第11話 閉店前の判断材料
「いつも通り」の日々に戻るはずだった。
あの日、高瀬さんが店を出て行ってから、数日が過ぎていた。
私は相変わらず、朝一番に店を開け、棚を掃除し、本を並べる。
ただ、ひとつだけ変化があった。
カウンターの隅、私が作業の合間に開いている本のジャンルだ。
これまでは海外の本格ミステリーが主だったが、ここ最近は、あのノートの影響もあってか、恋愛要素のある文学作品や小説を脇に置いてめくることが増えていた。
(……やはり、私にはまだ分からないな)
登場人物たちの感情の揺れ動きや、不合理な選択。
なぜここで素直になれないのか。なぜわざわざ遠回りをするのか。
論理的に考えれば非効率極まりない行動の数々に、私は小さく首を傾げる。
時計の針を見ると、午後六時四十八分だった。
閉店時間まで、あと十二分。
店内には他にお客様はおらず、大島さんもすでに奥の帳場で明日の仕入伝票の整理に入っている。
そろそろ外の看板を下げようかと思った、まさにその時だった。
チリンチリン、とドアの鈴が少し激しめの音を立てて鳴った。
「すいません! まだ大丈夫ですか!?」
飛び込んできたのは、息を少し切らした男だった。
整えられた髪に、仕立ての良いスーツ。手には革のビジネスバッグ。
大神正巳さんだ。
近くのIT関連企業に勤めている会社員で、この店に来るようになって半年ほどになる。
(……ほら、また来た)
私は心の中で密かに小さく息をついた。
この人が来ると、十中八九、閉店時間が少し延びるのだ。
大神さんは時間にきっちりしているタイプらしく、残業や仕事の区切りがつくと、この「閉店ギリギリの時間」に滑り込んでくる。
嫌な客というわけではない。むしろ上客だ。しかし、私の「一日の予定表」の終数が五分から十分ほど後ろにズレ込むのは事実だった。
「大丈夫ですよ、大神さん。まだ閉店前です」
「よかった……! 今日は絶対、この新刊の文庫化を買って帰りたくて」
大神さんは急ぎ足で店内の奥――文芸・ミステリー棚へと向かった。
迷いのない足取りだ。目当ての背表紙を見つけると、躊躇なくバッと一冊を抜き取り、そのままレジカウンターへと戻ってきた。
わずか数十秒。さすがは筋金入りの本好きであり、ミステリー好きだ。無駄のない動きには感心する。
「お願いします」
「はい。五百八十円になります」
私が丁寧にブックカバーをかけようと文庫本を受け取った、その時だった。
カウンターの脇に置かれていた本に、大神さんの鋭い視線が止まった。
昨夜から私が少しずつ読んでいる、古典的な恋愛小説の文庫本だ。
「……あれ? 薄鉢さん」
大神さんが不意に私を見上げ、少し不思議そうな、けれど興味深そうな目を向けた。
「最近、ミステリー読まないんですか? 前はレジの横、いっつも海外本格か新本格の文庫が置いてありましたよね」
そう尋ねてくる大神さんの瞳には、知的な探究心が光っていた。
私はカバーをかけ終えた本を紙袋に入れながら、いつものように淡々と、けれど少しだけ言葉を選んで答えた。
「読まないわけではありません。ただ……最近、少し気になる『謎』がありまして。それを解くための資料として、こちらを読んでいるところです」
「謎?」
大神さんが興味津々に身を乗り出してきた。ミステリー好きの血が騒いだらしい。
「どんな謎ですか? トリックの解明? それとも動機ですか?」
「いいえ。現象の解析です」
私は至極真面目に答えた。
「人が誰かを好きになるというプロセスの、合理的な理由についての解明です」
もともと静かだった店内が、さらにしんと静まり返ったように感じられた。
大神さんは目を丸くし、それから「なるほど」と呟いて、楽しそうに口元をほころばせた。
「それは……なかなか難解なミステリーですね。名探偵でも一筋縄ではいかない」
「ええ。実に理解しがたい問題です」
私が大真面目に頷くと、大神さんは革バッグを持ち直し、レジ越しにぐっと距離を詰めてきた。
「じゃあ、薄鉢さん。その謎解き、僕も手伝いましょうか? 僕、こう見えて人間の感情の動機を推測するのは得意なんです。……特に、あなたの身の回りのことなら」
爽やかな笑顔でそう言った大神さんの言葉の意図を、私は「彼も読書家として人間観察に自信があるのだろう」と受け止めた。
「ありがとうございます。では今度、効率的な解析アプローチについてご意見を伺うかもしれません」
私が事もなげにそう返すと、大神さんは一瞬呆れたような、けれどどこか嬉しそうな苦笑いを浮かべた。
「……本当、薄鉢さんは隙がないですね。じゃあ、また明日も来ます。閉店ギリギリになったらすみません」
「いえ。お客様が来てくださるのは店の利益になりますから」
「ふっ、そこも合理的だ」
大神さんは軽やかな足取りで店を出て行った。
鈴の音が鳴り止み、再び静けさが戻る。
(ふう、今日も無事に閉店だな)
私は時計を見た。午後七時三分。予定より三分遅れ。許容範囲だ。
レジの横の恋愛小説に目を落としながら、私は小さく息を吐いた。
大神さんのような話し相手ができるのは悪くない。本の話ができる常連さんは貴重だ。
しかし、その時の私はまだ知らなかった。
明日、この「閉店間際」の静かな古本屋に、もう一人の嵐がやってくることを。
つづく




