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恋に憧れ  作者: 一雲一人


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第10話 余白のページをめくる音

高瀬さんはしばらくの間、何も言わなかった。

ただ、手の中の文庫本を見つめたまま、静かに呼吸をしている。

窓の外では、ようやく雲の切れ間から青空が覗き始めていた。

アスファルトの乾いていく匂いが、微かに店内に流れ込んでくる。

「……そうですか」

ようやく紡ぎ出された声は、いつもより少しだけ低かった。

高瀬さんはレジのカウンターに置かれた本の端を、名残惜しそうに一瞥する。

「その人、きっと幸せだったと思いますよ」

「え?」

「自分の書いたものや、考えていたことを、誰かがこうして読んでいる。それだけで、書いた意味があったはずです」

高瀬さんの言葉は、どこか自分に言い聞かせるようだった。

私は思わず聞き返そうとしたが、その前に高瀬さんは柔らかな笑顔を浮かべた。

「これ、買います」

差し出されたのは、いつものように彼が選んだ一冊の小説だった。

会計を済ませ、紙袋を受け取ると、高瀬さんは出口へと向かう。

ドアの上の鈴が、チリンと軽やかな音を響かせた。

外へ出ていく背中を見送りながら、私はふと違和感を覚えた。

彼が店に来る理由。

熱心な読書家だから――そう思い込んでいたけれど、本当にそれだけだったのだろうか。

毎週何度も足を運び、私の薦める本を買い、そして時折、こうして私の考えをじっと聞いていく。

「気づくのが、少し遅すぎたみたいだな」

いつの間にか背後に立っていた大島さんが、カウンターにもたれかかりながら呟いた。

私は振り返る。店主の目は、どこかすべてを知っているような、呆れたような、それでいて温かい色をしていた。

「店長、今のって……」

「あいつが『あの方』の孫だよ。遺品整理のときから、あのノートのことはずっと気にしていたがね。まさか、お前がここまで深く入り込むとは思っていなかったらしい」

大島さんは肩をすくめた。

「あの箱の中身を『奥の棚に』って指定したのもあいつだ。お前に見つけてほしかったのかどうかは……まあ、本人に聞いてみろ」

私は言葉を失った。

高瀬さんが、あの女性の孫。

そして、あのノートや便箋に込められていた思いの続きを、私に託した。

「ほら、仕事中だぞ」

大島さんはそう言って奥へ引っ込んでいった。

静かになった店内で、私は自分の胸の鼓動が高鳴っていることに気づく。

恋愛なんて非論理的で、曖昧で、答えのないものだとずっと思っていた。

けれど。

――『続きを考えてみてほしい』

あの便箋の言葉が、全く別の意味を持って頭の中に響き渡る。

物語の続きは、本の中だけに存在するわけではない。

現実のページをめくるのは、他の誰でもなく、自分自身なのだから。

私はレジを離れ、奥の棚へと歩いた。

そこには、ノートが置かれていた場所と、私が手に取っていた本が収まるはずの隙間があった。

私は一冊の本を手に取り、その表紙をそっと撫でた。

「……まだ、答えは出ないけれど」

小さく呟く。

それでも、ほんの少しだけ胸が高鳴る理由を、これ以上否定する気にはなれなかった。

窓の外では、春の光が新しい一日を鮮やかに照らし始めていた。



つづく

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