第9話 輪郭のない憧れ
雨は、完全に上がっていた。
たまに思う。雨の降りはじめ、外を歩いているときに漂うペトリコールの匂い――あれに触れると、たまらなく寂しさに襲われることがある。
特別な記憶があるわけでもないのに、不思議なものだ。
昨夜は久しぶりに運動をしたせいか、体に少し疲労が残っていた。
そのため、昨日は閉店するとすぐに帰宅したのだった。
――翌朝。
私はいつもの時間に店を開けると、奥の棚の前に立った。
昨夜、一番奥に置いたノートと封筒は、変わらずそこにあった。
『続きを考えてみてほしい』
あの一文が、ずっと頭のどこかに残っている。
奥さんは、実際に誰かと結ばれ、「夫婦」という形を生きた人だ。
その人が余白に残した言葉は、どれも「完成した関係」を知っている者の目線だった。
文句のように見えて、どこか惜しみがある。理想と現実の間で、微調整を繰り返しているような筆致。
私にはその感覚が、まだない。
恋愛をしたことがない。誰かを好きになり、選ばれ、一緒に生活を始めた経験が、ゼロだ。
それでも、胸の奥が少しだけ動く。
「こうすればよかったのに」と誰かが本気で思える関係を、自分もいつか持つことがあるのだろうか。
経験がないからこそ、純粋に考えてしまう。
恋愛とは、相手を思い通りに動かすことなのか。
それとも、思い通りにならない部分を、そのまま受け入れることなのか。
妻の書き込みを追っていくと、初期の本より後期の本の方が、わずかにトーンが優しい。
理想を手放したわけではない。ただ、相手の不完全さを、少しずつ許す方向へ傾いていったように見える。
私はノートに触れた指先を、静かに離した。
憧れは、まだ輪郭がない。
ただ、このメモを読んでいると、輪郭のないものが、少しだけ形を持ち始めそうな気がした。
奥の方で、荷物を置くような音がした。
振り返ると、大島さんがすでに店に入ってきていた。
軽く会釈を交わし挨拶を終えた直後だった。ベルが鳴った。朝一番の客だ。
「おはようございます」
入口に立っていたのは、常連の高瀬さんだった。いつものように、少し控えめな笑顔を浮かべている。
「おはようございます。早いですね」
「今日はこの先まで用事があって。開いているかと思って」
高瀬さんは店内を一通り見渡してから、いつものコーナーへ向かった。文芸の棚だ。
私は書き込みのある恋愛小説を手にしたままレジに戻り、ふと奥の棚を見た。
あのノートのことは、まだ誰にも話していない。
高瀬さんは文芸棚から持ってきた本を手にとり、レジの脇にある私が置いていた恋愛小説を見つめながら、静かに尋ねてきた。
「薄鉢さんは、どう思うんですか。人が誰かを好きになるとき、その人自身を好きになっているのか、自分の理想を重ねているだけなのか」
私は少し間を置いてから、脇に置いた本の表紙へ目を落とした。
「小説の中だと、最初は理想を重ねていることが多いです。この人なら分かってくれる、この人ならこうしてくれる、って。でも、話が進むにつれて、相手の思っていたのと違う部分が出てくる。そこで終わる人もいれば、その違う部分も含めて好きになる人もいる」
少しだけ、声を落とす。
「後者の人の気持ちが、私にはまだよく分かりませんが……」
書き込みを残した人は、どちらかというと後者の方に、少しずつ寄っていったように見える――そう心の中で思いつつ、私は言葉を補った。
「……本の中の話ですが、私はそう感じるんです」
高瀬さんは脇の本から目を離し、じっと私の顔を見た。
私は軽く目を伏せた。
つづく




