七鳴の喇叭
外にはしんしんと雪が降り積もる、永遠の冬。
赤々と暖炉の火が燃える、静寂の離宮。
訪れた冬の宮で、軍師は、立ち尽くします。
「坊ちゃん……?」
寝台の上。
呆然と座り込み、少年は人形のように存在していました。
かつて、その少年が慕った騎士の、二度と戻らない、その寝台で。
「……にーちゃん、ごめん……、にーちゃんの、めがみさまを、おれは」
俯いた少年がボソボソと呟く謝罪。
それを聞き取り、軍師は刹那だけ息を詰めました。
それから再び呼吸を再開して、薄暗い室内、ゆっくりと少年に近付きます。
(……これは)
その瞬間、つい先ほど、冬の宮の外庭で擦れ違った女神が、こちらを見るや掻き消えた理由を、軍師は悟りました。
シャツを1枚羽織っただけの少年が、今はいないこの宮の主に謝罪し続ける意味を、その瞬間、聡明な軍師は理解したのです。
「坊ちゃん」
寝台の横に膝を着いて、軍師は少年の頬に触れました。
「……にーちゃん」
掠れた声で、ようやくと少年は我に返ります。
瞬いた目からポロリと零れた涙を、軍師は咄嗟に、指先で払いました。
「竜退治の坊ちゃん、ラルフ、どうしたんだ?」
仮面を外して、軍師は微笑みました。
「……おれは」
「暖炉からも遠い。そんな格好じゃ風邪ひくでござーるよ」
少年の薄いシャツの前を引き寄せ、その肩に自分の外套を脱いで掛けます。
脱ぎ捨てられ、床に落ちたままの少年の上着は、着せてやる気になれませんでした。片手で拾い上げ、そのまま無造作に寝台の上へ放り上げます。
ぐしゃぐしゃになっている掛布も、引き寄せて掛けてやろうとは思いませんでした。
「……ありがとう。ごめん、こんなとこ、見せて……」
どこか呆然としたままの声で、少年は一度、肩に掛けられた外套を引き寄せて。
直後に、はたと気付いたように、顔を上げます。
「あ……でも、にーちゃんが、寒いよな。俺、大丈夫だから」
「拙者、北国生まれでござるから、寒いのは大丈夫でござる」
「でも、俺は、自分のを……」
「大丈夫」
寝台からほんの少し身を乗り出す少年の膝に、軍師は触れました。
「大丈夫だ」
祈るように、その膝に、額を垂れて。
「……坊ちゃん……坊ちゃんは、何も気にしなくて良い。坊ちゃんは、なにも、だ」
君は悪くないのだから、と。
そう、軍師は、決して声に出さぬまま、心中で囁きました。
(……ああ、俺も焼きが回った)
静かに、軍師は己を呪います。
読みが浅かった、と。
深く、深い、己への怒り。
ふわりと、少年の髪からは、女神の残り香が燻っていました。
この部屋の様子を思えば、何があったかは知れます。
(あの女神、駒の確保に動いたか……)
軍師も、銃士も、冬の宮の騎士の死を経て、もはや女神に純度の高い忠誠など持ち合わせてはいません。
あるいは元より、軍師が女神の下に従ったのは、かつての主の愛した世界を守るためでした。そして、そのかつての主と本質を同じくすると認めた、あの冬の宮の騎士を玉座へと押し上げる為だったのです。
その為には、女神の力が必要だと。今はまだ必要だと、判断していたからこそ、軍師は女神をこの箱庭の主として扱い、膝を折っていたのでした。
ならば裏を返せば、あの女神の存在が、むしろ世界を守るにあたって不要ならば、従う理由などないのです。
その上で、女神にも己が冬の宮の騎士の死の一因を担った自覚はあるのでしょう。
故に、恐れたのです。
軍師が、己を見限ることを。
そして、元より己を憎悪する銃士の、更に苛烈となった怒りを。
手駒として蘇らせたはずの勇者達が、己の脅威へと変わりつつある、と。
女神とて、きっと気付いたのです。
ならば己を守るにはどうすれば良いか、まだ使える手駒は何か、思い巡らせたでしょう。
(そうなれば、行き着く先は、どう考えたって坊ちゃんだ)
未熟で甘ったれで、しかして、その芯はかつて世界を救ったほどに強く、一途で、揺らがぬ陽光の如き魂。
己に永遠の初恋を抱く少年。
それは今の状況では、女神にとって最も便利で、唯一確かな切札に違いないのです。
「にーちゃん……?」
額を垂れて項垂れた軍師の肩を、冷えた少年の手が摩ります。
青い顔色で、冷えきった体で、それでも、目の前で蹲る人を心底に慈しむ、真からの勇者の手でした。
その手に、自分の手を重ねて、軍師は更に俯きます。
見下ろした先、ひやりと、薄青色の石床は冷え切っていました。
燃え盛る暖炉の火は、けれど遠く。
寝台の周囲は、薄闇の中、冷えています。
(俺や、銃士殿が、この坊ちゃん相手に戦えるわけがない)
軍師も、銃士も、勇者でした。
たとえ己は勇者に在らずと嘯こうとも、魂砕け勇者足り得ぬものに変貌しつつあるとも。
両者共に、その本質の本質は、どう足掻いても勇者なのです。
そんな二人が、真昼の陽光のように暖かで純朴な少年、未熟で愛おしい若草の後輩に、どうして剣など向けられるでしょう。
女神は、それを知っているからこそ、少年をいちはやく縛り付けたのです。
もしもの時の、盾として。
「にーちゃん、どうしたんだ?」
「いいや、何でもないよ。坊ちゃん」
無意識に力の入りかけた眉間を緩め、ぎこちなく顔を上げて、軍師は微笑みます。
「坊ちゃん、冷えてしまっているでござる。着替えて、食堂に行こう。きっと温かい料理が待っているよ」
立ち上がって、軍師は刹那だけ、寝台の奥を見詰めました。
この寝台の、かつての主を、思いました。
女神は、よりにもよってこの場所で少年を誘惑したのかと苦く考え、はっとします。
(……ああ、逆だ。この場所を、あの騎士の死までを、利用したのか、女神は)
それもまた女神にとって少年を繋ぐための強烈な手札となったのだと、思い当たります。
(〝にーちゃんの女神様を〟)
少年は、そう呟いていました。
あの騎士が愛した女神を、愛してしまったことを、謝っていたのです。
(……坊ちゃんは、女神と、あの騎士が、恋仲だったと思ったのだろうか)
ならば、それは何と女神にとって都合の良い解釈かと、軍師は密やかに溜息を吐きます。
兄のように、あるいは父のように慕った騎士が、女神と愛し合っていたと、この少年は解釈したのでしょう。
大好きだった騎士の恋人を、その死に漬け込んで自分は奪おうとしているのだと、そう自責したのでしょう。
ならば、どれほど自分を憎み、葛藤していることか。
「俺、ここにいる。……ごめん、食事も……今日は、いらない。あんまり、お腹減ってなくてさ……」
立ち上がるよう促す軍師に、ゆるやかに首を左右に振った少年は、この数日で目に見えて痩せていました。
「……減っていなくても、何か食べるべきだ」
軍師は再び膝を付いて、少年の頭をクシャクシャ撫でます。
(この子は、もう、ただでさえ、十分に苦しんでいる)
騎士の死んだ悲しみ、苦しみ。
そして、己の落ち度が、その死を招いたのだという、自責の念。
あの通路の前で崩れ落ちて泣いた瞬間から、きっとずっと、少年を苛むもの。
「坊ちゃん……、坊ちゃんは、何も悪くない」
再び膝を付いて、軍師は細くなった少年の肩を引き寄せました。
「坊ちゃん、坊ちゃん、君はもう、何も、何も、背負う必要ないでござるよ」
少年の、悲しみも苦しみも自責も。
あの騎士は望んでなどいません。
それだけは確かなこととして、誰にでも明白だと、軍師は確信できます。
(……それなのに、あの女神は)
騎士への憧憬と、女神への恋慕の狭間。敬愛した騎士を裏切る苦しみと、愛おしい女性に必要とされる甘く狂おしい歓び。
騎士の死に関する自責に加え、女神が少年に植え付けたであろう痛みを思い、軍師は、ぎり、と奥歯を軋ませました。
(この坊ちゃんが、そんな葛藤を、罪悪感を感じればどうするかなんて、簡単に分かったろうさ)
密やかに歯を食い縛る軍師の腕の中で、少年は口を開きました。
「軍師のにーちゃん、俺は、逃げちゃだめなんだ。俺は、騎士のにーちゃんを苦しめたから。だから、今度は……今度は、せめて、絶対に、女神様を、守らなきゃならない」
痩せてひと回り小さくなってしまって。
それでも、その声はどんな鋼よりも硬い硬い、曲がらぬ勇者の誓いで。
(……ああ、ほら、こうなるだろう)
軍師は少年の背を更に引き寄せて、煮え滾る怒りを腹の内側で転がしました。
少年が、女神を守ろうとするのは明白でした。
自分のせいで死んだ騎士が愛したひとならば、と。
そして、自分の恋したひとだから、と。
それらは相反する事で、少年を苦しめ葛藤させながら、しかして、女神を守らねばならないという一点に置いては強力に一致し、少年を突き動かす理由となるのです。
「……君は、そう言うと思ったよ」
軍師は低く呟きました。
少年は、命と引き換えにしても女神を守らんとすると、そんなことは明白でした。
真昼の輝きを持った勇者の魂は、それが真昼の輝き足り得る優しさを、潔白さを、未熟さを持つが故に。
(疑いもせず、女神を守ろうとするんだ、この子は)
それを理解した上で、女神は少年に触れたのだと、自分に向けられる無垢の初恋を、騎士への真っ直ぐな敬愛を、得がたい魂の輝きを、利用したのだと、軍師は理解しました。
「……にーちゃん、心配してくれて、ありがとう」
身を焦がすほどの憤怒に声を失った軍師の背へと。少年は、静かに手を回します。
「俺、大丈夫だから。大丈夫、ちゃんと、今度は戦うから」
「坊ちゃん」
軍師は、ゆるやかに少年から身を離しました。
涙の跡の残る子供の頬を撫でて、一瞬だけ、無言の間がありました。
窓の外、降りしきる雪は音すら立てぬまま積もり続け、時折に薪が爆ぜる暖炉は低く低く唸り続けています。
薄暗い部屋の中、互いの顔は灰色の影が落ちてくすんでいました。
そのくすんだ顔を、子供の顔だと、軍師は思いました。
まだまだ子供の、今にも泣き崩れそうな子供の顔だと。
それでも、若草の瞳は逸らされる事なく軍師を見詰めているのです。
翳り、弱りながらも決して澱むことない勇者の目、己が使命を自負した時の、覚悟の瞳でした。
ならば、それ以上、軍師には何も忠告すべきことなどできませんでした。
ここで軍師が何と言おうとも、この竜殺しの勇者の高潔さは、覚悟は、女神に歪められた方向へと捧げられてしまったのです。
「……そうか」
軍師は、身の内を激流のごとく流れるあらゆる感情を押し隠して、微笑みました。
「そうか、ラルフ。わかった」
そうしてもう一度、少年を抱き締めます。
「でも、坊ちゃん、それなら尚更に、一緒に夕飯にしよう。それで、その後は、部屋でゆっくりお茶にして、そのまま眠るんだ」
背中をあやすように叩きながら、軍師は言いました。
「戦う為に、力を付けるべきだ。わかるだろう?」
「……うん」
微かに、少年は頷きます。
「うん……。そうだね」
「……今夜は鹿肉だって、さっき厨房から聞こえてきたでござるよ」
少年の震える肩に気付かぬような声のまま、軍師は、ひそりと片腕で仮面を被り直しました。
鋼鉄の面で鼻先を覆う直前。
冷えた部屋の空気の中、ふわりと、冬の宮の騎士の纏っていた香を感じたように思いました。
脳裏を、駆け抜けるのは、いつかの光景。
冬の宮に響く、四人分の談笑。
嬉々として話をする少年を、穏やかに見守る騎士。
気怠げに、けれど暖炉の薪の具合をよく気にかけていた銃士。
安楽椅子に座っていた軍師にとって、この声の為に世界を再びと願った、ある日のこと。
軍師にとって、この声と共に世界を守りたいと、願った、日々のこと。
(……ああ、もう戻らない)
視線を上げた室内は薄暗く、寝台は乱れ、空気は澱んでいました。
あの日、皆を迎えた騎士は永遠に不在で、伸びやかに冒険譚を語る少年は、痛みと葛藤の底で自らに贖罪を背負わせます。
暖を気にかけていた銃士は既に勇者ならざり、軍師が愛おしいと認めた何もかも、変貌しました。
たとえこれから〝世界〟を救い得たとしても、二度と、この少年は、あの頃のように希望を語り、まだ知らぬ冒険に胸躍らせることはないでしょう。
かつての〝世界〟での愛しい人達を永遠に喪い。
そうして今、これから先の永遠においてすら、広がっているはずであった幸福の全てを、女神を守護するという贖罪の全てに収束させ、喪った少年。
(……そんなのは……そんな、結末は、あまりにも……)
軍師は息を詰めました。
そうして、その時、静かに、軍師の中で女神は一線を越えました。
(貴様の思うようには、させるものか)
軍師は仮面の奥、静かに目を閉じました。
そうして鋼鉄の面の奥、誓うのです。
(ラルフ、アリスティド。俺の全部を掛けてでも、君達を、これ以上、傷付けさせない)
それはかつて〝世界〟を獲った軍師の誓い。
ただひとり、愛する主のため、〝世界〟全てを謀り、〝世界〟全てを救った勇者が、〝世界〟が滅びて初めて発した、主ならぬ者への、心からの誓いでした。
静かに、静かに。
魂に罅が入り初めた勇者の、開戦の叫びでした。




