破滅の沈吟
世界の残滓。
女神の保つ歪な箱庭。
継ぎ接ぎだらけ異形の宮殿。
常春の庭には、暖かな陽射しと柔らかな風が吹いていました。
さわさわと揺れる新緑の合間には、永久の春を謳歌する栗鼠や兎達がちょろちょろと走り回ります。
遠くから、パンの焼ける甘い香りが漂って来る、長閑な午後。
心地よい温度の水を吹き上げる噴水の縁には、誰もいませんでした。
この常春の庭を好み、女神の到来を楽しみにしていた少年の姿はありません。
兎や栗鼠達は、時折、前脚を持ち上げては耳を澄ませて鼻先をこちょこちょと蠢かせます。
それはまるで、今にも、いつも通り軽快な少年の足音が聞こえ、その傍迷惑な腕が伸びて来ては、嬉しそうに柔らかな小動物の毛皮に頬擦りしてくるのを待っているかのようでした。
けれど、その少年の姿は、なく。
「坊ちゃんなら、もう暫くここには来ていないでござるよ」
白亜の廻廊。
光の降る中庭に向けた側には壁がない、開放的な回廊は。
しかし、たった一歩、その柔らかな春の土から離れて庇の下に入れば、濃い影の中でした。
その影の中。
掛けられた声に銃士が振り向くと、仮面を兜にした奇妙な武装の軍師が、歩み寄って来ていました。
「……自室か」
「いいや」
銃士の言葉に、軍師は五歩の距離を開けて立ち止まると、淡々と答えます。
「冬の宮だよ」
銃士は、僅かに肩を震わせました。
「……冬の宮」
「騎士様の部屋にいることが多いね、最近はずっと」
仮面の内でくぐもった軍師の声からは、いかな感情も拾い出す事はできません。
冬の宮を居所と定めていた騎士が死んでから、十日が経とうとしていました。
地下の通路は消え失せ、そうして、死者の軍勢の侵攻すら、ピタリと止んだ十日間。
それは、この軍師にとって途方もなく目まぐるしい十日間でした。
「……練兵帰りか?兵士達はどうだ」
「何とか落ち着いたね、今のところ。君の協力もあったおかげでござる。かたじけない」
「侍従達は」
「持ち直したよ。女性達は、まだ時々、泣いているけれど」
世界が〝終わった〟中で、〝神様〟を殺す大戦。
宮殿に残された、善良なれど凡庸な数少なき人々にとって、その状況は決して安堵できるものではありません。
女神が選んだ勇者達、長き歴史中でも最高の勇者達がいる。その一点のみが、あるいは彼等の心の拠り所であったのです。
そうして、その勇者達の中でも、最も〝民〟たる人々にとって眩しく頼るべき庇護者と映ったのは、他ならない冬の宮の騎士でした。
救世の王子。
名誉も玉座も得られぬまま一度目の死を迎え、しかして誰より高潔な王の中の王、忘れられた騎士王。
王であること。万民の守護者であること。
それを存在の本質とした勇者は、この宮殿にあって、あるいは女神以上に、人々の主だったのです。
あるいは、彼こそが。
〝神〟を殺す大戦の先、〝新しい世界〟で、人々を導く、最初の王であるのは、誰にとっても腑に落ちることでした。
彼こそは、ならば即ち、未来の、希望の象徴であったのです。
それを喪った事で、この箱庭には悲愴と混乱が満ちていました。
軍師は乱れる人心を何とか取り纏めようと奮闘し、絶望の底で何もかもを嘲笑う銃士もまた、此度ばかりは助力しました。
銃士の魂は既に砕けきり、もはや砂と成り果てていましたが。それでも、やはりそれは〝勇者の魂〟の成れの果てには違いないのです。故に、憎悪する女神とは別、善き人々の嘆き苦しむ姿を見れば、動かざるを得なかったのです。
「……死者の侵攻は」
「物見から合図は上がっていない。今日もまだないね」
軍師は緩く首を左右に振ると、小さく吐息を落としました。
「攻めるには絶好の機だったと思うでござるがね。竜退治の坊ちゃんは自責の念で引き篭り。拙者は内部を纏めるに奔走。君は女神への憎悪こそ燃え上がっている状態だろう?」
攻めて来ないのが不気味だと。
軍師は軽い調子で、鼻歌でも歌うように軽快に吐き捨てました。
「その様子ならば、何かしら理由に察しがついているのではないのか」
「ああ、察しは付いてるでござるよ」
銃士の問に、あっさりと、軍師は頷きます。
「〝神様〟とやらは、そこそこ拙者に近い考え方をするか、もしくは、思考回路が拙者に近い軍師でも抱えているでござるね。少なくとも拙者が敵さんなら、たぶん今は攻めて来ないでござろうから。その方が効率が良いし、自軍の損害が少なくて済む」
「つまり?」
「つまり攻めるまでもなく、相手が勝手に、一人か、上手く行けば二人くらいは死ぬか腑抜けるって見込んでるのさ」
陽気な口調には、ゾッとするほど何の感情もこもっていませんでした。ただ陽気な弾み方をしているだけで、その声音の高低には、恐ろしく冷静で揺れがありません。
「国を滅ぼすには、必ずしも数万の兵士を殺す必要はないでござるよ」
庭の方を向いた軍師は、静かに仮面を外しました。
眩しい常春の庭と対比して暗い廻廊の中。
仮面を外した顔、その目だけが、光を反射して輝きを帯びています。
けれど、それは硝子玉のように、ただ光を反射しているだけ。その光には、熱も、冷たさも、ありませんでした。
「王が優秀であればあるほど、民が王を慕えば慕うほど、国の〝急所〟は大きくなる」
青銅を打つような声は、陽気に、何の感慨もなく、吐き捨てます。
「そう、〝王〟でござる。たった一人、その王さえ殺せれば、事足りる」
かわりなどいない稀少な名君であるほど、その存在意義は大きく、そこに依存するものは多岐にわたるのですから。
「旅の最中。夜には雨が降ってくると分かっている夕方。急に野営の為の幕屋の柱が折れてしまった時、一般的にはどうする?」
ふふ、と軍師は形ばかり笑います。
「慌てて、雨が降る前にと、何かを柱のかわりにするだろう。だが本来柱ではないはずの何かを急造で柱にしたところで、根本的解決になどなりはしない。有り合わせの材料で最も負担の掛かる部分を間に合わせようなんてね。一夜はともかくと旅が終わるまでずっとなんて、土台無理な話なんでござる」
王を殺せば、誰かが繰り上げられるでしょう。喪われた王のかわりをしようとするでしょう。
けれど、ならばこそ。
王が優秀であればあるほど、その身代わりとして求められる負担は大きくなるのです。
「雨が降るぞと脅しながら……今から攻め込むぞと脅しながら、相手が折れるのを待つだけで十分でござる。王と、それに次ぐ者が折れた国なんて、わざわざ攻め込んで自軍に損害を出さずとも勝手に自壊する」
少なくとも、自分はそうしていくつも滅ぼした、と。軍師は陽気に何の気持ちも籠らぬ声で笑いました。
「相手は拙者か君が折れるのを待っているでござるよ」
ふふ、と軍師は肩を竦めます。
「あるいは、〝良き人々〟が混乱し、恐怖して、善性を喪失するのを待っている可能性もあるね。恐怖は猜疑を呼ぶし、猜疑は惨劇を生むでござる。将が健在でも、民が狂って正常な判断をできない国は、落とし易さが段違いだ」
「そこまで読めているならば、迎え撃つ手立てはあるのか」
「手立ても何も、死ぬほど単純な問題でござるよ」
微かに眉間に皺を寄せて立つ銃士を、感情の籠らない笑顔のまま、軍師は見返しました。
「〝折れない〟ことでござる」
そうして、その視線は常春の庭を振り向きます。
「残った〝勇者〟である我等が、精神的にも肉体的にも健在であること。それが延いては人々の安心と秩序の維持に繋がる」
陽気さの消えた、静かな〝軍師〟の声でした。
「たとえ腹の中で竜が暴れていようが、平然と立っていること。それが、今現在、敵の策に対して私や貴殿が取れる最も効果的な反撃だ」
「……なるほど」
「そして、可能ならば竜退治に一日でも早く持ち直して貰うことだな」
そこでようやく、その声に感情が滲みます。
「坊ちゃんには、何とか立ち直って貰いたいものだね。あの子が落ち込んでいるのは、勇者うんぬんの前に、俺達も城中の人達も……見るに耐えないだろ?」
青銅を打つような声は、柔らかく痛ましげに春の庭の方を向いて嘆息しました。
「……しかし皮肉だね。そうだよ、あの子が落ち込んでいるのが可哀想で、あの子を救いたいって思うからこそ、シッカリせねばと気を取り直した兵や侍従が一定数いる」
未熟ゆえに人を惹き付ける輝き。若草の勇者の本領は、思いもよらぬところで発揮されたのです。
「……本人は戦闘不能状態だけれど。それと引き換えに、本来は悪化する筈だった集団内部の精神状態を保ってくれた一面がある」
塞翁が馬か、と軍師は皮肉げに呟くと首を左右に振りました。
「……お前は」
銃士は言いさして、けれど言葉を一度止めました。
光降る常春の庭と対照的な、影の廊下の中。
じっと遠くを見るような軍師の横顔は、いつになく疲れて見えます。
「拙者は、まぁ大丈夫でござるよ」
不意に、金と青の双眸は銃士を振り向きました。銃士が言いさして止めた問を察したように答えて、カチリと仮面を被り直します。
「……なぁ銃士殿や」
仮面でくぐもった声。視線は再び庭に向けられます。
「拙者は、統一大公の軍師でござる。あの方、我が唯一無二の主の、軍師だ。それこそが拙者の存在意義」
迷いのない声で、穏やかな声色で。
「前置きするでござるが、拙者は女の子が大好きでござる。野郎とか絶対ムリムリ。一、二歳年上の、おっぱいの大きい綺麗なお姉さんが好み」
「……なんだ?」
「とはいえでござる。目の前に理想通りのお姉さんがいて、それが拙者のお嫁さんだったとして」
困惑を含んだ銃士の声を無視して、軍師は鼻歌でも歌いそうな柔らかさで続けました。
「我が唯一の主か、理想のお嫁さんか、どちらか殺さなきゃならないなら、迷わずお嫁さんを殺すでござる」
ハッと銃士は肩を揺らしました。
軍師が言わんとすることを、直観的に悟った気がしました。
「拙者、お袋殿とも親父殿とも終生、良い関係でござったが、あの方か二人かなら、二人を殺すでござる」
軽やかな声で、軍師は言い切ります。
「時に同じ陣営で、時に敵として。同じ戦場で何度も苦楽を共にして。この拙者が、海戦においては一度も勝てた試しのない生涯の好敵手、尊敬する戦友がいたでござるが。主を救うためなら、ソイツを最も不名誉な手段で殺すのも厭わない。拙者の名誉や、生涯を掛けての勝負の決着なんて、どうでも良いんでござる」
それくらいに、と少しだけ声は震えた気がしました。
「それくらいに、拙者にとって、大公は特別でござった。忠誠であり恋であり愛であり、尊敬であり友情であり、夢であり野望であり、世界の、全て……あの人こそが、世界。あの頃も、今も」
それほどの存在であればこそ、かわりなどいないのです。いなかったのです。
けれど。
「……その大公に、誰より近かったでござる。誰より、きっと大公と本質が同じだった。ならば俺は、あの人に……あの人に、玉座をあげたかったでござるよ」
誰の話をしているか、銃士は悟りました。
それはきっと、もうここにはいない、騎士王の話でした。
「俺は大公陛下の軍師だ。だから、陛下がお許しになるその日まで、折れはしない。あるいは陛下が許したって、それが陛下の不利になるなら、折れてなんてやらないさ」
だけれど、と乾いたように、軍師は笑いました。
「……折れはしないが、悼んでいる。息をするのも辛いくらいに、寂しい。この悼みは、それくらいの、悲しみなんだ。……だから、俺も、結構、怒ってはいたんだよ、あの日から、ずっと」
その怒りは、誰に向けたものとは、言わぬまま。
しばしの沈黙があり、銃士は何も言いませんでした。
ただ、ああ、この軍師にも、確かに血肉が通っていたのだなと、ふと頭の奥で思います。
得体の知れない稀代の大軍師には、それでも。
誰かを失って、苦しみ、悶える、当たり前の、ただただ人として単純な、血肉があったのだと。
けれど。
「だが、それでも私は、復讐や怨嗟、慟哭を理由として戦はしない」
振り向いて、囁くように言い切る声もまた、心底からの本心なのだと、銃士は思いました。
「私は軍師だ。人として悲しみ怒り狂うことはあっても、悲しみや怒りを動機として剣を取ることは有り得ない」
悲しみ怒る、血肉ある人間であると同時に、それら全て抱えて、それでも大局を見る目にも、次を読む脳裏にも、一切の狂いを生じさせないもの。
軍師という、そういう生き物の中で、かつての世界の長い長い歴史でもっとも名高いのが、この勇者だったのです。
「ならば、今は内部の建て直しが最優先だと、しかと理解していた」
それは地獄の道行だと、銃士は思いました。
人間であるまま、悲しみ怒る血肉を持ったまま。それら全て、行動の動機として採用せぬ軍師であり続けることは。
それはひどく困難な、苦難の道です。
ただ、その苦難の道を当然として歩くからこそ、この目の前の男こそは、世界を獲った軍師なのだとも、改めて腑に落ちました
「……あの騎士も大概だったが、お前もやはり大概だな」
救世主症候群、と。かつてこの軍師は、哀れな〝王〟という生き物について称しました。
「……ならばお前も、何かの症候群なのだろう」
「反論できないでござるねぇ」
呟きに、軍師は仮面の奥で喉を鳴らして小さく笑います。
そうして、少しの間をおいて。
「……拙者は感情では動かないでござる」
再び囁くように、言いました。
「……だが、君との約束は、来るべき日に、必ず、必ず、果たすでござる」
誰かを思い出すように、微かに上げた頤。
「これは復讐でも仇討ちでもない。忠義、そして敬愛だ。俺にとっての、譲れない存在意義だ」
その宙を見上げる視線は、きっと今だけは、かつての唯一無二の主ではなく。
「今生の泡沫に、仮初ながら我が主と定めた方の、望んだ結末を得ることこそ我が成すべき忠義。そして……その結末を共にと、望んだ盟友達への敬愛」
その為に、この道を選択しようと、声は歌い上げました。
「君が、あの少年が……君達が、勝つために、今度こそ幸福になるために、不要のもの、足枷となるもの、尽く、障害は全て私が粉砕する」
仮面の中でくぐもる音は、けれど青銅の高潔と明瞭をそのままに、歌い上げます。
「我が主の求めた結末、我が盟友達の幸福を得る為に、〝全ての神〟を殺す策を、敷いてみせよう」
それは咆哮でした。静かな告白でありながら、確かに世界が揺れるほどの、咆哮でした。
銃士は、その時、真に目の前の軍師の本性を見たように思いました。
(忠誠の大軍師)
たったひとりの主のために、世界すらも救った勇者。
たとえ当人が何と言おうとも、ただひたむきに、ただ真っ直ぐに、決して絶える事なきその忠節の輝きは、勇者足り得る魂の輝きです。
(だが、あるいは……。輝きなればこそ裏には……)
光は、永遠に影と在ります。
輝きは常に、黒々とした影を産むのです。
世界をその手に掴むほどの軍才を持ちながら。
世界すら選択肢の対象にならぬほど、たったひとりに焦がれた忠節の大軍師。
その忠節の揺らぎない強さ。
故に勇者の魂とされるほどの、輝きの強さ。
ならば、その忠節は、世界に光灯す救世の勇者の徳にも、世界に影を齎す終末の魔王の兆にも、どちらにも成り得たでしょう。
ただ単に、この男が、かつてその決して曲がらぬ至高の忠節を向けた主こそが、光であったから。
それが、この男の軍才を、世界救済の側に定めたのだとしたら。
もしも、その忠節が、破滅の方へと舵を切るものであったなら。
きっとこの勇者は、そういう紙一重の勇者であったのだと、銃士は今、腑に落ちました。
(こんなもの、〝神〟の手にも負えないのではないか)
そして今や、その〝神〟の手にも負えぬ忠節の矛先は、〝全ての神〟をも弑す、影の道を敷く方へと、向けられたのです。
歪な箱庭の中。
何かが、決定的に狂うような音を聴いたように思いました。
傍らには、美しく眩い常春の庭。
影の廻廊の中、在りし日に勇者であった者達は、立っていました。




