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女神の箱庭  作者: 空野 氷菓
輝きの割れる時
23/37

碧落に君は亡く


 音もなく、全てが崩れ去っていきました。


 黒い船は、帆が折れ、船体が解れて。

 積み木が崩れるように、静かに、静かに、水面に落ちていきます。


 崩れ落ちる巨大な船を飲み込む水面は。

 しかし不思議と、波ひとつ立てませんでした。


 音もなく。

 すぅ、と、船は崩れ、沈みます。


 そうして、日暮れの中に佇んでいた街も、同じように、ガラガラと無音のまま崩れて沈んでいきました。


 永遠に暮れなずむままであるはずだった夕暮れは、そうして終わりを告げます。


 「晴れていく」


 宮殿の楼閣から、沈む街を見詰めて、竜退治の少年が呟きました。


 がらがらと。

 夕陽を背後にして黒く黒く影と化した船が、街が、沈むと。


 その解けた欠片が落ちた場所から、赤い赤い夕暮の水面は、青く、青く、滲み始めたのです。


 そうして、水面の青を映すように、永劫の黄昏を彷徨うはずであった空も、青が滲み出しました。


 「青い」


 ぽつりと、竜退治の少年は言います。


 「青い、青い……。……青い、空だ」


 船も、街も残りません。


 全てが沈んだ時、宮殿を囲む一面は、天も地も、青く染まっていました。


 「青い」


 銃士は、呆然と辺りを見回します。


 「……青い」


 歪な箱庭。世界の残滓。

 僅かばかりの世界の残り。


 永劫の夕暮れに佇む街は、唐突に〝終わり〟に当たって消えるはずでした。

 そこには、地平が存在しないはずでした。


 そうであったはずなのです。


 ところが。

 その時、〝終わり〟が消えていました。


 見渡す限りの四方に、青が広がったのです。


 天は雲ひとつなく何処までも晴れ渡る青でした。

 地は何処までも青い水面が続いていました。


 天と地の青が交わる水平線が、ありました。


 しかし、その水面をじっと見れば。

 その水面は、海や湖と呼ぶには波もなく、静かで、寂しく、水と言うには、胸が痛むほどに透き通って、底の見えない深い深い青でした。


 それはさながら、足下にもう一面、空が広がっているかのようでした。


 ならば、天の空と地の空とが交じる線は、果たして水平線と呼ぶには至らないでしょう。


 天にも地にも、青い、青い空が、果てしなく広がって、そこに境界線は存在していないのです。


 「どうなっている……?」


 何の物音もしない、ただ空が上下に広がるだけの、広大な空間で。

 ポカリと、空に浮いた島のような宮殿の楼閣。


 「……軍師の、にーちゃんは」


 竜退治の少年の声に、銃士は我に返りました。


 「船は」


 跡形もなく、沈んでいました。


 「街も」


 もはや、そこにはありません。


 ただ広がる、広い広い空の中。

 動くものは、何も、ありません。


 「……軍師」


 船を沈めると言った仮面の軍師は、確かに仕事を果たしたのです。


 しかして、もう二度と戻らないのだと、少年も、銃士もわかっていました。


 青い青い上下の空の中に、あの勇者は、沈んで消えたのです。


 「にーちゃん」


 ゆっくりと、少年が銃士を振り向きました。


 そして、見詰め合ったまま、数秒が、経ちました。


 「……み、んなに」


 やがて、掠れたような声で、少年が言います。


 「報告、しないと……。それで、宝物庫に避難継続か……それとも、一旦、出て貰うか」


 若草の未熟な勇者の声は枯れていました。

 花の時代も、実を結ぶ機会もなく、若草のまま枯れ果てるまで、一息に駆け上がった、声と言葉でした。


 「俺達で、決めなきゃ……、もう、俺達しか、いない、から……」


 もはや泣けぬのだと、銃士は思いました。


 この少年は、もはや泣けぬのです。


 穏やかに、深く。

 少年を慈しんだ懸命な軍師を亡くしても。


 もはや、この少年は泣けぬのです。

 泣かぬのだと、泣けぬ枯れ草まで時を進めるのだと、自らに課してしまったのです。


 未熟故に真っ直ぐな心で。

 真っ直ぐな心で、未熟であることを無理矢理に切り捨てて。


 息が出来ないほど、銃士は、それに頭が白くなる気がしました。


 怒りとも悲しみとも尽きぬ激情でした。


 「……竜退治」


 ボソリと呼び掛けた先に、何と言うべきか知りません。


 この瞬間に、この少年に何と言ってやるべきかをきっと銃士よりもよく知っていたはずの二人の勇者は、もはや、いないのです。


 「……一晩、様子を見る。宝物庫からの避難解除は、その後に判断とすべきだろう」


 かわりに、銃士はそう言いました。

 かつて世界を救った銃士隊長として、刻み込まれた反射で出た言葉です。


 「うん、わかった。そうだね、そうしよう」


 こくり、と頷いた竜退治の少年は、ゆっくりと、楼閣から降りる階段に向かおうとして、銃士の横まで歩いて来ます。


 「俺、女神様と、皆に、そうやって言ってくるよ」


 横を通り過ぎようとする、その腕を、咄嗟に銃士は掴みました。


 ハタと、竜退治の足は止まりました。


 数秒の後、銃士は、ノロノロと少年の頭を数度、撫でました。


 「俺が行く。お前は、少し……、少し、食堂で、なにか、食ってから、来い」


 今朝から何も口にしていないから、と。

 そう呟いて、銃士は楼閣の階段を降ります。


 「……うん」


 ほそく、ほそく、背後で少年が答えました。


 「うん、ありがと、ごめんな、にーちゃん」


 天も地も空に染まった世界で。

 泣けぬまま、少年は、静かにその場に座り込んで、細く微笑みました。


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