抱き合う少年の腹にまでも食い込むや、次の瞬間には、更に少年の背中まで貫通します。
かつて女神自身が若草の勇者に授けた救世の剣。
世界に仇成すもの全てを貫く、神罰の代行たる絶世の双剣でした。
その双剣が、少年の魔法によって、無防備に少年と抱き合っていた女神を背後から、少年自身ごと貫いたのです。
「な、に……?」
呆然と呟き、何かを確認するような1拍。
そして次の瞬間、その剣が決して抜けない強い魔法を帯びていると気付いた女神は、耳をつんざくような悲鳴を上げて少年を突き飛ばそうとしました。
「あ、あぁあぁああぁあ!いたイいたいィたいいたいいたいいタいいたいイタいたぁあいたイイたい痛いいたぁあまァいたいイタイいたあいいたいいタ」
半狂乱の女神の叫びが庭中に響くと同時、その魔法がフワリと剣を包みます。
「ぬいて抜いていたい抜いてよぬイてぬいて抜いて抜いぁてぬいてヌいてってばいたい抜いてぬィてぬいて抜いきなさいぬいて痛いぬいァてぬいてください抜いぬいぁて抜いてイタイ抜いてよぬイてぬいて抜いぁてぬいてイタイいぁたいあ抜い下さいぬいてヌいて」
世界が〝終わって〟なお、女神は女神です。
本来ならば、人間が魔法により刺突した剣如きでは、致命傷を与え得るものではありません。
しかし、今、この時は、違っていました。
抜ける気配の無い剣、癒える気配のない体、消えぬ痛みと苦痛は、明白に、それが女神を殺し得る一撃であると示していました。
故に、女神は一瞬にして混乱し、絶望し、憤怒し、怯えて絶叫します。
ごぼり、と。
その桜色の唇を塗り潰すように、鮮血が溢れ出し、鈴を転がすような声はやがて断末魔の如く、再び蛙のような潰れた喘鳴に変じて。
「ぁ゛あ゛ア゛ぁ゛ぁ゛ァ゛あ゛ァ゛あ゛ぁ゛あ゛ァ゛あ゛あ゛ァ゛ァ゛あ゛い、だい゛い゛ぃ゛い゛い゛い゛ィ゛ィ゛い゛い゛い゛ぃ゛い゛!!な、で……、ど、し、で……、どうしで……!?こんな゛、よわい゛、に゛んげんが、あ゛ァ゛あ゛ぁ゛あ゛……!?」
その喘鳴に、クスクスと何処からか笑い声が応じました。
クスクス、クスクスと。
それはうら若い少女のような笑いに始まり、やがて無数の人々が何かを囁く漣のような気配に変わります。
いつの間にか、ずるり、と。
少年の足元の影から、それは現れていました。
「俺は確かに弱い勇者なんだ、女神様」
少年が、泣きそうな顔で笑います。
女神を抱き締めたまま、その視線は周囲を見回しました。
「俺、たぶん、本来なら、騎士のにーちゃんや、軍師のにーちゃん、銃士のにーちゃんなんかと一緒に、ここに呼ばれるような勇者じゃないだろ?」
それは自分で分かっていたと、少年は笑います。
「まあ、それでもさ、アンタの為なら本気で神様だってやっつけてやる気だったし、もう1回くらい世界をサクッと救う気だったんだけど……でもさ」
自分が勇者になれたのは、とその声は優しく、誇らしげに、続けました。
「一緒に戦ってくれた奴等が、たくさんいたんだ」
その声を聞くものは、女神の他、悍ましい獣のみでした。
無数の人の顔が融け合い、そして溶けて剥がれ落ち続ける獣のみでした。
かつて地下に現れた通路で、竜退治の少年の心を折り、騎士を食い殺した化物が、そこにいました。
しかし、今、その溶けて崩れた顔達は、かつてのように苦痛に塗りつぶされて嘔吐し発狂し続けるだけの肉痕ではなく。
明確に、意志を持って、女神と少年を見ていました。
『そのバカには最年少宮廷魔法使いが付いてんのよ、舐めないで頂戴』
うら若い少女の顔が、そう言いました。
『ついでに、大賢者の兄もいるんだなぁ』
青年の顔が、そう言いました。
『騎士団長として勇者に最後の助力を』
『いつも結局お前の尻拭いさせられるな』
『小僧の応援ならするしかなかろうて』
『そんなアバズレに負けんじゃないよ、坊や!』
『こんな目に合わされて黙ってられるかよ』
永遠のような長い時間、溶け合い、化物と化していくという、想像を絶する痛み苦しみの拷問を受け続けたはずの、無数の人々の魂が。
「ど、う、し、て、自我を……」
失われたはずの自我を発露した人々に、女神は絶句して、それから、はっと少年を凝視します。
「あ、の騎士……が!」
この獣は、かつて神にも成れたかもしれない騎士を喰った獣だと思い至ったのです。
万民の守護者、あらゆる痛みに安寧を齎す理想の騎士王の、あまりに高潔な魂を、生かしたまま残らず食い散らかした獣であった、と。
その上で、目の前にいたのは若草の勇者でした。
奇跡を起こす、奇跡こそを本質とした、勇者でした。
女神が、自身への無垢な初恋を楔として利用し、その可能性の全てを女神の守護へと向けさせようとしても、なお、魂の本質までは変わってはいなかったのです。
その魂は勇者足り得る輝きのまま曇りなく。
その歩みは世界救済まで決して止まりません。
どれだけ痛め付けられ、何度死ぬほどの苦痛に直面したとしても、この勇者は死ねず、変われず、世界救済のために存在し続けるしないのです。
故に、奇跡は成されました。
万民の守護者、安寧を齎す理想の騎士王、神にも成れたひと。
その血も肉も魂も貪った獣は、ここに救済を得たのです。
そうして安寧を得た魂達は目覚め、眩しい真昼の輝きを放つ若草の勇者のため、それぞれの限界を超える全霊によって、女神を捉えました。
「皆の力を借りたんだ。……でも、皆の力を借りてもさ、それでも、女神様に気付かれたら終わりだったから……、宮殿の人達は、女神様の前で、俺が殺そうって決めて……」
少年は、細く呟きます。
「この宮殿の人達のこと……俺、本当に好きだったんだ。好きなのに、殺したんだ」
ごめんなさい、と。
真夜中の宮殿、もう既にいない善き人々に呟いた少年の、震えることすら自分に許さなかった勇者らしい声を、女神は既に聞いてなどいません。
「あ゛、あ゛あ゛……、あ゛、゛あ゛、゛ぁ゛ぁ゛ァ゛ァ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛ぁ゛ァ゛ァ゛あ゛あ゛」
いつの間にか女神の体は、ブチブチと肉が裂け、変質していく耐え難い音を立てながら、透き通る水晶に変わり始めていました。
「い゛や゛、しに、たぐな゛い、い゛い゛や゛イ゛ヤ゛い゛や゛い゛や゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
再び絶叫が庭に木霊し、女神は再び少年を突き放そうとしましたが、少年は決してその華奢な体を放しません。
「ごめん、女神様、ごめんなさい、ごめん、ごめん、死んでくれ……!」
泣きそうな声で繰り返す少年に、女神は潰れた声で耐え難いほどの罵声と呪詛を吐き続けました。
しかし、やがて、その潰れて死に逝く蛙よりも聞き苦しい絶叫は、次第に弱まり、死にたくないと繰り返す号泣に変わりながら、消えていくのです。
「ごめん、守れなくてごめんなさい、俺やっぱり、世界を、皆を、諦め切れなかったんだ。女神様と、銃士のにーちゃんだけを選べなかったんだ……」
謝り続ける少年の腕の中、全身が透き通った石に変わった女神は、少しの間を置いてパリンと割れました。
安い窓硝子が割れたような、その薄くて微かに曇った破片が周囲に飛び散ります。
真っ赤な、心臓の形をした石だけが、少年の手の中に残りました。
どさり、と。少年は膝から崩れ落ちます。
少年の腹に刺さったままだった双剣は、その瞬間、灰に変わって消えました。
神の授けた絶世の名剣は、かつて竜を殺し、そして今、女神をも殺し、その限界を超え、役目を終えたのです。
げぼ、と。
胃の中身ごと血の塊を吐いた少年は、そのまま、ずるずると、這うようにして動き出しました。
獣は、女神殺しに全ての力を使い切り、音もなく全ての顔の肉片が爛れて腐り落ちていきます。
そうして剥き出しになった骨は、灰に変わって風に流れ去りました。
「に、ちゃ」
少年は、やがて銃士の横に辿り着いて、その頬に触れました。
「にー、ちゃ、こ、れ」
掠れた声に、微かに銃士が身動ぎします。
「こ、れ、さ」
真っ赤な石を、少年は銃士の腹の上に起きました。
「め、がみ、さまの、し、んぞ」
ゼェゼェと虫の息で、聞こえているかも分からない銃士に、それでも懸命に。
「お、れのあに、きと、うるさ、いなか、まのまほう、つかぃが、これな、ら、空に、す、す、める、って……」
だから女神を裏切ってしまった、と。
だから、宮殿の善き人々を殺してしまった、と。
「ぜ、んぶ、まもれな、かった」
ぼろ、と、笑いながら、少年は泣きます。
「お、れ、えらぶ、しか、なく、て……、に、ちゃんと、めが、みさま、だけ、まもる、か……」
女神を材料に、この宮殿の外、もしかするなら〝終わった世界〟が残っているかもしれない〝終わりの向こう側〟へ行くための方法を得るか。
それとも、女神と、銃士だけでも、救うか。
少年は迷って迷って、迷いに迷って。
そして、誰より勇者に相応しい魂は、より多くを、世界救済を望める方を、選び取ったのでした。
無垢な初恋の楔すらも。
世界救済を存在意義とした勇者を、変えることは出来なかったのでした。
「ごめ、な、ごめん、に、ちゃん」
少年は、泣きじゃくって懺悔します。
「に、ちゃんを、えらべなくて、めが、みさまを、えらべ、なくて、きゅうでんの、ひとたち、ころし、て、これだけ、おし、つけて、し、んで」
嗚咽と同時に吐き出した血が芝に散ります。
けれど眠りについた芝は、そよぐことすらありません。
「よわくて、やく、たた、ずで、ごめ、ごめん、んなさい、なにも、おれ、まもりきれなく、て」
ひゅうひゅうと、死にかけの吐息と泣き声でくぐもった、その声に。
「……ちがう」
ぼんやりとした声が答えました。
「ちがう」
ぼんやりと覚醒した銃士が、少年を見上げて、その手を伸ばしていました。
「ご、め、ごめんな、さい」
「お前は役立たずじゃない。みんな知ってる、お前が頑張ってるのは、お前が、一生懸命なのは」
とうとう崩れ落ちる少年の頭を、ぼんやりとしたまま、銃士の手が引き寄せます。
「皆、お前が大好きだよ」
穏やかな声でした。
少年がこれまで聞いたことの無い、穏やかで優しい声でした。
「兄ちゃんが保証してやる、みんな、お前が大好きだって」
ポンポンと撫でられる頭に、少年は、薄れていく意識の中で、ああきっと寝ぼけている、弟や妹だと思っているのだろうと納得します。
「ごめん、にーちゃん、ごめ……」
本物の弟や妹でなくて、と。
声にもせずに、胸の内で呟いた少年に。
「あとは何にも心配ない、ラルフ」
聞こえた言葉に、少年は一度息を詰めました。
「あとは全部、俺がなんとかするから、大丈夫だ」
穏やかな声に、少年はほんのりと笑いました。
穏やかな手が頭を撫でているのを感じながら、目を閉じました。
(ああ、よかった……。兄ちゃんがいて……)
そう思って、安心して。
若草の勇者は、目を閉じます。
「……うん、にーちゃん、よろ、しく……」
世界救済まで立ち止まらない勇者は、そうして、自らの終点を認めました。
やり切ったのだ、と。
役目を終えたのだ、と。
きっと願うべき結末に辿り着けると確信を得た春風のような勇者は、そうして、かつて実の兄と眠った懐かしい我が家を思い出しながら。
そっと目を閉じて、二度と起きる事はありませんでした。




