夢の跡、君はいない
その聖堂は、燃えていました。
燃えるかのように、赤く赤く染まっていました。
七日目に辿り着けぬ蝉達が遠くから鳴いています。
祭壇の上、大きな薔薇窓。
細長い幾つもの採光窓。
極彩色の色玻璃で、在りし日の聖者達を象ったその窓からは、業火のような赤い光が落ちています。
数多の色をした玻璃を通って降る光は、けれど須らく、ただ赤く赤く、落日を表す色をしていました。
そうして、その赤い光が降る聖堂には、水が満ちていました。
祭壇に向けて並ぶ長椅子の座面が、辛うじて出る程の高さまで、そこには、水が満ちていました。
あるいは。
その水面の奥底からも、業火の色をした落日が昇ってきて来ているのです。
覗き込んだ水の先。
そこに、空が存在しています。
椅子の背ほどまでの深さはずの水の中、しかし、覗き込んだその水面の先には、深い深い空が広がっていました。
夕暮れの、果てしない空が水面の向こうに広がって、そちらからも落日の光が昇っているのです。
そのために、天も足下も、業火のように赤い光景でした。
火の色をした水の満ちた空間でした。
「貴様はいつもここぞの時には大博打を打つな」
「そうでござろうとも」
ふわり、と紫煙が立ちました。
「ただし拙者は、勝算のある博打しか打たないでござるよ」
最前列の長椅子に掛けて、瀕死の軍師は煙草を片手に、くつくつと喉を鳴らします。
仮面は割れて落ち、すぐ側の水面を漂って。青銅の声はくぐもることなく響きました。
「君が一番、よく知ってるでござろう?」
軍師は足元をふらつかせながら立ち上がると、祭壇へ向け、段差を数個、ゆっくり登ります。
そうして一番上の段に、祭壇を背もたれにして、ドカリと座り込みました。
紫煙をふかし、その目は落日に燃える聖堂を見回してから。
入口、扉を背に座り込んだ男を見詰めます。
「お前と博打の勝負をして、勝てた試しは確かになかった」
眼帯を当てた隻眼の男は鼻を鳴らして笑いました。
「せかいが、おわる、さいごまでな」
その皮肉げで愉快げな男の声に、ふわふわと紫煙を揺らし、軍師は青銅の笑い声を上げます。
「せかいが、かわる、そのときも、だ」
軍師は、そう訂正しました。
「俺は負けない、誰にも」
世界を獲った軍師の声音で、世界を巡った傭兵の顔で、世界を愛した青年の微笑みで。
勇者は、そう言いました。
「この仕掛けに、よく気付いたな、お前は。相変わらずの化物だ」
男は呆れたように水面を見下ろして肩を竦めます。
「君が、君の船を連れて来た時点で気付くでござるよ、好敵手殿」
軍師はヒラリと片手を振って、隻眼を見返しました。
「そもそもで君も、君が船を率いて来れば俺が気付くと踏んで来たんだろう?」
「そうでなければ、俺が俺のままの意識を保って神の軍師なんぞやるものか」
かつて、世界一の大軍師の覇業に、その世界統一事業に、最後の最後まで立ちはだかった隻眼の好敵手は、はっ、と短く鋭い笑いを漏らします。
「俺の嫌いなものは知っているだろう」
「神様と酒」
答えて、軍師はもう一度笑いました。
「……君も相変わらずの反骨精神だな」
「だが、これでもう最期だ、何もかも変わる」
隻眼は、ひた、と軍師を見詰めます。
「今度こそ本当に、永劫、お前は全てを、あの主の記憶までも、喪う事になるぞ」
「いいさ」
大きく煙草を吸い切って、軍師は笑います。
「いいんだよ」
煙草は短く、短くなり、ぽとりと、軍師の手から水面に落ちました。
「いいんだ、それでも」
煙を吐き出して、青銅の声は少し眠たそうにそう言いました。
ゆっくりと、その身は水面に、深い深い空に、沈み始めました。
「何を捨てても勝利を献上するのが、軍師の仕事だ」
燃えるような赤い空間。
遠くから響く蝉の声。
軍師は、目を閉じて、最期に想います。
(陛下……)
いとしい、いとおしい、唯一無二の、主を。
もはや死しても、世界を取り戻しても、同じ場所に辿り着くことすらできない、たったひとりの、うんめいを。
「レオン、レオンハルト……」
深い深い赤の水底に沈みながら。
「ああ、本当は」
最期の一瞬。
青銅の声は、ぽつりと。
「君を失くすのは、本当は、泣くほど嫌だなぁ」
穏やかに、そう囁きました。
「……それでも迷わないのだから、お前は本当に化物だよ」
残された隻眼の男は、そう呟いてから。
バシャリと、水面に倒れ込みました。
ゆらゆらと、二人を飲み込んだ水面が揺れます。
そうしてやがて、それが凪ぐ頃。
そこにあったはずのものはすべて、融けてひとつも、なくなっていました。




