空冥の澱
夜が、来ていました。
どこまでも、どこまでも続いていた蒼空は無く。
いつまでも、いつまでも明るかった昼間は去り。
天地左右の全てに、夜が来ていました。
歪な箱庭の宮殿。
真っ暗な、夜の宮殿。
銃士は足早に中庭を横切りながら、周囲を見渡します。
「誰かいるか?無事ならば答えてくれ」
よく通る彼の声は中庭を通り、それを囲む回廊を巡って、虚しく散ります。
真っ暗な夜の中、返事はありませんでした。
天鵞絨のようにまろりとした真っ黒な空に月はなく、ただ、ぷつり、ぷつりと針で穴を明けたような白い星が散らばっています。
赤や青や白と、千々に色や大きさ、輝きの強さがあるはずの星は、全て真っ白に、同じ大きさ、同じ強さで、瞬いていました。
夕の紅もなく、灯りの消えるように突如として訪れた闇と同時に、宮殿の人々は眠りに就いていました。
槍を握り締め、立ったまま眠り始めた兵士。
俎から鍋に芋を移す姿勢で目を閉じた乙女。
座って犬を撫でたまま、犬と共に眠る老人。
宮殿の中は、突如として時が止まったように。
寝息さえも聞こえず、全ての音が消えています。
銃士だけが、動いていました。
この異様な事態はどうした事かと、足早に。
(竜退治、竜退治は、無事か?)
夕日と朝日を交互に移す回廊の窓も、真っ暗でした。
全ての窓が、塗りつぶした様に真っ暗です。
(俺が起きているということは、他の誰かはともかく、竜退治は起きている可能性が高いはずだ……!)
玉座の間の大窓に映るはずの月は消えています。
覗き込んだその広間に、いつもならば差し込むはずの銀の光はありません。
(……この宮殿中の継ぎ接ぎの時間すら、全て夜になっているということか)
朝日に包まれていたはずの部屋は影に沈んで、なにひとつ、見えませんでした。
手探りで触れた先、並んで調理をする女達は目を閉じていて動きません。
鍋の火も、点ったまま眠り、揺らぎもせず、辺りを照らしもせず。
水も眠り、波紋は生まれた直後の形のまま動きません。
(竜退治は、ここにも、いないのか)
冬の離宮の雪は、降り積もる途中のまま動きません。
冷えた離宮の寝床には、誰もいませんでした。
(春の庭は)
銃士だけが、パタパタと靴音を響かせます。
(ここは、あいつの最初の居場所のはず)
宮殿の石床を蹴った足音は、やがて柔らかな春草の芝の上に至りました。
真っ暗な庭。
月明かりだけがボンヤリと辺りを照らします。
眠ってしまった噴水の前で、銃士は立ち止まりました。
「竜退治、いるか?無事ならば返事をしてくれ」
よく通る彼の声に返事はありません。
(ここにもいないか)
眉を寄せて踵を返そうとした銃士は、そこでふと止まると、次の瞬間には静かに視線だけを真横に移しました。
「嗚呼、アリスティド」
鈴を転がすような甘やかな声と共に、いつの間にかそこに女神が立っています。
「ここに居たのですね、探していたのです」
か細く揺れる儚い声音が健気に喜びを滲ませると、銃士は今度こそ踵を返しました。
「待って、お願い、待って……!」
必死に震える声など聴こえぬかのように立ち去りかける銃士の耳に。
「貴方を助けます!〝神様〟と、話を着けました!」
女神の健気な叫び声は、届きました。
〝神様〟と、話を着けた、と。
その女神の言葉に、銃士は反射的に足を止めました。
(なんだと?)
この女神が今更、何をしたと言うのか。
咄嗟の出任せかと冷たく苛立ちを持って吐き捨てる反面、しかし、突如としてこの宮殿を訪れた夜という異変への警戒心が、かつて歴戦の勇者であった銃士の足を止めたのです。
仮にも女神が留め、維持してきた宮殿。
周囲の空間だけではなく、これまでは如何なる時も維持されて来た宮殿のあちこち、かつての世界の残滓までもが、一律で夜に上書きされたのです。
(……こいつが、何かをした可能性は、高い)
振り向かぬまま立ち止まった銃士の背に、女神の気配は近付いてきます。
「あぁ、あぁ、アリスティド、私のアリスティド……!」
かつて存在した世界中の男のほぼ全てが、思わずと抱き締めたくなるような健気で愛らしい声でした。
愛しい人に自分の全てを懸けて呼び掛ける、必死で、健気で、甘やかに掠れた声。
背中にそっと触れたのは、銃士の厚い外套越しでも、硝子細工のように繊細で、子犬のように柔らかなことがわかる、小さな手の平です。
「私、貴方のために勇気を出して〝神様〟とお話しました。こんな私だけれど、せめて何かお役に立てるなら……」
小さく震える、白く嫋やかで華奢な手は、無言のまま、ぴしゃりと叩き払われました。
「触るな」
吐き捨てた銃士の言葉に、叩き払われた勢いでよろけた女神は、そのまま座り込み、ほろりと瞳から大粒の涙を流します。
「ご、ごめんなさい、わ、わたし、勝手に、ごめんなさい、ごめんなさい、アリスティド……」
声と、細い肩を震わせて謝る女神に、銃士は冷めた視線を向けます。
ひとりと一柱の他、誰もいない真夜中。
しかして、他に誰かあったならば、あまりにいじらしく健気に、震えながら謝る女神の姿には、思わず心を痛めて駆け寄り、銃士の視線から我が身を使って庇った事でしょう。
「ごめんなさい、ごめんなさい、でも、私の、私のお話を、どうか聞いて……!お願いします、貴方を助けたいのです……!だから、どうか、どうか」
「被害者面をして恩着せがましく、奉仕した、尽くしたと薄汚い自己愛と糞のような承認欲求の前置き芝居をしないと死ぬのか?それなら死ね。簡潔に事実だけ述べろ、そして死ね」
銃士の喉から漏れた声には、ありったけの憎悪が滲んでいました。
勇者ならざる憎悪で、絶望の底で粉々の魂を更に砕きながら、銃士はしかし、拳を震えるほど堅く握り締め、銃へと伸びる腕を止めます。
(竜退治は、どうしている?この夜は、なんだ?こいつは、何をやらかした?)
砕けてなお、かつて勇者足りえた魂は危機を感じ取り、庇護すべき人々を案じていました。
銃士は、魂が砕ける程に憎悪した存在の言葉を、魂の砕ける苦痛をさえ抱えて待つのです。
女神は震えながら何度か口をはくはくと動かしました。
桜色の潤んだ唇が音もなく震えます。
投げ付けられた罵倒への恐怖や悲しみを堪え、何とか言葉を紡ごうとするその姿は、あまりに必死で愛らしく見えます。
「わ、わたしは、私、は……」
ぽろぽろと涙を零しながら、女神は両手の指を組み合わせ、かすかに首を縦に振りました。
「ご、ごめんなさい、わたし、私、ちゃんと、必要なことだけ、喋ります、ごめんなさい、私、私、貴方に会えて嬉しくて……だから」
「もう一度だけ言ってやる。簡潔に事実だけを述べろ」
がつん、という物音に、女神は飛び上がりました。
「自分に酔っていたいだけの無意味な芝居に興味はない」
銃士の拳が、銃士の腰帯に吊るされた軍刀を殴り付けた音でした。
地を這うような低い声でした。
「……あの騎士の時のように、竜退治が、貴様のその芝居で手遅れになったなら、死んでも殺してやる、世界が終わろうが、貴様が死を望むほど、生じた事を悔いるほど、狂えないほど、苦しむ方法で殺し続けてやる」
銃士の脳裏に浮かんでいたのは、いつかの騎士の顔でした。
夜明けが好きだと言った騎士の、青い青い瞳。
喰い滓になった、青い青い眼球。
間に合わなかった眼球。
愛しい友の眼球。
この女神が、見捨てた眼球。
汚らわしい塵でも見るような目で見た、眼球。
噛み締め過ぎた奥歯が軋んでいました。
呼吸が荒くなっていました。
かつてはきっと止めてくれただろう軍師。
彼も、もういません。
彼も、この女神が閉じこもっている間に。
空に、溺れて消えてしまったのです。
そう思うほどに、銃士の魂は砕け続けます。
けれど、銃士は再び拳を握り締めました。
「言え、何をした、竜退治はどこにいる!?」
姿の見えない竜退治の少年。
その少年の存在が、銃士を繋ぎ止めていました。
もはや勇者とは言えない憎悪と嫌悪に塗り潰された銃士に、ただ一歩、女神への攻撃を思い留まらせていました。
ただひとり残った勇者。
真昼の太陽のような輝きの少年。
若草の時すら捨てて何かを守ろうとする勇者の魂。
あまりに勇者らしく頼もしく好ましく。
ただ無条件に、弟妹達のように愛しい。
(ああ、俺に、今、残っているのは)
その瞬間、ふと銃士は気付いてしまいました。
(俺は)
絶望の底、何も望んでなどいないけれど。
それでも、たったひとつ。
(あの竜退治まで不幸になるのは、嫌だ)
絶望の底、願いでは、希望ではないけれど。
ただ心底、そう思っていたのだと。
「話せ、お前は、何をした?」
竜退治の少年の元に行かなくてはと、銃士は思いました。
行かなくては、何かが、手遅れになる前に。
そんな予感がして、銃士は、女神を見下ろしました。
そして。
「私と、貴方だけは、〝神様〟に助けて貰える事になりました」
女神は、涙を称えた瞳のまま、健気に、花の蕾が開くような美しく可愛らしい微笑みを浮かべました。
「もちろん貴方は嫌だと言うのはわかっています。でも〝神様〟が、そんな貴方の記憶は上書きして下さると、私を愛する恋人に作り替えて下さると仰ったので、安心して下さい」
長く長く一途に愛し続けた男に、ようやくと抱き締められた無垢な少女のような、恥ずかしげで奥ゆかしくて、仄かな期待に満ちて潤んだ瞳と唇で。
可憐で艶やかに微笑み、女神はうっとりと銃士に手を差し伸べます。
「ああ、最初からこうすれば良かったのですね。貴方が私の恋人になるなら、他なんてどうでも良いくらい、私、貴方を愛しているの……!」
銃士は無言のまま銀の銃を引き抜いていました。
世界を救うほどの戦いの中、培った理性も、勘も、全てが、早急に、少なくとも目の前の存在を始末し、即時で対応すべきであると告げていました。
思考よりも早く、反射の領域で正しい行動を選択した、救世の銃士隊長の動きは。
「アリスティド、銃士のにーちゃん」
響いた少年の声で、刹那だけ止まりました。
「ごめん、俺、にーちゃんには、死んで欲しくない」
血塗れの少年が、女神の向こう、宮殿から中庭に降りて来るのを、視界に捉えたが故に。
「お、まえ」
銃士の声は震え、とうとう、これ以上砕けぬほど、その魂は砕け散りました。
「他の人は竜退治の勇者が殺してくれました。だから貴方は誰も見捨ててはいないのです。だからどうか気に病まないで、私と行きましょう」
初めての逢引に弾む乙女のような女神の声音と同時に何かの魔法が絡み付き、銃士の意識は、とすりと、落ちていきました。




