星の葬送をあやす
残光を映す朱色と、洗い立ての空を映す青。
洛陽の窓と、夜明けの窓が交互に並ぶ、長い長い廻廊でした。
その床には、窓に映る空と同じ色の光が落ちて、真っ暗な影の中、等間隔で同じ形の模様を描きます。
黒と、青と、赤と。
三色のみの世界は、ともすれば壁と床が逆転しても分からぬような、実は今立っている足元こそ壁であり、真横に垂直に立つこの平面こそが床であるような。そんな心元ない想像を掻き立てました。
光の竜の神殿も、こんな場所だった、と。
まだ若い竜退治の少年は思いました。
七色の虹のようなものが、真っ暗な空間の中にキラキラと不規則に現れては消える神殿。
そんな場所で、少年は最後の竜を……光の竜を、倒したのです。
あの時より光の色数は少なくとも、この心元ない気配、胸の締め付けられるような郷愁とも憂愁ともつかない不安は、確かにあの場所に近いように思われます。
今更に竜を恐れる事はありません。
しかし、どうにも物寂しい、人の声の恋しくなるような光景には慣れなくて、知らず、少年の足は早くなりました。
行けども行けども、この廊下から出られないような。
永遠に、この三色の世界に閉じ込められたような不安が、チリチリと胸に這い昇って来ます。
それは恐ろしいようでいて、けれどどこかホッとするような、不思議な不安でした。
あるいは、その不安は、美しく、恐ろしい場所への憧憬と畏怖のようでもあって。
自分の足音以外に何も聞こえない廊下。
パタパタと響くその音が、知らぬ間に小走りにまでなっていた事を、ハッと自覚した瞬間。
「竜退治、どうされた?」
人の声が、美しくて恐ろしい異界を、パリン、と割りました。
「あ……」
振り向くと、少し後、窓と反対側。
窓と反対の壁についた扉を開けて、冬の宮の騎士が出て来ます。
「……騎士のにーちゃん」
立ち止まって呟いた瞬間、パッと世界に色が増えた気がしました。
真っ黒だと思っていた壁側には、よく見れば影になっているなりに、扉や壁紙の模様、装飾品が付いていることが、その黒の濃淡で伺えました。光を落としている平坦な穴に見えた窓も、急に窓枠の凹凸がハッキリと存在を主張し始めたようです。
「あ……いや、俺……」
まるで一人で留守番をしていた小さな子供のように。見慣れたはずの何でもない光景が、急に恐ろしく見えていたのだと。
ハッと我に返って、少年は気まずく頭を掻きます。
「その、うん……」
「ああ、急いでおられたのか?それならすまない、呼び止めたが、特に用があったわけではないんだ」
騎士は困ったように微笑みながら、少年の方へ寄って来ました。
「あ、いや、違う違う、急いでたっていうか……、むしろアンタのこと探してたんだ!」
咄嗟に、少年は小走りで自分からも騎士の方へ距離を詰めます。
あと三歩の距離まで寄って、すぐにも騎士に触れられる位置に行くと、何となく、肌に触れる空気すら温かくて穏やかに変わった気がしました。
ほんの僅か、残っていた心地よくも恐ろしい畏怖は、そこでトロリと闇に溶けて消えました。
「私に何か用が?」
「軍師のにーちゃんがさ、明日の軍議の時間、一時間遅くしたいって」
「伝言か、わざわざありがとう」
騎士は少年の言葉に柔らかく頷きます。
銀の髪に、キラキラと、青と赤の光が反射していました。
遠くで、誰かが弾く鍵盤楽器の音が鳴り初めています。
美しいけれど、何となく寂しい曲調に、再び不安が胸に昇りかけて、少年は慌てて口を開きました。
「あと、もうすぐ夕飯だぜ」
「ああ、もうそんな時間か」
騎士は頷いて、すぅと視線を窓に向けます。
「この区画にいると、時間の感覚がなくなるな」
世界の様々な残滓を継ぎ接ぎした宮殿。その中でも、窓ごとに交互に異なる時間を映すこの区画は、確かに時間というものの概念を麻痺させる場所でした。
「……俺、あんまりこの辺り好きじゃない」
ポツリと、思わず呟いた少年を。
「ほぅ?」
騎士が振り向いたので、何となく先を促されたような気になり、少年はボソボソと続けます。
「ここ、何となく……寂しくならねぇ?なんていうか、心臓とか肺の辺りがギューってなるっていうか……」
言葉にし難い感覚を、何とか伝えようと、少年は片手をブンブン振りました。
「夏の夕方に、ひぐらしの鳴き声を一人で聞いてる時みたいな。冬の夜に、暖炉の燃える音を、一人で聞いてる時みたいな。そういう、なんか、息苦しくて気持ち良くて、モヤモヤする感じ」
「ああ、なるほど」
ふふ、と騎士は笑って、再び視線を窓に向けます。
「星の歌を聴いていたのか、貴公は」
「星の歌?」
聞き返すと、柔らかく笑ったまま、ああ、と頷きました。
「私の時代には、そう言ったんだ。貴公が言ったような気分……寂しく、息苦しく、どこか遠くへ行きたいのに、ひどく懐かしくて安堵するような……。そんな時、星の歌を聞いた、と」
「へぇ」
星の歌、と呟くと、少年は何となく何かが腑に落ちたような気がしました。
夏の夕暮れ、ひぐらしの声。冬の雪夜、爆ぜる薪の微かな音。
確かに、そんな遠く愛おしく、寂しい音達に名前を付けるなら、そう呼ぶのが相応しいように思われたのです。
「さて、では夕飯時ならばこのまま食堂へ行こうと思うが」
また振り向いて、騎士は首を傾げました。にこりと微笑んだ姿に、朝の青と夕の赤、そして、夜の黒が少しずつ落ちています。
「貴公も行くだろう?」
差し出すように。ほんの少し上げられた手。
「あ……」
その瞬間に、少年の胸に込み上げたもの。
ああ、それは知っている、と少年は思いました。
ああ、これは間違いようもない。
これは、懐かしさだ、と。
少年は、思いました。
遠い昔、朧気に笑う父の記憶。
幼い日に手を繋いで家路を辿った、兄の手の平。
騎士隊の小隊長に頭を撫でられた時の、擽ったさ。
憧れた王国最強の騎士に、対等に呼び掛けられた瞬間の高揚。
少年の記憶の中にある、頼もしく、憧れ続けた大人達の面影は、その瞬間、そこに確かに鮮やかに蘇りました。
「 」
知らず漏れた声が、過ぎった面影の誰を呼んだのかは、永遠に、少年にもわからないでしょう。
あるいは、誰の名前も、もはや音としては発していなかったのかもしれません。
「……もう、いないんだよな」
ぽつりと、無意識にそんな声が漏れました。
もう、いないのだ、と。少年は不意に思いました。
父も。兄も。
尊敬していた隊長、憧れた先達。
大きな手の平、追い掛けた背中。
もう、いないのだ、と少年は目を瞬きます。
世界を取り戻したとしても。
この歪な三色の世界、継ぎ接ぎの箱庭には。
もう、〝終わってしまった世界〟の、彼等は帰って来ないのです。
「……みんな」
追い掛けた大人達だけではなく、並んで走り続けた仲間も。
もう帰って来ないのだと。
とっくに知っていて、納得したつもりでいて、けれど、それはふとした瞬間にこうして少年の胸で膨らんで、どうしようもない重くて苦しい何かになるのでした。
星の歌を聴いた愁いに似て、けれどそれはもっと明白に痛みを伴う寂しさです。
ならば、これは星の葬送を視たとでも言うべきなのかもしれないと、冷たく冷えて深い穴に落ちていくような意識の底で、少年は思いました。
「竜退治」
「あ……いや、うん」
騎士に呼び掛けられて、少年はハッと我に帰ります。
「あ、ごめん、なんでもない」
慌てて、少年は微笑みました。
「なんか、ちょっと騎士のにーちゃん……その、騎士団にいた頃の、先輩に、似てたから」
思い出してしまったのだ、と。頭を掻きながらボソボソと誤魔化すように早口に。
「ちょっと、さ……。ほんとに、ちょっとだけ……。こんな廊下だからかな……?ちょっとだけ……懐かしいな、って……」
それだけだから、と。
少年は笑って手を振りました。
「今日の夕飯なんだろな?俺、肉がいいな」
さぁ行こう、と少年が手招くと、騎士は一瞬の間を置いてから、一歩、歩み寄って来ます。
そうして。
「今日は、魚だ」
「え」
ポン、ポン、と。
大人の男が、年の離れた弟にでもするようなぞんざいさで。
ぞんざいな、穏やかさで。
少年の頭を叩いた騎士は、ゆっくりと歩き出しました。
「昼に、食事係が魚を釣っていたから、きっと魚だ」
少し歩いて振り向いて、立ち尽くす少年を手招いて。
「ラルフ」
手招いた、その手を、騎士は微笑んで少年に差し出します。
「俺も肉の方が良い。だから明日は、一緒に鹿でも狩りに行こうか?」
継ぎ接ぎだらけの、この箱庭の森にも、きっと鹿は確かにいるはずだから。
そう笑う騎士を、少年は、ひと呼吸の間じっと見詰めました。
「ラルフ」
遠い昔に聞いた、誰かの、大好きだった誰か達の声と、同じ音。
こくん、と、少年は、無言で一度頷きます。
そうして、こくん、と。もう一度、肩が揺れるほど深く、また頷きました。
「……ん……うん、いく」
掠れた声で答えて、小走りに横に並ぶ少年の頭を、視線を前方に向けることで、見ないまま。
雑な仕草で、穏やかに、もう一度、騎士の手が叩きます。
物寂しい鍵盤楽器の音色は、まだ遠くから響いていました。
継ぎ接ぎだらけの歪な箱庭の、三色に包まれた寂しい廻廊。
寂しい音楽の他には、二人分の足音だけが響いていました。
「……にーちゃん」
「ん?」
細く呼び掛けた少年の声に、騎士は振り向かないまま、それでも耳を傾けていました。
「……俺、勝ちたい、神様に。もう、なにも、ぜったい、持ってかせない」
取り戻したいとは、言いませんでした。
言わない、それはもう戻らないと。そう覚悟できるほどには、少年は勇者で。
誰かに、その覚悟を聞いていて欲しいと思うほどには、少年でした。
「……そうだな」
騎士は振り向かないまま、応じました。
俯いて肩を揺らす少年の顔を見ないまま。
けれど、確かに隣で応じました。
星の歌が響く廻廊。
星の葬送を視た少年は、それでも。
こうして応えてくれる声があるならば。
愛しいものを取り戻すためではなく、今、手元にある全てを抱えて前に進むために。
戦える、戦うのだと、そっと、誓いました。




