綿津見の際涯
世界の残滓。女神が保つ歪な箱庭。
〝終わった世界〟から取り残された、少しの善き人々と勇者達が暮らす、継ぎ接ぎたらけの宮殿。
その宮殿の先には、永劫に暮れきることない夏の夕焼けに包まれた街があります。
そうして、その夕暮れの街の先は唐突に、〝終わり〟に飲み込まれているはずでした。
ところが、その永劫暮れぬ街に、潮が満ちたのです。
〝終わり〟から滲み出した海水は、一晩の内に、宮殿の周り、夕暮れの街を覆い尽くしました。
そして、〝終わり〟から、船はやって来ます。
真っ黒な帆を持つ軍艦が五隻。
永劫の夕焼けの中に、まるで夜のように現れたのです。
宮殿は、ぽかりと、海の上に浮く島、あるいは箱舟のように見えました。
「砲撃は止んだが、いつ上陸してくるかわかったものではないな」
宮殿の高楼から、沈黙する五隻の帆船を見下ろして、銃士はそう言いました。
美しい花に満ちていた宮殿の前庭は、既に跡形もなく砲撃で穿たれています。
白亜の宮殿の門も崩れ落ちていましたが、辛うじて、その先の宮殿本体のみは、結界に護られ、保たれていました。
「避難状況はいかがでござるかな?」
「非戦闘員は宝物庫に避難させた。あそこが一番頑丈で、籠城となれば食料庫にも近い」
「完璧でござーるね。二人とも咄嗟によく判断してくれたでござる、かたじけない、かたじけない」
銃士の答えに、じっと軍艦を見下ろす軍師はケラケラと明るく答えます。
「なぁ、兄ちゃん」
高楼の、最も階段に近い場所に立っている竜退治の少年が呼び掛けると、軍師は振り向きます。
今はいない騎士の、その居所であった冬の宮から、この少年が出て来るようになったのは数日前。
それを善き人々は勇者の復活と喜びましたが。
「俺達の、次に打つ手は」
どこか擦り切れたような声でした。
かつて少年が高らかに奏でていた、眩しく、暖かく、芽吹いたばかりの若草のような生命に満ちていた声は、失われていました。
何があったか、銃士は知りません。
けれど、何があったか、おおよそ悟っていました。
そして、自分以上に、聡い仮面の軍師こそは、少年に起きた何かを、よく理解しているとも知っていました。
「この件は拙者がケリを着けるでござるよ」
枯れ果てたような少年の声に、軍師は穏やかに答えます。
つい、と仮面の表は軍艦から離れ、少年と銃士の方を向きます。
「二人は変わらず、住人達への避難指示と監視を頼むでござる。その間に、あちらさんは拙者がどうにかするでござーるよ」
「単騎でどうにかできるものか、あれが?」
静かに問うた銃士を、仮面は二秒間ジッと見つめました。
「できるでござるよ」
やがて、静かにそう答えます。
「どうやって?」
「企業秘密」
少年の問に軍師は肩を竦め、再び軍艦の方を見ました。
「だが、あれは確実に、俺のお客さんだから」
釣られたように、銃士と少年も軍艦を見ました。
水平線は、ありません。
ぶつりと、唐突に〝終わり〟が全てを断絶しています。
しかし、その断絶の寸前まで、世界は朱色に塗り潰されていました。
空も。
そして、その空を映す、海も。
水面に半身を突き出す建物達も。
みな全て、燃え立つような朱色です。
〝世界〟は、何処を見ても朱色に染まっていました。
「あれは俺が沈める船に違いない」
朱の中に、船の形をした真っ黒が、十五隻。
水面に浮かぶ五隻の本性。
水面に映る五隻の鏡像。
水面に滲む五隻の影。
水面には建物達も映っています。
水面を境に、もうひとつ、あちら側に〝世界〟があるかのようでした。
〝あちら側〟の自分達も、今、こうしてこちら側の自分達を見下ろしているのだろうか、と。
不意に銃士は考えて、馬鹿馬鹿しいと首を左右に緩く振ります。
その一瞬の、なんの脈絡もない子供のような発想は、しかし、どこか底知れない漠然とした虚しさや、恐ろしさを孕んでいる気がしたのでした。
「にーちゃん」
ぽつりとした少年の声にハッと我に返ると、軍師は静かに階段を降りて行こうとしていました。
呼び止められた軍師は、少年の方を振り向きます。
仮面には、高楼の柱の影が落ちていました。
「大丈夫だよ、坊ちゃん」
穏やかな声です。仮面で判然としないその表情は、しかしきっと微笑んでいるのだと思えるほどに。
「でも、にーちゃん」
「君は、銃士殿と宮殿を守っておいで」
一歩、降りかけていた階段から足を戻して、軍師は少年の頬を両手で包みます。
「拙者の事は心配ないでござる」
無意識に、銃士は二人に近付いて、軍師の、その篭手に包まれた腕を掴んでいました。
「待て、俺も」
行こう、と言いかけた言葉は、最後まで銃士の喉を通らぬまま、どこかへ消えていきます。
じっと、振り向いた仮面は無言のまま銃士を見詰めていました。
その仮面の向こうの表情は、一切伺えません。
けれど、今この時は、何を言ってもならないのだと、銃士にはわかってしまったのです。
「アリスティド」
やがて、仮面の向こうから、声がしました。
「アリスティド」
「……なんだ」
「道は見えた。その道に、君が進む為の印を付けに行くよ」
穏やかな声でした。
おそらく、きっと、その時、今この時、既に何か、自分には到達し得ない何かの答えに辿り着いた者の声だと、銃士は思いました。
そう、悟りました。
「にーちゃん」
「坊ちゃん、ラルフ坊ちゃん」
少年の頬を、気の良い兄貴のようにフルフルと揺すってから、軍師は一度、ポンと、その肩を叩きます。
「大丈夫。すぐに何もかも大団円でござる。だって君は〝世界を変えてしまえるほどの〟最高の勇者だから。きっと大丈夫。約束するよ」
「……にーちゃん、あんたは」
「愛しているよ、君達ふたり……いいや、さんにんを、ずっと。世界のぜんぶも、永遠に。たとえ、なにもかも、変わったとしても」
ふいと、そうして軍師は軽い足取りで背を向けると、今度こそ階段を降りて行きました。
かん、かん、かん、と。
その革長靴が立てる軽快な足音は、永遠に聞こえ続けているようで。
しかし、やがて、遠く遠くなって、消えました。
「ライムント」
ぼそりと、銃士が呼びかけた声も、やがて潮風に紛れて空を流れ、けれど届かぬまま、消えていくのでしょう。




