全て全て影燈籠の夢
ああ、これは失敗したな、と騎士は思いました。
しかし同時に、まだやれることはあろう、とも思います。
「……とうさん、あにき、みんな」
掠れた声で呼ぶ竜退治の少年の方を、首を少しだけ回して振り向きました。
「しっかりしろ」
座り込む少年に向け、左手を差し出します。
その手の、奇妙な方向に曲がって骨の出た薬指に、少しだけ苦笑してから。
「後は、よろしく頼む」
人を別の場所に運ぶ魔法でした。
大魔導士であろうとも十日は魔法の力を貯めねば使えぬはずの魔法ですが、これで最期と命ごとくれてやる気になれば一度は使えると、騎士は知っていたのです。
「武運を祈る、竜退治の騎士ラルフ」
呆然としたままの少年が無意識に伸ばした手は、騎士の左手を掴めぬまま。
パッと消えました。
「……さて」
騎士は振り向きました。
そこには、蠢く怪物の姿があります。
ざわざわとまるで何かが潜む叢のように、長い毛が蠢く、四足の獣でした。
鷹のような嘴に、獅子のような鉤爪のついた脚で、八股の尾は全て毒蛇であり、シュウシュウと舌を覗かせてこちらを睨めています。
それがブルリと身を振ると、そのたび、ボトリ、ボトリ、と。その長毛の間から、人間の幼児ほどもある赤黒い蛆虫が落ちました。
蛆虫には、やはり猛禽の嘴が付いています。
そして、それらは蠢き這いずって、もはや動けぬ獲物の方へとやって来るのでした。
石造りの真っ暗な通路。
明かりは遠くに落ちている松明ひとつ。
けれど、あの松明も、もう間もなく燃え尽きるでしょう。
地下に現れた通路。
騎士と銃士が足を踏み入れたそこは、迷宮と化していました。
そうと気付いた瞬間、道を失う前に一度引き上げるべきだと判断したのは、おそらく適切。
ただ問題は、出口が塞がれていたことでした。
女神が確保していてくれるはずの出口は、女神によって塞がれていました。
騎士と銃士がいない間に、その出口からは、化物が宮殿に溢れ出したのです。
それに狼狽えた女神は、咄嗟に出口を閉じてしまったのでした。
救助に来た少年は、そう説明しました。
その時、既に迷路の中で化物の襲撃を幾度も受けていた騎士と銃士は、分断され別々になっていましたが。
出口を再び作ったから、そちらへ案内しがてら、きっと銃士も見付けてみせる、と。
迷路の惑わしを防ぐ女神の加護を携えて来た少年は、そう言って、意気揚々としていました。
この目の前の怪物に、出会うまでは。
『ラルフ』
鷹のような嘴の隙間から、穏やかな壮年の男の声が聞こえました。
『おい、ラルフ』
次に聞こえたのは、少し若い男の声。
『ねぇ、ラルフったら』
うら若い強気そうな少女の声や、嗄れた老爺、優しげな女性のものまで。
その獣は、きっと少年にとってかけがえのなかった人々の声で、鳴きます。
『ラルフ、ラルフ……ラルフ』
そうして、その声は次第に歪み。
蠢いていた怪物の長毛は、その瞬間、動きを止めます。
そうして毛皮がべロリと向けました。
薄桃色の肉が剥き出しになって。
『 いニ たコ わゲ すいロ シけ て 』
そこには、こちらを見る、無数の人の顔。
薄桃色の肉には、老若男女様々な人々の顔が、溶け合い、混ざり合いながらも、付いていました。
苦痛に歪み、血の涙を流し、怪物の体液を嘔吐するその顔達は、やがて一斉に歪み、絶叫しました。
いくつかの顔がドロリと崩れ、ボトリと、蛆虫の怪物に変じて千切れ落ちます。
そして再び、薄桃色の肉からボコボコと毛が湧き出し、無数の顔を隠しました。
この怪物を目にした瞬間に、そのおぞましい人間が溶け合った肉塊を見た瞬間に。
少年は、呪いに囚われました。
少年が勇者であるからこそ。たくさんの人を愛し、愛された若草の竜退治であるからこそ。
その呪いは、強烈に作用しました。
大切な人々のおぞましい成れの果て。救ったと思った人々の、あまりに救いのない末路。
竜にも怯まぬ若草の英雄の魂は、されど、その輝きが故に、この手の呪いこそは致命的なものとなったのです。
動けぬまま、呆然とする少年の前で。
怪物が吼え、その耳を裂くような叫びは、通路の壁や天井に亀裂を生じさせました。
騎士は咄嗟に、その音から少年の耳を守ろうと魔法を使い、そうしてほんの一瞬だけ、自分の耳への防御に遅延をきたしたのです。
鼓膜が裂けなかったのが不思議なほどの轟音でした。
脳が揺れ、騎士がたたらを踏んだ瞬間、天井が崩れました。
落下した石天井は、騎士の膝から下を押し潰して。
呆然自失の少年に、この怪物は倒せない。
足の潰れた自分では、この怪物から少年を守り戦うことはできない。
将兵としての騎士の才覚と経験は、瞬時にそれを悟りました。
故に全ての魔法の力と引き換えに、少年を離脱させたのです。
(難儀なことだ)
足の潰れた騎士の元へ、猛禽の嘴を持つ蛆の怪物達が到達します。
剣は少し手を伸ばせば届く位置に転がっていましたが、咄嗟に頭を庇った左手は、瓦礫を受けて指が折れていました。右手は何とか無事でしたが、そもそもとっくに力が入りません。
本来なら魔法を使い切ったところで意識は途切れるはずだったのです。それにも関わらず、妙にはっきりと意識があるのは、この空間に意識を保たせる呪いの類が満ちているからでした。
(私はたいがい幸運には嫌われているな)
ブチッと肉の千切れる音。
とうとう動けぬ獲物に這い上がった蛆の怪物の嘴が、腹部の肉を抉り、引き千切り始めました。
少しずつ、少しずつ。
肉は毟られ、抉られ、細っていきます。
松明の火はいよいよ小さくなりました。
真っ暗闇。ひとりきり。
無数の蛆が這い寄って来る中で。
もうすぐ、何も見えなくなるでしょう。
(またひとりか)
ごほごほと咳き込んで血を吐きながら、騎士は思いました。
(でも、こんどは、さむくはないな)
ブチッ、ブチッと音がします。
投げ出された左腕が、石畳の上で跳ねました。
(いたい。はやく、おわればいいのに)
その内に、四足の怪物が目の前にやって来て。
『ああ、ザマはないな』
聞こえた声に、騎士はゆっくりと目を瞬きます。
「 」
『覚えていたか』
掠れた声は、肉の千切れる音に掻き消えました。
けれど、獣は静かに騎士の顔を覗き込みます。
蠢く毛皮が、再び静まり返りました。
『まぁ、私もこのザマだがな』
ずるりと、毛皮が剥け、一斉に、こちらを見た人の顔、顔、顔。
それは、一様に恐怖と苦痛に顔を歪めていて。
『お前の家族もいるぞ』
くく、と嘴から落ちる声だけが嗤います。
『お前を裏切った兄も、家臣も』
獅子の脚が、騎士の半分喰われた腹の上に乗りました。
腹の肉を啄んでいた蛆は、その脚に踏まれてべちゃりと潰れます。
『このザマになって、お前に許しを乞うている。助けてくれと、泣き喚いている』
ああ確かに、と騎士は思いました。
こちらを見る顔は、今度は全て、知っている顔でした。
(へいか)
自分をかつて疎んだ主君、実の兄が、目から赤黒い血を流してこちらを見詰めていました。
全ての歯が腐り落ちたその口が、助けを乞うています。
かつて自分を見捨てた家臣、民。
全ての顔がありました。
『これが本物の〝神〟の所業か、嗤わせる』
嘴から漏れる声を、騎士は知っています。
(まじん)
魔神、魔王。
かつて世界を滅ぼさんとして、そして、ほかならない騎士によって討伐された仇敵の声です。
『王子よ、我が仇敵よ』
魔神の声が、少しだけ歪みました。
『私も長くは自我を保てぬ。じきに、この無様な蛆虫どもの一部に成り下がるだろう』
勇者達を喰らうためだけに作り出された、おぞましい合成の獣。
勇者の不屈の魂を圧し折る猛毒の呪いを煮詰めるため、あらゆる人間に、死してなお、〝世界〟が終わるまで耐え難い融合の拷問を与え続けた肉の檻。
その一部になってからの、長い、長い間。
『この時を、待ち偲んだ我が魂』
獅子の爪が、騎士の首に触れます。
まだ蛆の触れていない、綺麗なままの細い喉首。
『ひとことだ。ひとこと、楽にしてくれと言え。さすれば、惨たらしい、何よりも悍ましく汚らわしい死様をさせずにいてやる』
生きたまま、意識のあるままジワジワと蛆に食い殺され、痛みと恐怖に狂い死ぬなどあまりだろう、と。
『我が仇敵アルンフリードよ、乞え』
段々と、その声は遠ざかるかのように歪みを増します。
かつて世界を滅ぼさんとした魔神の魂も、既に限界でした。
もうあと僅かで、残った自我も消えるのでしょう。
仇敵の自我が、永劫にも近い時の拷問を経てなお残っていたことは、正しく奇跡でした。
それは騎士にとって、気の狂うような苦痛から逃れるための、最期の機会です。
けれど。
「いらない」
掠れた声で、騎士は答えました。
『なに』
「いたみなど、もうとっくになれた」
『既に狂ったと言うか?』
「いいや」
騎士は囁くように答えました。
「なぁ、きゅうてきよ。わたしは、だれにもひつようとされていないんだ」
騎士は紛うことなき勇者です。
万民の守護者。王の中の王。
名も顔も知らない誰かの為に、命すら投げ出してしまえる高潔な勇者でした。
そうしてだからこそ、自分が誰にも必要とされないことを、わかっているのでした。
「みな、わたしのなかに、ほかのだれかをみる」
理想の体現。安らぎの体現。
故に、そこに騎士本人はいないのです。
誰からも愛され、慕われるでしょう。
何故なら、そこに誰もが見たいものを見ているから。
だから、騎士は。
救世の悲劇の騎士は、誰もに愛され慕われ、そうして誰にも、見向きもされないのです。
少年は、きっと騎士の中に懐かしい大人達を見ました。
銃士は、きっと騎士の中に慕わしい過ぎた日の友情を見ました。
そして軍師は、唯一無二の主の面影を見ていたのでしょう。
誰も、ひとりのなんでもない、たったひとりの、ただの青年のことは、見ていないのです。
「それは、かまわない。それでいい。それで、だれもがわらえるのなら」
騎士は、自分の存在が見向きもされない事を、何とも思いません。
誰かが幸せならば、それで良いのです。
それで誰かが幸福なら、自分のことなどどうでも良いのです。
それで良いと、心から思うのです。
だからこそ、かつて世界の全てに裏切られ、見捨てられた時も、そうか、これが求められた役割かと、心から受け入れたのです。
けれど。
「それでも、さいごに、たったひとつの、れいがいを」
この魔神は、ずっと自分を待っていたのです。
最期の最期に、自分に、他ならない、この自分に、哀れを乞わせてやろうと、そのためだけに。
こんな怪物に、成り果ててまで。
世界を手に入れるという己の悲願を打ち砕いた敵を。
たったひとりの、憎き青年を、待っていたと、言ったのです。
ならば、それは、〝アルンフリード〟にとって、どんなに。
「……いいきぶんだな、とても。……とても」
だから、殺してくれなどとは。
楽に死なせてくれなどとは、絶対に言ってやるものかと騎士は笑いました。
「おまえののぞみは、かなえてやらない」
きっと、生まれてはじめて。
きっと生まれてはじめて、誰かの期待を裏切ってやった瞬間でした。
最期の最期に。
騎士はあらゆるものの理想を映す王ではなく、ただのひとりの人間として死ぬことを選んだのです。
それがひどく愉快で、楽しくて、うれしくて。
痛みも忘れて笑う騎士を、呆けたように怪物は見詰めました。
それから、ゆっくりと首を振ります。
『……そうか』
静かで、凪いだ魔神の声はいよいよ遠くなりはじめ、松明は、もう殆ど消えています。
『では、さらばだ』
「ああ」
『我が唯一の仇敵よ、遠い、いつか、次の世にては……』
先を言わぬまま、声は消えました。
シンと、沈黙が落ちました。
二秒。
理性を失った猛禽の嘴がグワリと開きます。
松明の火が、遂に消えました。
闇に、ぐちゃりと湿った音が響きました。
ブチッ、ブチッと、音は続きます。
(ああ、まえとは、ぜんぜんちがう)
最期に、青年は目を閉じました。
(……ひとは、しにたくないものなのだな)
意識が消えるまでの長く、短い間。
せめて誰かに名前を呼んでいて欲しかったと、思いました。




