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女神の箱庭  作者: 空野 氷菓
輝きの割れる時
26/37

凍雲の煽惑


 終わった世界の残滓、歪な箱庭の宮殿。

 その外には、暮れることも明けることも無い、真っ青な空が続いています。


 しかして、がらんと物寂しい玉座の間は夜の闇に包まれていました。


 左右両壁に整然と並んだアーチ型の窓から見える空は、夜更けのそれです。

 玉座の背後にある一等大きな窓から覗いている、丸い丸い銀の月だけが、この空間を照らしていました。


 黄金と真紅の錦で彩られた壇上の玉座に騎士王は亡く、その肘掛を特等の席にした軍師も喪われました。


 その玉座の間には今、ただ紅の絨毯の上、竜退治の少年と、銃士が向き合っているばかりでした。


 「空に漕ぎ出せば、〝神様〟や、残っている〝世界〟が見つかるかもしれないのか」


 少年は呟いて、ぱちりと目を瞬きます。


 銃士から告げられたその朗報に、しかして、少年の心は浮き立つ事も、揺れる事もありませんでした。


 「ああ。だが、その方法に皆目検討が着いていない」


 銃士は腕組みをして立ったまま、視線をアーチ窓の向こう、暗闇に向けます。


 「足下の空に、簡単な筏や紙船を浮かべてみたが、無駄だった」


 それらは足下に広がる空に浮かべようと手を離した瞬間、その空の向こうへ、すとんと落ちていってしまったのだ、と、銃士は言いました。


 「あれは水のような物質ではなく、見た目通り〝空〟のようだ」


 ならばそこに船が浮くことは無く、そこに投げ出されたものは、ただ落ちていくだけです。


 そして、落ちた時にどうなるのかも、まったく未知でした。

 頭上の空の果てが見えぬように、足下の空の底もまた、知れません。


 「あの空を進む必要がある。しかし、進む術が無い」


 銃士は、視線を再び少年に戻しました。


 「何か、お前に考えはないか?」


 「空、か……」


 少年は、そう言いながらじっと銃士を見詰めます。


 (ああ、この人は、やっぱり優しくて、強いんだ)


 騎士も、軍師もいなくなってしまって。

 少年は、日に日に痩せて頼りなくて。


 それでも銃士は、空を睨んで、軍師の意図を読み取り掴んで。

 そうして、次の一手を求めて、少年と共に進もうとしているのだと、少年は心の内側で、それをとても嬉しくて、愛おしく思いました。


 そして、だからこそ。


 『すべき事は分かってるでしょ』


 玉座の間の端、一際暗い隅の方から、声がします。


 『ねぇ、その銃士の為に、アンタが出来る最善の事、分かってるでしょ』


 ぞわ、ぞわ、と、何かが、そこで蠢いていました。


 「ごめん、俺、空を進む方法、思い付かない……」


 少年は、蠢く何かに目を向けないまま微笑みを浮かべて銃士を見上げます。


 「でもさ、もしかしたら、女神様なら、何か知ってるかもしれないだろ?俺、聞いてみるよ」


 「あの女神が今更何かの役に立つものか」


 銃士は微かに眉間に皺を寄せました。

 その目には明らかな憤りや軽蔑が浮かんでいて、けれど、少年から女神に向けられる思いを汲んだように、苦々しい声は、それ以上の言葉を口にはしません。


 それを悟っているから、少年は微笑みました。


 出会った日からずっと。

 愛想が悪くて、少し怖くて。

 それでも、他の二人の勇者達それぞれに決して劣らぬ、この銃士の優しさが、喪った悲しみで魂が砕けてしまうほどに誰かを愛せるこの人が、少年は大好きでした。


 『その銃士の言う通りよ』


 隅で蠢くものが、そう言いました。


 『あの女神は、もう見限ってる。アンタの事も、この気持ちの悪い宮殿に残ってる少しばっかりの人達の事も。今更、〝神様〟への道なんかあったって、戦う気はないでしょ』


 あの日、女神が自分と銃士の安全と引き換えに、全てを放棄すると祈っていたのを聞いてから。


 『それなら、その銃士の為にアンタがすべき事は決まってる』


 少年に囁き続けるその声は、暗闇から今も聞こえ続けています。


 「……お前、体は、大丈夫か?」


 気付くと、銃士は少年を覗き込んでいました。


 「今日も見張りから異常の報告はない。……切り上げて、休め」


 少年を見下ろすその目は、暗闇の方、囁く何かの方を、見向きもしません。


 囁くそれは、あの日以来、少年にだけ見えて、聞こえているのです。


 「……うん、ありがと」


 少年は、小さく頷いて、そっと玉座と銃士に背を向けました。


 ざわり、ざわり、と蠢くものは、視界の端に着いて来ます。


 窓から夜を覗かせる玉座を出ると、そこは夕焼けの光が降る通路でした。


 微かな靴音を立てて、少年は進みます。


 『わかってるくせに』


 視界の端から、声が聞こえました。


 『馬鹿なアンタだって、流石に、もうわかってるでしょ』


 わかっている、と少年は思います。

 わかっているのだ、と。


 自分がどうすべきか、もう少年の中には答えが出ていました。


 女神は、きっと、もう〝神様〟に抗う事はないでしょう。

 そうして女神の加護なくしては、たとえ軍師がその死を持って道を示したとて、もう、この歪な宮殿の人々は、どこにも進む事など出来ないのです。


 既に行き止まりでした。

 行き止まりである事を、少年は知っていました。


 ならば、少年に出来る事は一つです。


 「にーちゃん、きっと怒るだろな」


 呟いた時、少年は自分に降り注ぐ光が、昼のものだと気付きます。


 「あ」


 いつの間にか、そこは昼と夕それぞれを映す窓が交互に並ぶ通路でした。


 「……騎士のにーちゃん」


 かつてここで、ひとり物寂しさと、ほんのりとした畏ろしさに捕らわれた少年を、呼んでくれた人の面影が過ぎります。


 星の歌を聞いた、と。

 悲しくて懐かしくて安堵するような心地に、名前を教えてくれた人でした。


 「騎士のにーちゃんも、たぶん、悲しい顔するんだろうなぁ」


 怒る人ではなかったから、と。

 少年は、静かに笑います。


 そうしてその足は、少しだけ歩調を早めて、その寂しく畏ろしく、静かな通路を抜けました。


 「……軍師のにーちゃんにも、苦い顔されちゃうかなぁ」


 昼と夕とが交互に並ぶ通路の先には、いつか皆で軍議をした部屋に通じる扉がありました。


 その扉を撫でて、少年は一時だけ立ち止まり、目を閉じます。


 「……でも軍師のにーちゃんなら、きっと、怒った後に理解してくれるだろな」


 勇者らしく優しくて誠実で。

 それでも、世界一の軍師らしく、その優しさも誠実さも持ったまま、勝利する為の最良を選べてしまう人だったと、思い出して。


 少年は目を開くと、今度は、その足で更に先へ、早朝の光が溢れている厨房へと、向かいました。


 厨房の中には、今は、誰もいません。


 少年は知らず鼻歌を零しながら、調理台の上、籐籠の中に入っている林檎と、包丁を手に取りました。


 しゃり、しゃり、と。


 赤い皮を不器用に、けれどいつかより、ほんの少し丁寧に、剥いていきます。


 視界の端の何かは沈黙していました。

 少年が決断した事を、正しくその何かは理解しているようでした。


 しゃり、しゃり、と。

 小指ほどの長さに至っては切れてしまう赤い皮の帯を見詰めながら、少年は思い出を辿ります。


 長いようで短い、この宮殿の日々を。

 優しくて楽しい、年嵩の勇者達との日々を。


 それは在りし日の世界で過ごした、多くの仲間や家族との日々に勝るとも劣らない、輝かしい、一等暖かくて甘い香りのする春の日のような、思い出です。



 「……だからさ、俺、やっぱり、殺さないと」



 でこぼこと、不格好に剥けた林檎を見て、少年は笑いました。


 いつか銃士に剥いて貰ったように、素朴で綺麗でもなくて。

 いつか軍師が得意満面で差し出したように、華麗で芸術的でもなくて。

 いつか騎士が少し困った顔で見せたよりも、もっと不格好で残念な。


 それを口に放り込んで、調理台に寄り掛かると、どうしようもなく、懐かしくて愛しくて、悲しくて、たまらないのです。


 「……俺、やっぱり、皆のこと大好きだよ」


 熱のない、朝の光の中で。

 少年は、小さく鼻を鳴らして、目元を袖で拭いました。


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