獣は払暁を仰ぐ
空は墨色をしていました。
永遠に夏の夕暮れを彷徨うはずだった街の片隅に、夜が来ています。
夕暮れが広がる空の中、まるでそこだけ巨人が塗り潰したように、五十メートル四方の夜空が口を開いていました。
〝終わり〟の到来でした。
真っ黒な正方形の夜空の下には、歩く死者の群が湧き出しています。
木乃伊のように乾涸びた皮に、空っぽの眼窩。不気味な死者の軍勢は、夜空の下の暗がりという暗がりから這い出して、ぞわぞわと、夕刻の街へと滲み出そうとしています。そして、夕刻の街を超えた先にある、世界の残滓、女神の保つ最後の箱庭へと、侵攻しようとしているのです。
「失せろ」
バンッと、死者の頭を撃ち砕く銃声。
夕刻の街へと乗り込もうとしていた死者の乾涸びた頭部は、撒き散らす赤い血も無いまま粉々に消え去りました。
続けてカチンと小さな金属音が響いて、蠢く死者の行列に、コロン、と何かが投げ込まれます。
そして次の瞬間、盛大な音を立てて爆発しました。
魔法が込められた手榴弾。炸裂したソレは聖水で清められた数多の鋭い金属片を撒き散らすと同時に、歩く死者を再び眠りに就かせる為の白い魔法の光を放ちました。
手榴弾の炸裂した周辺だけ、一瞬にして視界が開けます。
頭部を失うような大損害を受けるか、白い魔法を浴びた死者達は、瞬く間に塩に変じて崩れ落ちました。
そうして死者の行列の、中央に開いた穴。
そこへ、一騎の騎兵が切り込みます。
銀の刃光が翻って、その一振りで、三つの頭が消し飛びました。
続けて返す剣が別の頭を二つ落としたところで、死者達はようやく、その手を騎兵に伸ばします。
細い枯れ枝のような手には、しかし異様に鋭い、猛獣のような爪が揃っていました。人肌に容易に食い込み、筋肉、骨までも抉るだろうその爪を、けれど騎兵は恐れません。
銀の名剣を、静かに天に向け掲げて。
鏡面のように澄み切って、湖面のように青々とした剣の平面に、静かに一度、額を預けます。
「残念だが、さよならだ」
次の瞬間、騎兵を中心に十字に光が駆け抜けました。死者の行列の端から端までを駆け抜けた光は、手榴弾が放ったものと同じ、白い魔法の光です。
死者達の殆どが、一瞬にして塩と化しました。
ほんの僅かの差で光から逸れ、残った死者には、バンッ、バンッと鋭い銃声と共に弾丸の雨が降り注ぎます。
瞬く間に、湧き出した死者の群は掃討されました。
「片付いたな」
カラン、と。心地良い音を響かせて剣を鞘に納め、馬上の人影は、斜め上を見上げます。
「援護をありがとう、銃士殿」
「ああ」
商店の張り出した庇の上。長銃を構えていた銃士は、そこで警戒を解きました。
「もうこれで最後だろう。じきに夜が開けるはずだ」
眼下で、白馬から飛び降りた冬の宮の騎士が空を見上げます。
「一回一回は大した難敵でもないが……。最近、頻度が高くなって来たな」
夕暮れの街に訪れる〝夜〟と、死者の軍勢。
それは〝終わり〟に抗う女神と、その力によって繋ぎ止められている最後の宮殿を滅ぼす為の、軍勢でした。
〝神様〟が、それを差し向けて来るようになったのは、少し前からの事です。
初めこそ、頭部を潰す以外では死なぬ死者達に戸惑いはしたものの。死霊の系統に連なる化物に効く白い魔法が有効と気付けば、歴戦の勇者達にとって対処はさして難しくありませんでした。
ただ問題は、その侵攻の訪れが、徐々に徐々に、その頻度を上げていることです。
「前回は、三日前だったか……」
銃士は辺りに積もった雪のような塩を見下ろして呟きました。
初めの頃は、月に一度。
それが徐々に徐々に、二十日に一度、十五日に一度、十日に一度……。
襲来の周期は、確実に、縮んできています。
「困ったものだな。現状、敵の本拠も不明では、迎撃以外に打てる手も無い」
言葉の割には困った様子もなく、騎士が答えました。
そうして、馬の鼻面を撫でると、行け、と宮殿の方角に向けて押し出します。
「……何をしている?」
「ああ、大丈夫だ。訓練してあるから、ひとりで帰れる、あの馬は」
「なぜ先に帰すと聞いている」
「貴殿は徒歩だろう?」
自分だけ馬上で帰るのも、と笑う騎士に、銃士は不機嫌に眉を寄せます。
「俺は暫く、ここで夜が開けるまでは様子を見る」
暗に、馬上も徒歩も関係ないと返すと。
「では、俺も少し留まるのが良いだろうな」
騎士は器用に、そこらに転がっていた樽や木箱を踏み台にして、銃士のいる庇の上まで上がって来ました。
「先に言うが、義理ならば不要だ」
銃士は銃の調子確認する為、立ったまま手元に視線を落としました。
「かつてお前に仕えた兵士達ならば、お前に労を共にされれば士気も上がったのだろうが」
今、その必要はないだろうと、素っ気なく首を傾げます。
「お前の行動ひとつで、俺の士気は上下しない」
皮肉でも拒絶でもなく、事実として、銃士は肩を竦めました。
「神殺しにも新しい世界とやらにも興味はないが、始めた戦争は必要なだけ熟す」
「もちろん、貴殿がそうなのは承知の上だ。だが、これは義理ではなく実利だ。仮に、まだ敵がいた場合、戦力は揃っていた方が良い」
立っていた銃士の横に腰を下ろして、騎士は肩を竦めました。
「私は大量掃討が出来るが、何しろ直線上に敵がいる必要がある。最も良い位置に切り込むには、貴殿の援護が必須だ」
その出処さえ知らねば純白で美しいとさえ見える、塩の積もった眼下を見下ろして。
騎士の白金の髪は、墨色の空の下でこそ一際に艶やかに、柔らかに光を反射します。
その姿は、いつもの冬景色の中と同じ、神聖ささえ感じる静謐さや穏やかさを湛えていました。
「一方、貴殿は敵の攪乱、一点狙いの正確な攻撃は出来るが、大量掃討には向かない」
だから組になっているのだろう、と。
騎士は不意に銃士を振り仰いで、微笑みます。
「ならば、夜が開けるまでは揃っているべきじゃないか?」
嫌味の無い正論でした。
説き伏せる気も、相手の意志を曲げさせる気もなく、ただ自分の意見、自分の行動の根拠は、しっかりと主張するし、相手に害はないのだから譲らないという姿勢。
「好きにしろ」
これで僅かでも嫌味があればと、銃士は意識の端で取り留めなく考えました。
これで僅かでも嫌味があれば、こちらを説き伏せる気や、自分こそが正しいと言わんとする気配があれば、それは正論であるからこそ尚更に不快感もあるのだろうに、と。
けれど、この騎士にはそういうものがないのです。
この騎士には、いつでも、嫌味や悪意、邪気というものがありません。
他者の心象に怯えて、自身の主義主張を取り下げる事は決してないくせに。けれど他者の心境は常に考慮し、尊重しているのでした。
だからこそ、正々堂々として、決して嫌な気がしないのです。
(……生まれついての王とは、こういうものなのか)
寛容は王者の徳だと、どこかで聞いたことをふと思い出し、銃士は呆れと憐憫の混ざった苦い納得をしました。
(寛容。なるほど、王の寛容か)
自分の意志を曲げぬくせに、他者の意志も当然のように許容する。その在り方こそは、王の寛容と呼ぶに相応しいように思われました。
ならば王とは、真の王とは、何と歪で、見ているこちらが吐き気を催すほど高潔で、故に哀れな生き様なのかと、銃士は音もなく舌打ちします。
(そんなものは、茨の道だ。他者を否定せず、踏み台にせぬまま、それでいて正義を通し続けるなど奇跡に挑むようなものだ)
しかし、それでも挑むというなら。息をするかのように、その最も困難な道をこそ進む者が王であると言うなら。
「ああ、あの軍師が取り憑かれたのはこれか……」
「ん?」
ぼんやりと呟くと、騎士は怪訝に首を傾げ、それから、ポンポンと自分の横を叩きます。
「座られてはどうか?座ったくらいでは、視界の広さにさして不利はないだろう?」
穏やかな声。
夜闇の中、響くそれは心地良くて、ともすればいつか聞いた子守唄のような懐かしさと慕わしさがあります。
この声の聞こえる場所は、きっと安全なのだと。
思わず思いたくなるような、それは守護者、稀代の名君の声色。
「……竜退治が懐いたわけだ」
「竜退治?」
「最近、お前に懐いているだろう……」
横に座り、自分の膝に頬杖をついた銃士は答えました。
いつからか、常春の庭の少年は、この冬の宮の騎士の後をついて歩く事が多いのです。
(まるで軽鴨の雛か)
侮る意図でもなく、ごく自然に、銃士はそう思いました。
ひょこひょこと、自分より背の高い騎士を追い掛ける少年の姿は、誰が見ても微笑ましい雛鳥に似ていたのです。
砕けた銃士の魂も、それは感じ取っていました。砕けたといえど、その根本が輝かしい勇者であればこそ、その安らかと言える光景には、銃士も知らず目を奪われていたのです。
夜闇の中から見上げる星の光のようなものでした。
見上げるだけ。
見上げたところで、もはや掬い上げられる事もなく、それを銃士自信も望まぬほどに、深く澱んで、砕け散った魂でも。
それでも、見上げれば光があると。
自分は確かに絶望していても、いまだ絶望せぬままの、希望の中にいる人々がいるのだと、その光景を見上げる時には、確かに感じたのです。
絶望は癒されないとしても。
砕けようとも勇者であるその魂にとって、その光景は、美しく、尊いものでした。
「竜退治は、貴殿にも付いて歩きたいようだがな」
ふふ、と聞こえた笑い声に振り向くと、騎士は肩を竦めます。
「銃士のにーちゃんは?来ないのか?と、彼はよく言う」
その言葉に、パチリと、銃士は目を瞬きました。
「……なぜ?」
知ったことか、と。
いつもなら口にするだろう声は喉の奥で別の言葉に取ってかわりました。
「貴殿に構いたくて仕方ないのだろう」
ふふ、と騎士は笑いながら答えます。
嫌味の無い、どこまでも心地良い声と気配のまま。
それが思わずと、銃士の口すらも軽くしたのでしょう。
「……知ったことか。懐かれる事をした覚えはない」
吐き捨てるように、それでも無視することなく会話に応じてしまった銃士に、騎士は再度笑いました。
「林檎を。兎型に切って見せたのだろう?」
「……強請られて面倒だっただけだ」
「ちなみに、私は上手く出来なかった。耳が折れてしまう」
「……お前が何故、そんな事をする?」
「竜退治が、私や軍師殿もやってみろ、と。ああ、軍師殿は上手かったぞ。兎どころか、彫刻のような白鳥を切り出していた」
「白鳥……」
この状況下で、歴史に名を残すような勇者が三人も揃って何をしているのだ、と。銃士は呆れました。
そうして呆れながら、僅かに、本当に僅かに、自分の口の端が、上向きに曲がる事に気付いたのです。
ひどく、穏やかな気分でした。
絶望の底から見上げる、希望の中にいる人々。
その優しい営みと、それを語る、静かで落ち着いて、優しい騎士の声。
遠い遠い日の記憶が脳裏を過ぎります。
夜番の日、銃士隊の詰所で、同僚と過ごした時間。
寝かし付けてきた弟や妹の事を、やんちゃで困ると零す銃士に、ケラケラと笑って温かい飲み物を出してくれた親友の面影。
そうして互いに他愛なくて下らない話しをしながら、夜が開けるのを待つのです。
それが二度と戻らない事を思い、ぱきぱきと、銃士の魂は更に細かく、細かく砕けました。
けれど、魂が砕けるほどの痛みを伴うとしても、追憶はひどく温かく、愛おしく、一度漏れ出せば止まりません。
溜息と共に、銃士は視線を伏せました。
「……どうされた?」
「いいや」
静かな騎士の問い掛けに、首を左右に振ります。
懐かしく温かい追憶を視れば視るほど、魂は砕け、銃士の中の怒りは深まるばかりでした。
それなのに、同時に少しだけ、安らぎがあるのです。
この騎士との会話は、そういうものでした。
(万民の守護者、救いの君)
まさしく、そういうものなのでしょう。
この目の前の騎士、救世の勇者の本質は。
善き人も、悪しき人も。
この勇者の周囲には安らぎを見出さずにはいられないのです。
誰もが、そこに最も慕わしく愛おしい日々を思い出し、あるいは、この王ならばそれを永遠に守護してくれる、くれたのではないかと、思わずにいられない。
そして何より実際に。
この勇者は、あらゆる人を守らずにはいられないのです。
それを歪で狂気的な本質だと、銃士は思います。
しかし、そんな銃士ですら、現に安らぎを見出しているのです。
救われぬはずのけだものすらも、その声を聞く瞬間には、遠吠えをやめて微睡むことができるのでした。
「……〝神様〟とやらに興味も、敬意もないが」
銃士は視線を空に向けます。
死者の退けられた場所には、朝が来ようとしていました。
黒は薄れ、青を増します。そうして青はいつか紺に変わり、藤と淡紅色が蕩け始めるのです。
最後に雲の輪郭をなぞるように金色が浮かび上がり、続けて、その光の線は空全体へと走り広がります。
金色の夜明け時は僅か数秒。
後には真っ青な朝。
「……だが〝神様〟とやらは、ただひとつ、随分と優れた者を作ったな」
銃士は立ち上がって長銃を肩に背負いました。
夜は去り、あと幾許もなく、あの朝の空は永遠の夏の夕暮れに戻るでしょう。
歪な宮殿に戻ろうとする銃士の横で、騎士も腰を上げました。
「ああ、まったくその通りだ」
穏やかに、微かに少年のように弾む声音で。
ふと振り向いた銃士の前で、騎士は眩しそうに笑いながら空を見上げていました。
「俺も〝神〟が作ったものの中で、夜明けが、何よりも一番好きだ」
世界中の夜明けを、人の子の安らぎと希望を。
全て集めたような声で笑う青年につられて。
「……ああ、夜明けか」
銃士は再び口の端を上げました。




