覆没の賽
そこは、ひどく居心地の良い離宮でした。
窓の外には、しんしんと雪が振り続けています。
深い深い青を帯びた夜空に、鈍い鈍い灰色の雲が入り混じって。
暗い空から降る純白の雪は、下界を染め尽くしていました。
外は一面、白と、その影の青に包まれています。
動くものもない冬の世界。
暖炉の炎。ちろちろと揺らめく火。
時折、薪の爆ぜる音がします。
すっぽりと、柔らかい布団にくるまって、少年は、寝台に横になっていました。
頭まで被った掛布からは、微かに柑橘のような香がします。
柔らかで、滑らかな肌触りの寝具に、頭までくるまって。ほんの少し顔だけを出して、炎の音を聴いていました。
「……星の歌」
雪降る無音、薪の爆ぜる音。
物憂げで寂しくて、ひどく安堵するこの気持ちを、そう言うのだと。
教えてくれたこの部屋の主は、もう二度と帰還することはないのです。
「にーちゃん」
ボソリと呟いて、少年は寝返りを打ちました。
暖炉と反対には壁があります。
薄暗い部屋の中、ほんのり紫と青を帯びた白い壁紙。
そっと、寝台の上で手を伸ばすと、人肌の乗っていなかった壁際の敷き布は、冷たく冷えていました。
「……俺のせいで」
目を閉じて、少年は寝台の上、胎児のように丸まります。
かつてこの部屋に押し掛けた日々の事が、脳裏を過ぎりました。
狩に行こう、と、強請るために。
狩に行ってきた、と、仕留めた獲物を自慢するために。
剣の練習相手をして、と強請るために。
魔法を教えて、と我儘を言うために。
ねぇ、昔の、アンタの冒険の話をしてよ、と。
あの騎士の物語が、最期には悲劇であったことを忘れて迫った少年にも。
青い瞳は、ほんの一瞬だけ丸くなってから、いつも目尻を下げて、仕方ないな、と笑ってくれたのでした。
この離宮はいつでも居心地が良い場所でした。
夕刻になると、もう帰るべきだ、と必ず追い返されてしまいましたが。
それでも冬の宮の騎士は、昼に少年が訪ねる分には、殆どいつでも、その言動に付き合ってくれたのです。
軍師殿には秘密だぞ、と呆れつつ。
強請りに強請った少年に折れて、ほんの少しだけ、果実酒をくれた事もありました。
銃士殿に怒られる、と渋りつつ。
少年がこっそり盗んできた銃士製の手榴弾の解体を手伝ってくれたこともあります。
(俺、我儘言ってばっかりだったけど)
その我儘のツケを、きっと見極めてくれていたのでしょう。
少年に、大き過ぎるツケが回らない範囲を見極めて、うまい加減で、その願いを叶えてくれていたのだと、思い返して納得します。
「……ほんとうの、にいちゃんみたいに」
実の兄は、口煩くて、喧嘩ばかりでしたが。それでも騎士と同じく、いざとなれば絶対に少年の味方だった魔道士の顔を思い出して、少年は更に身を縮めました。
(……あんな……あんな、化物に)
通路で出会ったおぞましい肉の檻。
その中には、慕わしい実の兄の顔もあったのです。
(竜をやっつけて……全部終わったんだと思ったのに。少なくとも、俺の時代の皆は……皆は、俺が死んでからも、長生きして、死んで、天国に行って、幸せだったんだろうなって……)
そう思えばこそ、少年には後悔も迷いもありませんでした。
たとえ、本当は欲しかった未来……食べたかったもの、見たかった景色、着てみたかった服、目標にしていた勲章……全部全部、手に入らなくても。
一秒でも長く、一緒に生きたかった懐かしい人々と、二度と、会えないとしても。
それでも、短い、短か過ぎた自分の生涯には、胸を張って誇れるだけの栄光と意味があったのだと、信じられました。
(なのに……あんな化物に……。世界が終わってから、あんな、姿に……)
それはあまりに理不尽でした。少年が諦めた全て、本当は欲しかった全部、拭いさって、踏み躙る結末でした。
あるいは何よりも。
ただ無垢で優しい未熟な勇者にとっては、愛しい人々が途方もない期間、苦しんでいたという単純な事実こそが、恐ろしく、悲しく、絶望的なのです。
少年の体はガタガタ震えていました。震えて、動けませんでした。
(……こんな風に、俺が、俺が、弱くて、馬鹿で、動けないから)
冬の宮の騎士は、死んだのだ、と。
誰かが、少年の中で怒声を上げます。
「……にーちゃん……」
おぞましい化物の姿と、無残な騎士の肉の破片と。
「……俺のせいだ」
脳裏に交互に浮かぶ光景に、少年はガタガタと震えたまま、小さく、小さくなっていました。
(俺が、いなければ……)
柔らかく滑らかな掛布の海の中。
羊水に浸る胎児のように小さくなって、世界の何もかも拒絶するように。
(……でも)
震え、怯えて閉じこもり。
けれど、少年は、それでも勇者でした。
(……でも……ちがう、だめなんだ、今の、ままじゃ)
震えながらも、少しずつ、少しずつ、その魂は、怪物に掛けられた呪いを振り払おうとしているのです。
「……俺は、助けられたんだから」
慕い、付いて回った騎士の気配の残る部屋で。
少しずつ、少年は立ち上がろうとしていました。
「……戦う、俺は、まだ戦える。今度こそ、きっと……」
ガタガタ震えながらも、細い声で。
這い上がろうと足掻く少年の耳に。
カチャリ、と。
扉の開く音がしました。
「ラルフ」
「……女神様……?」
部屋に入ってきたのは、女神でした。
震えながら半身を起こして見詰める少年の方へと、美しい女神はゆっくり、ゆっくり、近付いて来ます。
「ラルフ……」
鈴を転がすような愛らしい声が、か細く、少年の名前を呼びました。
「ラルフ、私の可愛いラルフ。こんなところで、震えていたのですね……」
「女神様」
「ああ、ラルフ……」
キシリ、と寝台が軋みます。
寝台に乗り上げた女神の細い腕が少年の肩に巻き付き、弱々しいほど華奢な身体がぴたりと寄りかかってきました。
「女神様……?」
「ラルフ……かわいいラルフ、かわいそうに」
少年の鼻先を、脳を蕩かすように甘い花のような香りが擽ります。
女神の金の髪が揺れ、ふわりと、その香りはますます広がりました。
「どうか貴方まで、いなくなったりしないで……」
「俺は」
「冬の宮の騎士がいなくなってしまったのは、私のせいです……。私が、私が、出口を」
悲鳴のようなか細い声が泣き声を噛み殺し、少年を抱き寄せる華奢な体はぷるぷると震えます。
「ああ、私は、私は、なんて酷い、私なんて、私が、かわりに私が、死んでいれば」
「そんなことない!」
少年は、咄嗟に細い体を抱き締め返しました。
「そんなことないんだ。あれは、俺のせいだ、女神様。俺が弱かったから、いけないんだ」
震えながら、それでも、少年は思います。
この華奢で愛おしいひとを、守ってあげなければ、と。
「俺は女神様が大事だよ。アンタがいてくれて、よかった。これからだって、きっと、アンタのこと、守るから……」
「ラルフ……」
震える少年の頬に、女神の滑らかな白い頬が擦り寄りました。
「……私……私、寂しくて、怖くて」
鈴を転がすような声が、少年の耳元で細く泣きました。
「もう、あの騎士様はいないのね……」
「……うん」
少年の心臓は、いつの間にかゆっくりと速度を上げていました。
甘い香と、滑らかな頬。
華奢だけれど柔らかい体、細い、細い折れそうな腕。
震えながら、少年は自分の鼓動に戸惑っていました。
その鼓動の変化は、何かが不自然だと、その魂の奥底、勇者の直観とでも言うものが叫んでいましたが、その次の瞬間には、それは漂う甘い女神の香りによって乱れ、消えてしまいました。
「ラルフ……私の可愛いラルフ」
「女神様……」
女神の大きな目は、涙を湛えて少年を見上げました。
「私……騎士様がいなくて、ずっと、さみしくて」
「……うん」
陶然とした様子で、少年は頷きました。
「ねぇ、ラルフ、愛しい私のラルフ」
ポロリと、大粒の涙が女神の瞳から零れ落ちました。
桃色に潤んだ唇から、震える細い声が聞こえます。
「あなたは、私を愛してくれる?」
「……うん」
少年は、そっと女神の涙を拭って頷きました。魅入られたように、震えたままの少年は、それでも、愛しい女神から目を逸らせません。
無垢な初恋から紡ぎ出された女神の呪縛は、強烈でした。
勇者の魂を持ってしても、弾き返せないほどに。
「俺、女神様のこと、大好きだよ」
ずっとずっと。
少年が、その若草のような心に大切に大切に抱え込んできた秘密は、その瞬間、自らを縛る呪いとして、遂に引き出され、地に落ちます。
「いい子……愛しいラルフ、いとしい、あなた」
女神の口付けに、少年は目を見開いて、そのまま広い寝台に倒れ込みました。
「こんなに震えて、可哀想なラルフ」
甘い声が囁いて、細い指が少年の頬を撫でます。
「……私、さみしくてたまらないの。……ねぇ、ラルフ……ラルフ……愛してあげる。だから、私を、もっと、もっと愛して……」
再び柔らかな女神の口付けを受けながら、少年は呆然としていました。
高く、暗い、寝台の天蓋を見上げて。
そうして、気付いたのでした。
(ああ、にーちゃんは)
冬の宮の騎士が決して夜に少年をここに入れなかった理由を。
「……騎士さま……」
女神が漏らした甘い声に、少年は目を閉じます。
(……ああ、そっか。これがきっと俺の罰なんだ)
少年の、立ち上がりかけた心は、再び深い深い水底に沈み始めました。
(これは、弱くて馬鹿な俺への、罰だ)
何も救えなかった自分への。
我儘で弱くて、馬鹿だった自分への罰なのだと、少年は思います。
(……にーちゃん、にーちゃん……なぁ、にーちゃん、ごめん、ごめんな……。女神様にとって、にーちゃんは、大事な人だったんだ……。俺、気付かなくて迷惑かけて……その上、にーちゃんがいなくなったからって、こんな……。……ごめん、ごめんなさい……ごめんなさい、にーちゃん)
だからせめて、と、女神を抱き締めて泣く少年は、誓いました。
「……俺の命と引き換えにしても、女神様のことは、絶対、守るから……」
無垢な少年。
腕に抱いた女神の歪さも、それを自分の目から隠して背負い続けた騎士の本心も、知らぬまま。
春風のような初恋は、呪いによって楔へと歪められ、兄と慕った騎士への無垢な敬愛もまた枷として利用されて。
ならば、それは、あまりに救われぬ決意でした。
正されかけた道は、そうして折れ曲がるのです。
静かに静かに。けれど決定的に。
賽は投げられたのでした。




