雲霄に沈む
終わった世界の残滓、女神の留める箱庭の宮殿。
その箱庭が、空に浮かぶ箱舟と化して幾日が過ぎるかを、もはや正しく知り得る術はありませんでした。
天にも地にも、果てしなく晴れ渡った空が続く空間には、およそ、夜も、そして夕も巡って来なかったのです。
どころか太陽すらも、その空にはありませんでした。
終わった世界の残滓を歪に寄せ集めて形作られた女神の宮殿は、元より様々な季節、時間が継ぎ接ぎされていましたが。
太陽もない、ただ青い青いだけの空一面となった空間はなおのこと、時の経過を感じる事が困難でした。
変わらぬ景色、変わらぬ果てしない空を前に、壁にかけられた時計の針が動いたとして、果たして何の意味があるというのでしょう。
時すら喪われた宮殿で、残された善き人々は嘆き、怯えます。
誰より高潔で頼もしかった冬の宮の騎士はとうに消えてしまいました。
誰より賢明な導き手であった仮面の軍師も、空に沈んでいなくなりました。
誰もが呆然と、広がる空を前に、底知れぬ不気味な〝終わり〟を感じていました。
怯えて啜り泣く人の声がかしこから響く廊下を、竜退治の少年は歩いていました。
もう終わりなのだと。
勇者様は逝ってしまわれたと。
騎士を、軍師を、世界の終わりを悼んで泣く人々の声。
その嘆きを、きっと誰よりも優しく、深く、受け止めて背負えたはずの騎士はいません。
その嘆きを、きっと誰より正しく、冷静に、受け止めて言葉を紡げたはずの軍師はいません。
もういないのだ、と少年は思いました。
あの二人はもういないのに、自分が、残っているのだ、と。
それは気の遠くなるような、背筋がひゅぅと冷え込むような、事実でした。
少年はやがて、冬の宮に辿り着きました。
永遠に雪の降り積もり続ける離宮は、かつて騎士が居所と定めた場所で。
今は、女神と少年の居所でした。
「女神様」
少年は離宮の最奥、寝所の扉に手を掛けて呼びかけようとします。
箱庭が箱舟と化して無意味になった時計は、それでも変わらず同じ速度で針を回しています。
そうであるならば、少年は必ず、その針が一周するごとに一度、女神の寝所に訪れ、前の逢瀬から今までにあった事を伝え、嘆く女神を慰めながら眠りにつくのでした。
ただ、その時は、少しだけいつもより訪ずれる時間が早かったのです。
一面の空が広がって以来、〝神様〟の齎す脅威は途絶えていました。
だからその日も、ただ少年は高楼から辺りを見回し、人々を慰めて回る他に出来る事もなく。
せめて、自分ではなく騎士が、軍師が、いたならばと。
呆然と、ふと立ち止まって足元を見つめた時に。
銃士が、その肩を掴んだのです。
そうして、食堂に連れ込むと、焼いたばかりのパンを切り、肉や野菜を挟んで布巾に包み、痩せ続ける少年に手渡したのでした。
よく食べ、そして、良く眠ると良い、と。
ほんのりと温かいパンを手に、少年は、その時、何も言えませんでした。
何も言えないまま、ほら行け、と背中を押す銃士の、その言葉に抗う事も出来ませんでした。
もし抗ってしまえば、この目の前で、自分の為にひどく悲しんでいる優しい人が、果たしてどうなってしまうのか、わからなかったのです。
だから、清潔な布巾に包まれた、暖かな食事を胸に抱えて、少年はいつもより少しだけ早く、寝所に戻ってきました。
しんしんと雪の降る庭に囲まれた離宮の。
寝所の前の廊下は冷え切っていました。
当たりは薄青い空気に包まれていて、静かで、海の底のようでした。
いつもより早い帰宅。
少年の控えめな呼びかけに、女神の答えはありません。
けれど、変わりに扉の向こうから微かに。
甘やかな声が聞こえて来ることに、少年は気付いたのです。
「神様、お父様、あるいは、お兄様」
女神の声でした。
祈るような切実さと、甘く乞うような色が交じり合った、そんな呼び声でした。
「お聞きなのでしょう?ねぇ、もうわかりました、もうあなたに逆らおうなどいたしません」
泣いているような震え声は、そう囁いています。
「何でも、貴方の望む通りにいたします。もう一度、全て捧げてお仕えします」
少年は、その場に佇んで彫像になったように動けなくなりました。
それは女神の祈りでした。
それは、此の箱庭を生んだ女神が、この箱庭の終焉を、神への敗北を認める祈りでした。
「神様、この箱庭の結界も解きました。だからどうか、どうか、お助け下さい。私と、私の愛しいあの銃士だけは、お助け下さい」
「え」
少年の喉から、掠れた、殆ど音にもならない声が漏れました。
(銃士の、にーちゃん……?)
女神が愛したのは、かつてこの冬の宮にいた騎士だと、少年は思っていました。
だからこそ、この宮で女神に仕えながら、いつでも少年の心は、自分を守り死んだ騎士への謝罪と、女神は自分が守り抜くという誓いで埋め尽くされていたのです。
けれど今、扉の向こうで、女神は銃士の延命を祈ったのです。
神に敗北を認めた女神は、自分の命と、そしてたった一人、愛しい銃士の命だけはと祈っていたのです。
(女神様……?)
女神が本当に愛しているのは、誰なのだと、少年は困惑します。
「神様、ねぇ、聞いておられるのでしょう?私と、銃士をお助け下さい。後の者は、この箱庭は、全て貴方の御心のままに、お返しいたします」
女神の泣き声に、少年は呆然と扉を見詰めました。
胸に抱えたほんのりと温かい食事を、そっと、音もなく、抱き直しました。
すべての温度が消えていくような、薄青く静かな冬の宮の廊下で。
少年に、ほんのわずかな熱を与えてくれるのは、胸に抱いたパンだけでした。
(……女神様は、銃士のにーちゃんが好きなのか……?)
少年には、それ以上はわかりません。
かつて冬の宮の騎士が、女神の叶わぬ恋の歪みを引き受けていたことも、それを、少年よりも歳を重ねた他の勇者達が揃って、女神に永遠の初恋を捧げる少年が気付かぬよう、そっと隠していたことも、わかりません。
けれど、わからないまま、それでも、未熟で無垢で、紛うことなく勇者らしい勇者の少年は、受け入れました。
受け入れて、そしてなお、自分のなすべきことは変わらないと結論付けたのです。
(……関係ないや、変わらないから。俺は、女神様が誰を好きでも、女神様を、守らなきゃならないんだ)
騎士が女神を愛していた可能性がある以上は、女神が誰を愛していようとも変わらない、と。
騎士を死なせてしまった自分は、女神を守らねばならない、と。
女神を愛している自分は、女神を守らなければならない、と。
その結果、自分のこの初恋も、他に捧げることが出来たはずの可能性の全ても、報われないまま、たった一つ、女神を守るという目的に消費されるとしても。
それでも守らねば、守りたいと。
一度決めた事を、もはや惑う事無く一途に思えるほどに、少年は勇者でした。
(女神様は、女神様と銃士のにーちゃんだけ、神様に助けて貰おうとしてるのか)
少年は、もう一度、そっとパンを抱き直しました。
(……それも、良いのかもしれない)
もしも、二人だけでも確実に助かるとしたら、と。
少年は、ふと、そう思いました。
(にーちゃんと、女神様だけでも、それで幸せになれるなら)
それを手伝う事が、自分にとって最後に出来る事ではないかと、その瞬間、少年は思ったのです。
かつての少年ならば、決して考える事もなかった可能性でしょう。
かつての若草の勇者、絶望からも希望からも決して逸らされないその瞳ならば、見据えるはずのない未来の選択肢だったでしょう。
きっと始まりの頃ならば。
若草の勇者、常春の庭で神に挑む事を誇らしげに高々と宣言した時の少年ならば。
この宮殿の、善き人々を見捨てる事など、絶対に選びませんでした。
女神も、銃士も、善き人々も、全て守り切って見せると、それだけを見据えたはずでした。
けれど今、少年には楔がありました。
女神がその初恋を、騎士の死を利用して打ち込んだ楔が。
その楔が故に。
若草の勇者は、花の時も実を結ぶ時も過ごさぬまま、ただ女神を守るという目的を果たすため、その未熟さを無理矢理に捨てたのでした。
今や未熟故の輝きは曇り、寂しい諦観と冷静が少年に宿っているのです。
「お助け下さい、神様。私と、あの人だけでも」
女神の涙ながらの訴えを聞きながら、少年は思います。
(女神様とにーちゃんだけでも、助かるなら……。……でもきっと、銃士のにーちゃん、俺や皆を見捨てて自分だけ助かったら、悲しむだろうな)
そういう人なのだと、少年はパンを見下ろしました。
(ちょっと愛想悪いけどさ、でも、ほんとは、面倒見良くて、優しくて、かっこいいんだ)
幸せになって欲しいと、心の底から少年は祈ります。
もう祈る先は、神でも、女神でもないけれど。
それでも、少年は何かに向けて、大事な人の幸せを祈りました。
祈りながら、ではどうすればよいかを、必死に、一途に、懸命に考えました。
(にーちゃんは、きっと、俺や皆がいたら、自分だけ助かっても喜べない)
だから、と。
その瞬間、少年は思ったのです。
以前の少年ならば、決して思いもしなかった、事を。
「……そうだ、俺が皆、殺してから死んじゃえば良いじゃん」
滑り落ちた、殆ど自分にも聞こえないような小さな声。
一瞬の間をおいて、少年は殴られたように目を見開きました。
「あ……」
脳裏に閃いたその考えは、決して、有り得ざるべき思いでした。
あってはならぬ可能性でした。
けれど。
(お、れが……)
一度閃いたその考えは、その瞬間に、もう二度と忘れる事など出来ないくらいにくっきりと、少年の中に焼き付いてしまいました。
(おれが……みんな、ころしちゃえば……)
薄青く、静かで、熱のない深海。
縋るように少年が抱きしめた布巾の中は、静かに、冷たくなり始めていました。




