神様すらおそれたもの
在りし日の世界は、不可思議に満ちていたのです。
「それは〝奇跡〟と、言われていたよ」
〝神様〟はそう言って、お茶を一口飲みました。
「不治の病が一夜にして全快する、未曾有の大災害にも関わらず一人の死者もない、晴れ渡る空から花の雨が降る……」
そんな、有り得ざる幸運を、人々はかつて〝奇跡〟と呼びました。
「そして〝奇跡〟とは神が起こすものだと。あるいは、神に選ばれた者が起こすもの。いずれにせよ、その多くは〝神の慈悲〟であると、言われていたね」
甘い香りのティーカップの中、琥珀色の水面を見詰めて、〝神様〟は微笑みます。
「ところで〝世界〟には、主人公というものがあってね」
カップを机に起き、〝神様〟は両手を広げてソファーに寄り掛かりました。
「私は〝世界〟に、たくさんの法則、則ちはルールを設定した」
肩を竦めて、遠くを見るように目を細めます。
「星の巡り方や、大地の核の在り方。生命同士の繋がりや、魔の法則」
指折り数えるように呟いて、ふふ、と声を震わせて。
「そして生命は、その法則に気付いて、利用し始めた」
そう、愉快そうに語りました。
特に人間という生命は、〝世界〟に無数に存在する法則を見付け、理解し、利用して繁栄を重ねていったのだ、と。
「それ自体は、私の設計した通りの展開だ。生命の中に、やがて〝人間〟というものが生じて、それらは〝世界の法則〟について学習し、利用する生き物として進化する、とね」
〝神様〟はもう一度、カップを手に取りました。
そうして再び、お茶を一口飲んで続けます。
「ただし、無限に学習、進化できるわけじゃない。管理が面倒になってしまうからね。管理しやすいように、人間には制限を付けた。人間の魂には、理解出来る法則の範囲、観測できる世界の真実に上限が設計されている」
もしも、万が一、普通の人間が、その上限を越えて世界の真実や法則に触れようとすれば、その魂は許容量を超え、溢れて砕け散るのでした。
「太陽に近付き過ぎて墜ちた男の話は知っているかい?」
それこそが、人間が定められた範囲を越えて世界の髄に迫り過ぎた結果である、と。
〝神様〟は微笑みます。
「でも、例外というのがあってね。それを、私は〝天才〟と呼ぶ」
天才だけは、文字通り人智を超えた真実に到達することを許したのだと、〝神様〟は呟きました。
天才とは〝世界〟の全ての真実、〝神〟のみが本来は把握するはずの、世界の根源を成すものにすら到達し、理解する事を許された存在なのです。
「だから場合によっては私と対等の次元で思考する。故に、私すら想定しなかった技術や思想を生み出すこともある。言ってしまえば、〝世界〟で唯一、私が思考を読めない、管理できない存在だ」
カップを持つのとは逆側の手で、〝神様〟は、その縁を軽く弾きました。
ちりん、と鋭くも、けれど少しもの寂しく篭った音が微かに鳴ります。
「とはいえ、単騎の〝天才〟が私にとって脅威かと言うと、そうでもないんだ」
かち、かち、と。
戯れに指先で縁を叩きながら、〝神様〟は小首を傾げました。
「なにしろ天才は、私と対等の思考力は持つかもしれないが、私と対等の〝力〟はないからね。彼等の思考が読めずとも、彼等がその思考を行動に移した時点で、私はそれをどうとでも操れる。そう、太陽に迫る方法を編み出すのを止められずとも、その翼を問答無用で、理不尽に、蝋に変えて溶かしてしまう事は、息を吐くように簡単なのだから」
だから恐ろしくはないのだ、と。
そう言ってから、カチリ、と、ひときわ楽しげにカップを弾いて、クスリと笑います。
「真に恐ろしいのは、主人公だ」
長い長い〝世界〟の歴史の中で、〝神様〟は、幾度か〝主人公〟を生み出しました
「彼等はね、あらゆる世界の法則が無効になる存在なんだ」
〝神様〟は〝終わり〟を定めました。
けれど、終わりに至るまでの過程の全てを決め、完全に管理していたわけではなかったのです。
ただ生命がその過程を辿るよう、随所随所で契機となる障害や幸運を、予め配置していただけです。
「〝終わり〟の為に配置した障害や幸運が、上手く機能しないことがあってね。それは直近の時代に出現した〝天才〟によって、思った以上に歴史が進んでしまったり、私の予想外の方へ傾いた影響であったり……。あるいは、生命……主に人間が、その障害を克服できる段階まで育っていなかった場合だったり、色々あったけれど」
カップを両手で包んで、〝神様〟は首を左右に振りました。
「そういうどうしようもない時、急遽設置した存在がある。それが主人公だ。世界が予定通りの姿に戻るように、それの存在意義として設定した目的が達成されるまで、あらゆる因果すら捻じ曲げて突き進む存在。その行動は、いわば世界修正のための〝神の手〟の代行というわけだ」
琥珀色の水面を見詰めた〝神様〟の声が、どこか皮肉げに、優しく囁きます。
「彼等が負けそうになれば、敵軍に向けていきなり空から無数の槍が降り注ぐ。彼等は心臓を潰されたとしても、その目的が達成されていない限り、何度でも生き返る。世界の法則からすれば有り得ないはずのことが、彼等が関わった場合、起きてしまうんだ」
あらゆる理屈を抜きに、目的を遂行する時まで、勝利を約束された存在。
「そんな〝敵〟からすれば理不尽で、ご都合主義としか言い様がない出来事の数々を、人々は〝奇跡〟と呼んだけれど」
奇跡とは神の加護、恩寵であるというのは、ある意味では真実であり、ある意味では、最も対局のものでした。
「あるいは、あれは〝神の無慈悲〟が人の形を取ったようなものだ」
〝世界〟を予定通りに進めるために、その予定から外れたものを、問答無用で全て粛清するという。
〝神様〟による、無慈悲で超然たる、所業こそが〝奇跡〟であったのです。
「世界の法則、あらゆる因果を全て無効化できるという性質は、あるいは、私の力の一部を、制限付きで自動化したと言い換えても良い」
神様は、カップを置いて腕組みします。
「だから、そういう存在……主人公は、その使用目的が達成されたら、必ず綺麗に消去するようにしていたんだ」
他の生命とは違い、生まれ変わらせて再利用することも、冥界で死後を与えることもなく。
「万一にも、暴走すると危険だから、直ぐに削除していたのだけれど」
たったひとつ、漏らしてしまった、と。
〝神様〟は、低く笑いました。
「なにしろ、私が消去するより早く、女神が保存してしまったからね。取り上げるのは簡単だけれど、好奇心で放置した」
しかし、さてさて、と。愉しげに。
「私があの魂に設定した目的は〝世界の救済〟だ。今思えば、随分と曖昧な設定をしてしまった。あの魂は、その曖昧な目的を果たすまで、あらゆる因果すら曲げて突き進む」
ひらりと組んでいた腕を解いて、大仰な仕草で広げて見せながら、〝神様〟は問い掛けます。
「ならば、世界の残滓、歪な最後の箱庭にあって、あの幼く、無垢で、無知な魂は、彼自身の思う〝世界救済〟に向け、自覚せぬまま、どれだけのものを理不尽に踏み躙るのだろうか」
あるいは、〝神様〟と〝主人公〟の戦いは、世界の〝終わり〟よりも、よほどおぞましく凄惨なものとなるかもしれません。
「〝世界救済〟を成しているつもりで、世界の残滓すらも、更に完膚無きまでに蹂躙するとしたなら。……いつか、もしもそれを自覚した時、あの子供はどんな顔をするのだろうね」
問い掛けた〝神様〟に、客人は顔を上げました。
真っ直ぐと、迷いのない視線で、〝神様〟を見返しました。
「笑顔よ。アイツの最後は、笑顔に決まっているのよ。だって、アイツは絶対に、絶対に、救うから。絶対に、絶対に、アイツは世界を救うから。そして、アイツにとって世界を救うっていうのは、〝皆が幸せに笑ってる〟ってことだから」
迷いのない、あらゆる理由も、理屈も、法則も無視しして、ただ確信の籠った声でした。
「泣き喚いて怒りまくって、拗ねて引き篭って、また泣いて。馬鹿だから山ほど失敗もして。きっと取り返しのつかないことも沢山やる。それでも、いざとなると笑うから、アイツは勇者なのよ。一番辛い時こそ、誰より馬鹿みたいに前向きで、本当は一番、誰より何より背負って苦しんでるくせに、それでも、何にも負けないし、折れない奴なんだって、私〝達〟は、知っている。だから、アイツの物語の終わりは、絶対に、絶対に、絶対、絶対、絶対、何度だって、何千回だって、最高の大団円なのよ」
〝神様〟は、ふむ、と顎に手を当てました。
「……なるほど、そうなのかもしれないね」
興味深そうに目を細めて、そう、頷いて。
「二度と巡り合わぬとしても、君達が、そう信じるほどには」
あの魂は、神すら恐るべき、奇跡なのだろうと。
〝神様〟は、感心したように言いました。




